「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

板沢熊野

2007-02-25 23:40:24 | 熊野
                 
 とらねこさんからのリクエストにお答えして、平倉・板沢周辺の熊野神社ということで、板沢の駒形神社の南東にある熊野神社をアップ。この神社の側には、元JAとおのの組合長をされた方のお宅があるが、熊野神社の管理者はご多分にもれず、菊池さんである。
                 

 例のコピーには、板沢村には熊野は載っていない。修験羽黒派明楽坊の名はあるが、この方がどこを檀那場とした修験者であったかは今のところ不明。また、本日の熊野神社の経緯についても、まだ聞き取りをしていない。
 ただ、以前に掲載した平野原熊野・神明神社関連で面白い話を聞いた。例のコピーでは、両社の俗別当は同一人物であることを記したが、平野原神明神社は近くに住んでいる菊池さんが別当を務めているとのことで、このお宅には、昭和50年代前半まで、神様と近所の人達が呼ぶ方が定期的に滞在していたという。この方は、家相を見たり、身体についた「むし」(病)をとったりしたとのこと。また、近所に住んでいる大工さんに遠方の工事を頼んだりしたそうだ。これらのことから修験系か神職系の方であったということは容易に推察できるわけだが、この別当さんのお宅に滞在していたということから、かなり古い時代から、そういう慣わしがあったものと思う。平野原熊野の犬亦さんとこの菊池さんがどういう関係にあるのかは定かでないが、この近所の両姓の方々は親戚関係にあるようだ。もう少し、上郷に時間を割く必要がありそうだ。
                

 最後に、先般、五日市の倭文神社をとり上げたが、この境内に普賢神社が一緒にあり、その社、側面に建築にあたり寄進された方々の芳名が書かれていた。何気なくその画像を撮っていたので、この休みに確認していたところ、私の父親の名前を見つける事ができた。この話を母親にすると、鳥居の脇にある不動尊の社はうちで建てたものだと知っていたが、上の普賢については知らなかったという。何はともあれ、このように歩いていて今は亡き父を思い出すことになろうとは、これも神の思し召しか?

繋稲荷

2007-02-24 14:50:53 | 稲荷
                 

 上郷町平倉は曹源寺の南側山伝いの繋(つなぎ)地区にある。この地域は、小時田姓の2軒を除く全てが菊池姓の集落である。薄暗い杉木立の石畳を登ると社が鎮座し、日中でも太陽の光が届き難く、周囲の石には苔が生えている。

                 

  ●由緒●
 地頭福田氏が二戸郡鎮守の神として祀られていたものを、元禄16年(1703)10月23日、福田正兵衛政友が閉伊郡遠野平倉村綱木に三尺四面の堂宇を建立し、社領1石、供米1駄を寄進し勧請した時に始まるといわれ、遷宮導師成就院、別当庄右衛門なり。31年後の享保19年(1734)9月3日、福田甚兵衛与珍、堂宇を新たに建立奉納せり。時の遷宮導師東善寺宥将、この時境内に神木を造林せり。後、昭和30年、神殿を建立し現在に至る。宝暦(1751)以降の導師は蓮珠院(文政2年(1819)頃は蓮珠院高寛) 以上のとおり、社にある由緒書に書かれている。

                 

元禄16年は、南部氏が遠野に移り76年経ち、山谷観音が再興され、一日市の宇迦神社が建立され、海上の西教寺が現在地に移った時代でもある。遠野の経営が定着し、2,3代の代替わりになり、家臣も領民も落ち着いた生活をしていた時期でもあるのだろう。
 31年後の享保19年は、小友上郷火石金山・小友上郷小沢山金山・外山鳥沢金山・小友長野荷沢みよし金山と次々に金山開発が行なわれた最高潮の時期と重なる。

 この「つなぎ」は、昔、気仙郡下有住から蕨峠を越えて来内を通り、丑坂峠を越えて遠野に至る間道があり、馬を繋ぎ、一休みした場所であったとも言われる。この神社の対岸に刃金館を望むが、意味がなくこの場所を選定したのではないだろう。気仙・小友と青笹・土淵そして横田城下を結ぶ主要なルートとなる本当の意味でも「つなぎ」の場所だったのだと想像できる。
 また、導師の蓮珠院は青笹町瀬内の蚕祭文(しらあのさいもん)で有名なお宅の先祖であり、羽黒派の修験者である。この祭文は遠野市指定文化財になっており、宝暦年間のものである。

新里愛宕神社

2007-02-22 00:20:50 | 愛宕
 画像は、下組町はずれ新里愛宕神社。久しぶりに訪れると、ただでさえ、きつい石段が、ずれて、尋常では登れないほどになっていた。(その為なのか、階段下に仮の社が設えてあるのだが)階段を登りきると、空堀のようになった通路を通ってやっと神社に達する。おそらく、遠くない将来、この立派な神社の存在は忘れ去られるのではないかと思いながら眺める。
 
 この神社、私自身、実は、よくわからない。遠野物語拾遺第64話に「ある時に、何某家の火事があったとき、神明の大徳院の和尚が出てきて、町内の者が来る前に火を消した。翌朝に失火元の家で礼にいくと寺では誰も知らないという。それで、愛宕様が消したとわかった」という話である。
 遠野旧事記では「横田村の愛宕も、遠野殿時代の勧請と言い伝えられている。直栄様が八戸から入部されて以来、大破していたお堂を延宝2年(1674)に修復。地蔵像と石段は、正徳6年(1716)に新町の両川覚兵衛が寄進した。」とある。

