「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

遠野 春の花

2011-05-19 19:17:37 | 物語

遠野物語99話

 土淵村の助役北川清といふ人の家は字火尻にあり。代々の山臥にて祖父は正福院といひ、

 学者にて著作多く、村のために尽くしたる人なり。清の弟に福二といふ人は海岸の田の浜へ

婿に行きたるが、先年の大海嘯(おおつなみ)に遭ひて妻と子を失ひ、生き残りたる二人

子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初めの月夜に便所に起き

出しが、遠く離れた所にありて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その

霧の中より男女二人の者の近寄るを見れば、女はまさしく亡くなりしわが妻なり。思はず

その跡をつけて、はるばる船越村の方へ行く崎の洞ある所まで追ひ行き、名を呼びたるに、

振り返りてにこと笑ひたり。男はと見ればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。

自分が婿に入りし以前に互ひに深く心を通はせたりと聞きし男なり。今はこの人と夫婦に

なりてありといふに、子供は可愛くないのかといへば、女は少しく顔の色を変へて泣きたり。

死したる人と物言ふとは思われずして、悲しく情けなくなりたれば足元を見てありし間に、男

女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。追ひかけて

見たりしがふと死したる者なりと心付き、夜明まで道中に立ちて考へ、朝になりて帰りたり。

その後、久しく煩ひたりといへり。

 

 

時代から推察すると明治29年6月に起きた三陸大津波の際の話だと思われる。

この年は8月にも陸羽地震があり、前後5年間は、

根室・東京・庄内・茨城、宮城・宮崎・青森と各地でM7クラスの地震が頻発していた時代。

 

昨日、山田町船越へ行く機会があり、ふと、この99話を思い出す。

 

さて、さて、遠野は春、真っ盛り

 

遠野ぶれんどの皆さんが、花っこやミラネーゼを撮っているのに刺激され、

 

早起き出来ない寝坊スケは、我が家の花撮り

 

名前を聞いても覚えられない・・・・・

 

興味の問題ではなく・・・・

 

歳のせいにする・・・・笑

 

 


駆込寺

2008-01-27 22:55:44 | 物語
 綾織小・中学校の北側にあるお寺さん。浄土真宗大谷派巌瀧山聞称寺。時代は定かではないが同町新里の宮ノ目にあった阿弥陀堂が前進で、順了尼という女性による開山とされ、東本願寺から号を受け、現在地に移ったのは、明暦4年(1658)。 善明寺が養安寺から大工町に移り、万通寺も四日市から現在地に移った2年後、そして善明寺に五輪塔が中川原から移された時代、大慈寺が光興寺村から大工町に移った時代と同年代のことである。


(光興寺と宮ノ目との間、角鼻より落合を望む)

 この聞称寺に関わる話のひとつに、宮守村の肝煎金右衛門が寛政年間(1789~1800)に綴った「諸御用留書」にある出来事を、故鈴木久介氏が紹介したものがある。



●寛政11年(1799)5月16日
 上宮守揃木に住む長八の嫁が、綾織村大久保の聞称寺に駆け込んだことを綾織の吉左衛門が長八に知らせた。(嫁の名は、おまつ。綾織村大久保の生れである)

●5月17日
 夫長八は、弟の善吉を、大久保の吉左衛門と聞称寺に、それぞれ、お礼と挨拶に向わせる。翌日、善吉は大久保にいるおまつの父、六之助の親類である善之助と共に聞称寺を訪ね、おまつを返してくれるように何度もお願いする。和尚の秀導は、おまつが帰りたいというのであれば返すが、そういう気持ちにならない以上、返しようがないと答える。(秀導は、7代住職で、気仙郡吉浜村の真稍寺に生まれ、聞称寺の養子になった人物である)



●6月4日
 夫長八の親類である忠吉とおまつの父六之助の親類である高畑の徳松、そして与斗治は聞称寺を訪ね、また、おまつを返してくれるように頼む。和尚は先日も長八と六之助の親類が来たが、おまつが帰りたいといわない以上は返せない。おまつをどうするかは、あなた方の指図を受けて決めることではない。聞称寺の寺法によって決めることだと答える。



