「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

常堅寺

2007-06-27 18:07:16 | 寺院
  ●蓮峰山常堅寺●
 かっぱ渕であまりにも有名なお寺さん。安倍貞任の弟、北浦太郎家任の開基と伝えられるお寺。もとは天台宗だったとも。



 現在、改修工事中。基礎がしっかりしていないため、本堂が多少傾いていたようである。あわせて附属の建物も本堂裏に建築中。



 このお寺の山門には、廃仏稀釈により、早池峰山妙泉寺から移された仁王尊像が安置されている。妙泉寺の当寺要用留書覚によると享保8年(1723)に傷んでいた像を仙台領水沢村の仏師によって造り直したという。遠野にある仁王像の中では大きさでは一番とのこと。



 寺伝によると、延徳2年(1490)磐井郡大原長泉寺の末寺として葛西氏家臣大原弾正勝行(本姓千葉)の開基、太聞秀守禅師の開山。寺宝のひとつに室町時代の作と推定される道元禅師像(高さ46.0cm)がある。



  ●大原長泉寺●
 亀峯山長泉寺 永保2年(1082)地主牧野平馬康明が開基、教山智明大師の開山。天台宗の日輪山蓮華院永保寺として創立され、以来26世361年間維持される。
 文安元年(1444)葛西家重臣、大原の旗頭である山吹城主大原広英が開基となり越後岩船郡杜沢村の耕雲寺4世湖海中珊大和尚が開山し、以後曹洞宗となる。
 長泉寺門葉表によると、5世大聞秀守によって文明18年(1486)に常堅寺が開山されたことになっている。(遠野に伝わる延徳2年とくいちがう。また、5世の名前も「大」と「太」の字に違いがある)

  常堅寺の末寺
 
 ・喜清院~青笹町-天正17年(1589) ・曹源寺~上郷町-天正2年(1574)
 ・光岸寺~土淵町-寛永8年(1631)  ・慶雲寺~上郷町-天正年間(1573~1591)
 ・西来院~小友町-天文18年(1549) 



  ●大原弾正勝行●
 秀吉の奥州仕置後、大原新右衛門と称し、遠野南部に住し、800石を給すが、後700石召し上げられる。理由は不明とのこと。時の城代毛馬内三左衛門が500石だったことを考えると破格の取り扱いだったことが伺える。また、交替勤番役の槻館兵衛は、新右衛門同様、輿田築館から遠野へ来たという。



 常堅寺とかっぱ淵を挟んだ向こう側には、かっぱのおじいさんで有名だった故阿部与一さんのお宅がある。安倍貞任の末裔と伝えられる。このお宅の敷地の周りには、鎌倉武士の邸宅特有の堀がめぐらされていたようで、刀剣や馬具が伝えられている。いついかなる理由で、常堅寺隣接の地に居を構えることになったのだろう?
 遠野に住む千葉姓の方々は、奥州仕置後の動乱期に現在の県南方面から移ってきたという話をよく聞く。葛西家家臣だったことから、庭にはサイカチを植え、「葛西勝つ」との語呂合わせから、再起を誓ったという。千葉姓の他に、浜田、及川、佐々木、仙内、千田等々。まだまだ沢山。南部氏が南下してくるまでの遠野には、いかなる人々がどのような生活をしていたのか見てみたいものだ。それこそ、タイムトンネルを使って?古~

遠野職業訓練協会50周年

2007-06-24 22:38:33 | その他
6月23日遠野職業訓練協会の50周年記念式典・祝賀会が「あえりあ」にて行なわれた。


 昭和27年に従来の徒弟制度の弊害を除き効果的な技能養成を図る目的で上閉伊支部として発足、勇町にあった警察庁舎内に事務所を構える。建築各工事ごとの技術者を1000人余りも輩出してきたところでもある。


