●蓮峰山常堅寺●
かっぱ渕であまりにも有名なお寺さん。安倍貞任の弟、北浦太郎家任の開基と伝えられるお寺。もとは天台宗だったとも。
現在、改修工事中。基礎がしっかりしていないため、本堂が多少傾いていたようである。あわせて附属の建物も本堂裏に建築中。
このお寺の山門には、廃仏稀釈により、早池峰山妙泉寺から移された仁王尊像が安置されている。妙泉寺の当寺要用留書覚によると享保8年(1723)に傷んでいた像を仙台領水沢村の仏師によって造り直したという。遠野にある仁王像の中では大きさでは一番とのこと。
寺伝によると、延徳2年(1490)磐井郡大原長泉寺の末寺として葛西氏家臣大原弾正勝行(本姓千葉)の開基、太聞秀守禅師の開山。寺宝のひとつに室町時代の作と推定される道元禅師像(高さ46.0cm)がある。
●大原長泉寺●
亀峯山長泉寺 永保2年(1082)地主牧野平馬康明が開基、教山智明大師の開山。天台宗の日輪山蓮華院永保寺として創立され、以来26世361年間維持される。
文安元年(1444)葛西家重臣、大原の旗頭である山吹城主大原広英が開基となり越後岩船郡杜沢村の耕雲寺4世湖海中珊大和尚が開山し、以後曹洞宗となる。
長泉寺門葉表によると、5世大聞秀守によって文明18年(1486)に常堅寺が開山されたことになっている。(遠野に伝わる延徳2年とくいちがう。また、5世の名前も「大」と「太」の字に違いがある)
常堅寺の末寺
・喜清院~青笹町-天正17年(1589) ・曹源寺~上郷町-天正2年(1574)
・光岸寺~土淵町-寛永8年(1631) ・慶雲寺~上郷町-天正年間(1573~1591)
・西来院~小友町-天文18年(1549)
●大原弾正勝行●
秀吉の奥州仕置後、大原新右衛門と称し、遠野南部に住し、800石を給すが、後700石召し上げられる。理由は不明とのこと。時の城代毛馬内三左衛門が500石だったことを考えると破格の取り扱いだったことが伺える。また、交替勤番役の槻館兵衛は、新右衛門同様、輿田築館から遠野へ来たという。
常堅寺とかっぱ淵を挟んだ向こう側には、かっぱのおじいさんで有名だった故阿部与一さんのお宅がある。安倍貞任の末裔と伝えられる。このお宅の敷地の周りには、鎌倉武士の邸宅特有の堀がめぐらされていたようで、刀剣や馬具が伝えられている。いついかなる理由で、常堅寺隣接の地に居を構えることになったのだろう?
遠野に住む千葉姓の方々は、奥州仕置後の動乱期に現在の県南方面から移ってきたという話をよく聞く。葛西家家臣だったことから、庭にはサイカチを植え、「葛西勝つ」との語呂合わせから、再起を誓ったという。千葉姓の他に、浜田、及川、佐々木、仙内、千田等々。まだまだ沢山。南部氏が南下してくるまでの遠野には、いかなる人々がどのような生活をしていたのか見てみたいものだ。それこそ、タイムトンネルを使って?古~
かっぱ渕であまりにも有名なお寺さん。安倍貞任の弟、北浦太郎家任の開基と伝えられるお寺。もとは天台宗だったとも。
現在、改修工事中。基礎がしっかりしていないため、本堂が多少傾いていたようである。あわせて附属の建物も本堂裏に建築中。
このお寺の山門には、廃仏稀釈により、早池峰山妙泉寺から移された仁王尊像が安置されている。妙泉寺の当寺要用留書覚によると享保8年(1723)に傷んでいた像を仙台領水沢村の仏師によって造り直したという。遠野にある仁王像の中では大きさでは一番とのこと。
寺伝によると、延徳2年(1490)磐井郡大原長泉寺の末寺として葛西氏家臣大原弾正勝行(本姓千葉)の開基、太聞秀守禅師の開山。寺宝のひとつに室町時代の作と推定される道元禅師像(高さ46.0cm)がある。
●大原長泉寺●
亀峯山長泉寺 永保2年(1082)地主牧野平馬康明が開基、教山智明大師の開山。天台宗の日輪山蓮華院永保寺として創立され、以来26世361年間維持される。
文安元年(1444)葛西家重臣、大原の旗頭である山吹城主大原広英が開基となり越後岩船郡杜沢村の耕雲寺4世湖海中珊大和尚が開山し、以後曹洞宗となる。
長泉寺門葉表によると、5世大聞秀守によって文明18年(1486)に常堅寺が開山されたことになっている。(遠野に伝わる延徳2年とくいちがう。また、5世の名前も「大」と「太」の字に違いがある)
常堅寺の末寺
・喜清院~青笹町-天正17年(1589) ・曹源寺~上郷町-天正2年(1574)
・光岸寺~土淵町-寛永8年(1631) ・慶雲寺~上郷町-天正年間(1573~1591)
・西来院~小友町-天文18年(1549)
●大原弾正勝行●
秀吉の奥州仕置後、大原新右衛門と称し、遠野南部に住し、800石を給すが、後700石召し上げられる。理由は不明とのこと。時の城代毛馬内三左衛門が500石だったことを考えると破格の取り扱いだったことが伺える。また、交替勤番役の槻館兵衛は、新右衛門同様、輿田築館から遠野へ来たという。
常堅寺とかっぱ淵を挟んだ向こう側には、かっぱのおじいさんで有名だった故阿部与一さんのお宅がある。安倍貞任の末裔と伝えられる。このお宅の敷地の周りには、鎌倉武士の邸宅特有の堀がめぐらされていたようで、刀剣や馬具が伝えられている。いついかなる理由で、常堅寺隣接の地に居を構えることになったのだろう?
遠野に住む千葉姓の方々は、奥州仕置後の動乱期に現在の県南方面から移ってきたという話をよく聞く。葛西家家臣だったことから、庭にはサイカチを植え、「葛西勝つ」との語呂合わせから、再起を誓ったという。千葉姓の他に、浜田、及川、佐々木、仙内、千田等々。まだまだ沢山。南部氏が南下してくるまでの遠野には、いかなる人々がどのような生活をしていたのか見てみたいものだ。それこそ、タイムトンネルを使って?古~