●7月6日
 おまつの父六之助と親類の万太、組頭の伝兵衛が寺を訪ねる。和尚は、おまつの気持ちが全く変わっていないと云うばかり。

●7月8日
 六之助と夫長八、組頭長二郎と金兵衛の4人が代官を訪ね、再度、寺にお願いに行ったほうが良いか相談する。代官は、聞称寺ではおまつを返さないだろうから、口上書を差出す準備をしたほうが良いと勧める。4人は、この帰りに寺を訪ね、また、お願いしたが、答えは同じだった。(口上書とは、みくだりはん。離縁状のことで、その書式として3行半で書くことから由来する)
 翌日、長八と六之助、そして、長名、長名長の与右衛門の4人が、また寺を訪ねるが、同じ答えであった。
(江戸時代の遠野の村や町では隣近所の5~8戸単位で組が組織され、年貢や租税の上納する際に共同責任を担わされており、その組の代表が組頭。長名は村役のひとつで肝煎を支える長老・相談役のような役柄)



●7月17日
 夫長八とおまつの父六之助は、長名の佐助と長二郎を頼んで寺を訪ねる。和尚は、長名衆が相談の上で、おまつの身柄を引取りたいというのであれば返したいが、おまつの決心がどうなのか、わからないので、直々に会って帰るように勧めてはどうかと提案される。しかし、会ったおまつには帰る意思はなかった。また、寺には、郡山(現、紫波)から来ていた他の寺の和尚もいて、六之助におまつの祖母を連れてきて説得してみてはどうかと勧められ、試みるがおまつの気持ちは変わらなかった。そして、和尚から、これ以上の説得は控えるように申し渡される。



●9月5日
 城(横田館)では、御目付の是川彦作、下郷代官の及川五右衛門におまつを尼にすることを寺へ申し付けさせる。そして、寺にて御目付、代官、宮守村の肝煎、長名の立会いのもと、おまつを剃髪して、尼にした。



 この小さな山里のお寺に、駆け込み寺・縁切寺のような出来事が実際にあったのである。



 腕力や権力でさえ、介入できない世界がそこにはあったという事実。それは、どこのお寺にでもできたことではないのだろう。出てけ!出ていってやる!だけでは、済まされない運命共同体ともいえる村組織を、これだけ動かしても、家を出たおまつの心境はどのようなものだったのだろう?その後のおまつの消息は不明である。



 春になるとさらなる北の地へ帰る白鳥。「いつ実家へ帰ってもいいよ!」と云いながら、時間があれば、毎日、実家へ顔を出す我家の妻君。



 この事件の顛末を思い浮かべながら、妻の遺伝子を色濃く受け持つ娘達のピアノの発表会を観る長八ならぬ私。ご静聴ありがとうございました! 


 

2007-05-21 23:43:13 | 物語
  ●遠野物語39話●
 佐々木君幼き頃、祖父と二人にて山より帰りしに、村に近き谷川の岸の上に、大きな鹿の倒れてあるを見たり。横腹は破れ、殺されて間もなきにや、そこよりはまだ湯気立てり。祖父曰く、これは狼が食ひたるなり。この皮ほしけれども御犬は必ずどこかこの近所に隠れて見てをるに相違なければ、取ることができぬといへり。

 この感覚こそが、まさに狩猟民的な生々しい感覚だと京都造形芸術大学の山折先生が遠野物語ゼミナール2003の記念講演で述べられている。山を歩いているといつ動物が襲ってくるかもしれない恐怖感を持ちながら、猟師はその動物を獲るために歩く。(動物の世界のルールを尊重しながら)このような生き方は、初期の修験道の人々にも通じるもので、長い間、この国にはこういう感覚が受け継がれていたと。



 これは、遠野市立博物館裏にある下屋敷稲荷神社であるが、三明院の祈祷所に祀られたものが、いつしか高善旅館の守神となったと「遠野の神々と民話の里」では紹介している。江戸時代の遠野では、俗別当が掌握していた稲荷さんは50社を超えており、一番数が多い神社だった。(中でも鱒沢・小友が群を抜く)熊野を祀る地域とその数が比例するような感じがする。
 個人の稲荷さんについては、江戸時代は勿論のこと、明治に入ってから現在のように各家で持つようになったといわれるが、中でも、南部氏に縁のあるものは、上郷の繋、赤羽根と遠野町の欠ノ上稲荷なのだが、なぜ、数ある稲荷の中で、この三ヶ所に、援助の手を差し伸べたのだろう?