 先日のNHKプロフェッショナルに出演した菊池恭二氏を始め、その最初の師匠も今回、功労表彰された。

 酒宴の席では、大工さん達が以前拙ブログでも紹介した地固め節を披露し、会場からの拍手を頂いてた。ちなみに私も合の手だけのつもりで参加。(これも飲んだ勢い)


 昭和48年から平成9年までの校舎。それ以前までの松崎小学校の校舎・講堂を市から借りて使用。


 現在の校舎。ここの紹介はこちら

 ●上棟式の祝詞●(50周年記念誌に掲載されていた遠野地方の棟上げ式のもの)
 掛巻も綾に畏き天御仲主命 手置帆負命 彦狭知命 八意思兼命を始め奉り木工の御祖 屋久能遅命 屋船豊受姫命の大神等の御前に畏みも白さく先に木工
(施工者の名前)が此の(建物の名前)を造り始むる時に祈白しく かく容易からぬ事をば 吾皇神等守り給ひ助け給ひて 法の随に平けく安らけく事成し竟へしめ給へと 祈白しき 然ろを祈白しも験く 違う事なく過つ事なく造り竟えしめ給へる事を貴み善しみ 今日の生日の足日に謝の禯代と大御酒大美饌を 机物に置足わして畏み畏みもたたえ辞竟奉状を聞召して 今も往先も此の(建物の名前)を安宮と吾皇神の御霊給いて 築立てたる柱取り挙げたる棟 桁梁の錯い動鳴事なく 打堅めたる釘の緩び取葺ける甍のそそぎなく 千代常常磐に守り給い幸い給へと畏み畏みも白す


 我家のさつき。父親が100鉢ものさつきを育てていたが今は母が30鉢ほどを受け継いでいる。訓練協会が発足し、中には三代にわたって会員として尽力されている方もいるが、私も親の仕事とは別な道を歩んでいるが同じ協会の会員としてお世話になっている。たかが50年、されど50年。


 先日の上郷まつりの日、埼玉の子供達が空手の合宿に来ていたが、その引率者の一人に建築設計事務所の方がいた。その方が、上郷の工務店の専務に合宿中のお礼にとその場で書いた書である。4代にわたり地元で工務店を営む、まさに職人の生き方にも通じるこの言葉と訓練協会の50周年とが頭の中でリンクした日となった。







日出神社&上郷まつり 四

2007-06-20 18:26:02 | 郷土芸能
 午前中でほとんどの団体が奉納すると午後からは上郷地区センター隣接農村公園にて上郷まつりとなる。

ゲスト出演 ●一関市 時の太鼓 顕彰会 ●



 「一関に過ぎたるもの、二つあり」と云われ、日本近代医学に尽力した名医「建部清庵」と「時の太鼓」。
 江戸時代、一関の田村藩主建顕公が老中に願い出て許されたもので、当時は、時を告げる手段は鐘を用いるのが一般的で、太鼓を打つのは皇居・江戸城・御三家のみだったという。



 その時に葵の紋の使用を認められたと解説があった。この田村氏は、元々、福島県田村郡を本拠地としていた一族であるが、南北朝期を経て、伊達氏配下となり、寛文2年(1664)宮城県三迫から岩沼に移り、天和2年(1682)に現在地に居住となる。三万石。
 この時の太鼓を継承しているのが「時の太鼓顕彰会」。好青年、淑女といった人達が出演し、アンコールの声もあがったほどの熱演だった。話によると陸前高田市の全国太鼓フェスティバルにも出演したほどの団体なようだ。



  ●平倉神楽●
 明治34年頃、宮守村塚沢の塚沢神楽から二代に渡って指導を受け、その時、幕及び権現様を頂いている。なお、塚沢神楽は大迫町岳集落に継承される岳神楽の弟子神楽であることから幕は向鶴となっている。第二次世界大戦中に中断される。昭和30年頃からは神社での神事のみ行なった。昭和60年頃、「しんがく」の復活をし上郷まつり、遠野郷八幡宮例祭に参加するようになった。平成12年からは東和町(現花巻市東和町)石鳩岡神楽の一ノ倉保氏を招き本格的に神楽の復活に取り組んでいる。