 現在、ここは、綾織町新里に入っているのだが、同じ遠野古事記・旧事記の作者である綾織縁の宇夫方広隆が、場所の名前を間違えるはずもなく、かつて、ここは、横田村の内だったのだろうか?例の書(コピー)を見るが、新里村ぶんには、愛宕社はない。綾織村と遠野城下横田村ぶんにあるがどちらのものか特定できない。

                    

 この神社に登ったのは、他でもない。以前に綾織羽黒派頭巾頭の慈聖院縁の月山神社の社が、この愛宕さんに移されたと記したが、その確認のためである。愛宕神社隣に、ご覧のような小さいながらもしっかりとした社があった。名前を書いたものは見つからなかったが、おそらく、これであろう。慈聖院がこの地域でずばぬけた修験者であった証のひとつに、岩手県指定文化財でもあり、遠野市指定文化財にもなっている「笈」(おい)がある。これは、修験者が背中に背負う道具である。(弁慶が旅するときに背負っている木製のリュックサックのようなもの)室町時代の作である。また、両川覚兵衛が寄進した地蔵像は、神仏分離令により、現在は新町の常福寺にあり、これも遠野市指定文化財になっている。

 遠野修験道支配の本山派大徳院に繋がる者が、愛宕神社を霞場としていたような気がするのだが、そこに、なぜ、対する羽黒派慈聖院縁の社を移したのか不思議である。

 それにしても、仮の社を階段下に造ったからといって、それで良いのだろうか?
登ってこそ、遠野を感じるのであり、あそこから見る愛宕橋もなかなか良いのだが・・・。まして、今なら、熊もヘビーもいないから安心なのに。 笑

 

五日市倭文神社

2007-02-18 15:39:41 | その他
 昨日、とらねこさんから教えて頂いた駒木伊豆権現に早速足を運ぶ。よくあることだが、この社の南側の道路は良く通るが、問題意識があるのと、そうでないのでは大きな違い。頭を深く下げながら参拝する。中にある御札には確かに明和の文字が見えた。とらねこさんに感謝々。

                   

 近くにある家を見渡すと、ご覧のような家紋の蔵が2棟。どちらも大橋家である。ちなみに、画像の蔵をお持ちの方とは、仕事上のお付き合いがあり、これも縁。
 さて、一明院にて若干ふれた喜楽院であるが、この修験者がいた場所が五日市であり、その喜楽院が別当を務めていたのが下の倭文(しどり)神社である。地域では御文殊様といい8月20日に例祭が行なわれ、柏崎しし踊りや似田貝・飯豊神楽が奉納される土淵町の旧村社でもある。

                   

 この喜楽院は、平泉藤原氏の一族であったと伝えられており、阿曽沼時代からここに住み、年中行事を指導してきたようである。この喜楽院の弟、長圓坊が、慶長年間に栃内に別家となり、北川正福院をはじめ、現在まで続く修験者の家となる。栃内の北川氏は厚楽川の水路を治して柏崎の湿地を開田することに尽力するなど、修験者の役割のひとつとしての開拓の一端を知ることができる。別家筋の記録は現在もはっきりしているようであるが、本家筋である五日市北川家については、一時、この場所を離れたこともあり、詳細のはっきりしない部分があるようだ。この北川山伏の活動状況がわかると、五日市をはじめとする土淵の歴史の多くの部分が判明するのではないかと言われている。

駒木「一明院」

2007-02-17 15:32:08 | 修験
 本業が忙しく、久しぶりのUP。我家の菩提寺は大工町の大慈寺だが、松崎町海上から同町光興寺に移り、現在地に落ち着く。八戸南部氏の菩提寺として一緒に移ってきており、清心尼公の墓も当初は海上にあったと言われている。大慈寺同様に善明寺も同町養安寺跡に一時居たようである。
 さて、その大慈寺が当初居た場所には、後に一明院なる修験者が住んだとされ、その一明院居住の地は、その後、屋号「坊様」という方が住むことになる。(その屋号は、一明院が住んでいた家に由来する)

                    

 一明院を例の書にて確認すると延享3年(1746)羽黒派修験連名帳ぶんにその名が見える。ただし、どこの社を霞場としていたのかは、わからない。また、この一明院が何代続いていたのかも不明であるが、この一明院の墓が、現在福泉寺の大観音西南にあると知り、訪ねたところ、画像のように、白山社、山の神と共に並んでその社は確認できた。(但し、墓は未確認)霞場(羽黒派修験者の管轄地)としていたはずの修験者がなくなった、三つの社を福泉寺にて手厚く、保護しているものと推察する。

 また、例の書によると、駒木村ぶんとして、十一面観音~弥平治。愛宕~清十郎。伊豆権現~三太郎。八幡~孫右衛門。葉山権現~長左衛門。ニ亘観音~別当なし。以上が掲載されており、十一面観音は七観音の松崎寺、八幡は館の八幡、愛宕~福泉寺境内愛宕神社=とらねこ氏縁を指すものと思われる。この中で、最も興味深いのは、伊豆権現であり、どこにあるのだろうか。(あったものなのか)青笹にも同じ伊豆権現があったことが記載されている。