 稲荷さんは、ご存知のとおり、宇迦神社と同じように食糧生産や商売繁盛の神様として農業や商業の方々が信仰する神様で、全国トップの数を有する。

 前段で、狼の話をしながら狐の話を持ち出すのは不思議なのだが、狩猟民としての山の民がいつから、平地人としての農業を営むことになったのだろうという問いに、答えを見出そうと悪あがきをした結果・・・答えがでるはずもなく。(ただ、蓬田遺跡からの出土品から奈良時代には確実に稲作が行なわれていたようだが。)
 それにもまして、意図的に農業を推進したのは、南部氏入部以降なのではとの推察の答えが、上郷の稲荷・・・・。また、なぜ、上郷でなければならなかったのか?
 それは、阿曽沼氏の力が遠野から消え失せる最終章に位置する戦いによって命をおとした数多くの武将が上郷の人々だったからで、金山開発や狩猟を始めとした山人の生活から、年貢を納める農民の生活へと移行させる手段のひとつが、稲荷信仰だったのではと、田植の風景を見ながら感じている。(とり止めのない文になったことを反省しながら)

 ●狼に関わる神社は、飯豊の三峯神社と青笹町糠前の実木にあるミズメ神社●
 

阿弥陀様

2007-05-17 23:45:29 | 物語
  遠野物語拾遺第62話
 六日町に火事があったとき、どこからともなく子供が出てきて火を消し始め、鎮火すると、またどこかへ見えなくなった。あれはどこの子供であろうと評判がたった。ところが、下横丁の青柳某という湯屋の板の間に小さな泥の足跡がついていて、辿っていくと仏壇の前で止まっており、中の阿弥陀様が大汗をかいておられたという。
                 
                 

 以前から、この話に出てくる湯屋はどこだったんだろうと思っていたが、先日、博物館で思いもかけず、古地図を見ることができ、よく観察していると、あるではないか。

                   

 見えにくいが、対泉院入口右下の長之助が家主湯屋となっている。湯屋が何度も同じとおりで移動するわけもないので、間違いないだろう。何年も前からの心のつかえがとれた想いである。

                  

 同じ通りに移設してある旧村兵屋敷も、かつては、新町農協の場所にあったものだが、ここも拾遺ではお馴染みの家である。このたびの下横丁湯屋の特定によって、心の桜は満開となった。

 ・・・のはずだったのだが、ここ十日ばかり、内藤正敏著「東北の聖と賎」という本のある部分と赤坂憲雄氏の「東北の祭りと芸能-田植踊りの原像をもとめて」という遠野物語ゼミナール2003での記録がどうにも頭から離れず、調子がでない。私自身も遠野の郷土芸能に興味を抱きつつ、そのルーツを求めると、避けて通れない部分に行き当たるのを感じているためでもあるのだが。                

 
                 

朝日神子

2006-12-21 23:06:46 | 物語
 地元の郷土史家菊池照雄氏が「山の怪異と伝承」という論文の中に次の話を載せている。

 上郷村の黄金口に長者の家があった。子供は大きくなり夫々独立したが、夫婦は女の子がほしくて3,4歳の子をもらい養女にする。10歳頃の時にこの子が神隠しにあう。この家では死んだものとあきらめ、さびしく暮らしていた。10年程年月がたったある日、美しい娘になりその子がひょっこり帰ってきた。この時には不思議な呪力を身につけ予言、宣託はおそろしく的中した。村人は朝日神子と名付け、精神的な支えにしていた。
 江戸時代、享和か寛政頃らしいが、大雨が降り続き、平野原・平倉の二つの集落のそばを流れていた早瀬川が氾濫し二つの集落が流失するほどの水かさが上がってきた。
 この神子は細越の岩舟とよばれる岩場にたすきの凛々しい姿で立ち呪文を唱えると水はみるみる引き、さらに流れも変わり、今のような水路になった。

 この伝承により明治15年、平野原・平倉の有志により朝日神子の碑が建てられた。画像がその碑でさる。(拙ブログ10/1の石碑群左端)

 この神子の育った平野原の留場(地元では「とば」と読む)という家は今でも栄えている。これには色々な異説があり犬亦家であるとも地元では言っている。

 さて、この文の中の留場であるが、照雄氏の文章では犬亦家と別の家と読み取れる文面となっているが、これが苗字なのか、屋号なのかはっきりしない。先日の上郷村教育誌では屋号「留場」は犬亦家となっているが、その他の家で同じ屋号の家があるのだろうか?ご存知の方は教えて頂きたい。少なくとも、上郷在住の留場を苗字としている方はいないようだ。
 もうひとつ、合併前のJA遠野で有線放送をやっていた時の電話帳をお持ちの方でお譲りできる方があればお知らせ願いたい。私のような者には、時として、とても貴重な資料となる。

 最後に、週末は、家の事情にてブログを見ることができませんので、悪しからず。