 私自身じっくりと神楽を観る機会が少ないが、平倉神楽の方々の真剣な取り組みは、素人ながらも感じるものが多い。ここにも、同い年の方がいて舞手として活躍している。一般的には、大きな祭りの場合、時間的な制約があって、通しの演目にはお目にかかれない。(これはしし踊りも同様)競演会等の場で研鑽に務めているようなのだが、できるものなら、素人にも演目の説明つきで通しで観れる場があっても良さそうだと感じたりもする。(再度、しし踊りも同じ)

 

日出神社&上郷まつり 参

2007-06-19 15:22:50 | 郷土芸能
 地元の郷土芸能団体は、神社に奉納の踊りを行なう。但し、年季が入った団体のみなのだが・・・。また、神社へ通じる鳥居前でも踊る。(礼儀正しいのが年季が入った証拠。わげしたづの団体やらおばちゃんの団体は、省いておった。)神へ感謝しつつ、神社の周囲を踊りながら廻る。


 
 ここ日出神社のお膝元に細越しし踊りがあるのだが、これには、従兄弟の子(中学生)が太鼓で参加している。幼い頃より、大人と同じ大きさの太鼓をもって参加しており、八幡さんのお祭りにも参加しているので、あるいは見たことがある方もいるかもしれない。



その子の母親も数年前までは、踊りの代表各として参加していた。これが、また、うまい!(ちなみに彼女の相方は、今も現役で出演しており、ドラえもんに出てくるアイドルと同じ名前だったような気がする・・・?わき道に反れ過ぎ)この家は、今は亡きおじいさん(太鼓の子からみて)も保存会の方だったので、血筋ということになろうか?(血筋といえば、我が家も似たようなもの。母親方の祖父も、従兄弟も、土淵しし踊りの笛吹きである)


  ●細越獅子踊り●
 板沢獅子踊りの分家、同じ上郷の火尻しし踊り(中断)から昭和7年に師匠を招き、習得した。大きな上下の動きと低い姿勢から飛び掛るような「柱がかり」が特徴。「四つ掛かり」が最高の演目で、獣としての荒々しさ、勇壮さを演出する踊りである。詳しくは、ここ

 上郷のしし踊りの元祖と云えば、板沢しし踊り。その由来は次のとおり。
  ●板沢しし踊り●
 「伝襲古文書」によるば、弘化3年(1846)に南部公御屋敷で踊るとの記録があり、それ以前から伝承されていたと思われる。創始は田五助とその弟、村助の両人とされ、別名春日踊(古書には前々は鹿嶋踊とも記す)とも称した。江戸時代後期に盛岡南部藩にある橋を渡り初めに踊った記録も残っている。
 また、明治の初めに菊池田五助という人が海上集落に働きに行って、駒木鹿子踊りを習い、帰ってから若者達に教えたのが始めであると言い伝えられている。
 昭和40年代には釜石方面に頼まれて行き、お祭りに踊る。その後、釜石市小川町に教え、小川しし踊りとなる。上郷の火尻・細越しし踊りは分家として向鶴の紋を与える。(板沢は九曜紋)



 春日踊・鹿嶋踊と記した古書がいかなる書だったのか、また、伝襲古文書が現在どこにあるのか私にはわからないが、それが事実だとすると、幕踊り系の遠野のしし踊りは、県南部から関東に伝承される太鼓系しし踊り(また、しし舞い)と同様の系譜となる。(太鼓系では春日流や行山流などといった○○流と名乗る場合が多い。)また、最初の伝承者が兄弟であることも興味深い。(平野原田植え踊りと同様)このような芸能の伝承がただ一人の人から習得することは考えにくく、複数の人達によってもたらされたところがポイントであろう。



