綾織小・中学校の北側にあるお寺さん。浄土真宗大谷派巌瀧山聞称寺。時代は定かではないが同町新里の宮ノ目にあった阿弥陀堂が前進で、順了尼という女性による開山とされ、東本願寺から号を受け、現在地に移ったのは、明暦4年(1658)。 善明寺が養安寺から大工町に移り、万通寺も四日市から現在地に移った2年後、そして善明寺に五輪塔が中川原から移された時代、大慈寺が光興寺村から大工町に移った時代と同年代のことである。
(光興寺と宮ノ目との間、角鼻より落合を望む)
この聞称寺に関わる話のひとつに、宮守村の肝煎金右衛門が寛政年間(1789~1800)に綴った「諸御用留書」にある出来事を、故鈴木久介氏が紹介したものがある。
●寛政11年(1799)5月16日
上宮守揃木に住む長八の嫁が、綾織村大久保の聞称寺に駆け込んだことを綾織の吉左衛門が長八に知らせた。(嫁の名は、おまつ。綾織村大久保の生れである)
●5月17日
夫長八は、弟の善吉を、大久保の吉左衛門と聞称寺に、それぞれ、お礼と挨拶に向わせる。翌日、善吉は大久保にいるおまつの父、六之助の親類である善之助と共に聞称寺を訪ね、おまつを返してくれるように何度もお願いする。和尚の秀導は、おまつが帰りたいというのであれば返すが、そういう気持ちにならない以上、返しようがないと答える。(秀導は、7代住職で、気仙郡吉浜村の真稍寺に生まれ、聞称寺の養子になった人物である)
●6月4日
夫長八の親類である忠吉とおまつの父六之助の親類である高畑の徳松、そして与斗治は聞称寺を訪ね、また、おまつを返してくれるように頼む。和尚は先日も長八と六之助の親類が来たが、おまつが帰りたいといわない以上は返せない。おまつをどうするかは、あなた方の指図を受けて決めることではない。聞称寺の寺法によって決めることだと答える。
●7月6日
おまつの父六之助と親類の万太、組頭の伝兵衛が寺を訪ねる。和尚は、おまつの気持ちが全く変わっていないと云うばかり。
●7月8日
六之助と夫長八、組頭長二郎と金兵衛の4人が代官を訪ね、再度、寺にお願いに行ったほうが良いか相談する。代官は、聞称寺ではおまつを返さないだろうから、口上書を差出す準備をしたほうが良いと勧める。4人は、この帰りに寺を訪ね、また、お願いしたが、答えは同じだった。(口上書とは、みくだりはん。離縁状のことで、その書式として3行半で書くことから由来する)
翌日、長八と六之助、そして、長名、長名長の与右衛門の4人が、また寺を訪ねるが、同じ答えであった。
(江戸時代の遠野の村や町では隣近所の5~8戸単位で組が組織され、年貢や租税の上納する際に共同責任を担わされており、その組の代表が組頭。長名は村役のひとつで肝煎を支える長老・相談役のような役柄)
●7月17日
夫長八とおまつの父六之助は、長名の佐助と長二郎を頼んで寺を訪ねる。和尚は、長名衆が相談の上で、おまつの身柄を引取りたいというのであれば返したいが、おまつの決心がどうなのか、わからないので、直々に会って帰るように勧めてはどうかと提案される。しかし、会ったおまつには帰る意思はなかった。また、寺には、郡山(現、紫波)から来ていた他の寺の和尚もいて、六之助におまつの祖母を連れてきて説得してみてはどうかと勧められ、試みるがおまつの気持ちは変わらなかった。そして、和尚から、これ以上の説得は控えるように申し渡される。
●9月5日
城(横田館)では、御目付の是川彦作、下郷代官の及川五右衛門におまつを尼にすることを寺へ申し付けさせる。そして、寺にて御目付、代官、宮守村の肝煎、長名の立会いのもと、おまつを剃髪して、尼にした。
この小さな山里のお寺に、駆け込み寺・縁切寺のような出来事が実際にあったのである。
腕力や権力でさえ、介入できない世界がそこにはあったという事実。それは、どこのお寺にでもできたことではないのだろう。出てけ!出ていってやる!だけでは、済まされない運命共同体ともいえる村組織を、これだけ動かしても、家を出たおまつの心境はどのようなものだったのだろう?その後のおまつの消息は不明である。
春になるとさらなる北の地へ帰る白鳥。「いつ実家へ帰ってもいいよ!」と云いながら、時間があれば、毎日、実家へ顔を出す我家の妻君。
この事件の顛末を思い浮かべながら、妻の遺伝子を色濃く受け持つ娘達のピアノの発表会を観る長八ならぬ私。ご静聴ありがとうございました!