  ●佐比内しし踊り●
 口伝によると、その昔南部公時代に城屋敷に上り踊るとあることから古くからあったと考えられる。また万延元年(1860)佐比内高炉建設の際、山神祭に佐比内からしし踊りが来たとの話もある。明治20年小森清左エ門、佐々木清之助の両名が駒木鹿子踊りから改めて伝授される。同38年本家駒木鹿子踊りからあまりの上達のため「本家違鎌」のタテモノを貰い受けた。


日出神社の鉄剣~神社のシンボルとも思われる見事な大きさ


人けの無い冬の神社とは違い、こんなに日が当たるこの神社の風景を見たことがなかった。草木の匂いを感じながらの半日となった。

日出神社&上郷まつり 弐

2007-06-18 15:37:40 | 郷土芸能
 昨日に続き、お祭り。日出神社に向かうと神社境内が車で混みあうので、臨時バスに乗り換えて神社へ。境内には既に奉納を終わった婦人会の手踊りの方々が終わって、森の下さんさが踊られていた。



以前遠野TVで見た時には、昔は若かったご婦人方が踊っていたものだったが、今回は小学生以上の若手中心の構成。

  ●森の下さんさ踊り●(遠野教育事務所編遠野郷の郷土芸能より)
 大正時代から昭和初期にかけて上郷町森の下に居住した紫波町長岡出身の藤原米太郎が、若者達にさんさ踊りの手ほどきをしたことが始まりだという。踊り手は花で飾った編み笠をかぶる。笛太鼓と踊りが完全に分離されていて、動きが大振りなのが特徴。また、私見として、太鼓や笛がしし踊りの道具を共有したものとなっており、盛岡周辺の現在のさんさと違い、音程が低い。これも味なのかもしれない。



 次に平野原田植え踊り。そばにいた年配の方の話を聞いていると「ひなのはら」と言っていた。現在は「ひらのはら」と一般的には呼ばれるが、確かに「上郷聞書」には、かつて「ひなのはら」と呼ばれていたことが記されていた。そのとおりだったことが確認できた気がした。これも漢字にした時点で当初の呼び名が変わったいい例である。



 平野原は上郷の中でも、世帯数が少なく平倉地域に囲まれたかつての平野原村。江戸時代には村として成立している。この地域は個人的な思い入れがあり、高校時代の同級生やその奥さん、そして子供たちが総参加で継承している。この祭り情報を得るきっかけとなった友人の工務店専務もちょっと前まで平野原の住人だった。
 
  ●平野原田植え踊り●(出展同じ)
 弘化年間(1844~48)頃、仙台黒川から兄弟が来て、兄は中澤(青笹町)、弟は平野原で田植え踊りを教えたという。世話人、太夫、笛吹、中太鼓、唐団扇持ち、子踊りで編成され、50人以上になる。と、かつての隆盛の様子がわかる記述となっているが、現在は、その半分ぐらい。
 
 ○この時代の出来事○
 ・天保 4年1832)~大飢饉
 ・天保13年(1842)~小友の能伝坊に「神教院能伝房神阿闍梨法師」の銘がある碑が建立された
 ・天宝14年(1843)~高室村出身の四戸長作が来内川に堤防築く
 ・弘化 3年(1846)~板沢しし踊りが南部公御屋敷で踊る。九曜星紋にて
           長野しし「獅子踊供養塔」建立
 ・弘化 4年(1847)~三閉伊農民一揆遠野に強訴する(12000人)
 ・嘉永 6年(1853)~ペリー、浦賀に来航。三閉伊農民一揆伊達領に越訴する
 
 この頃は、飢饉により困窮状態の生活が続いている時期で、南部領のみならず、伊達領でも同様であった。田植え踊りを伝えた兄弟も、故郷を離れ、新しい生活の場を遠野に求めてきた人であろう。江戸時代末期の荒んだ時代に土淵のしし踊りも達曾部の湯屋神楽も伝承されたということからも飢饉によって移動した人々が新天地でかつて習い覚えた芸能を復活させたことを意味するのかもしれない。

 小規模ながらも継承しようと努力されている郷土芸能にこそ、拍手を送りたい。