●小原相改 唯是仁左衛門●
天明5年に八戸但馬怡顔が出した黒印状。怡顔は、遠野南部29代当主で、寛延4年(1751)盛岡の遠野屋敷にて生まれる。天明5年(1785)父義顔が盛岡藩江戸屋敷にて亡くなり、跡を継ぐ。側室の子として生まれたため部屋住みとして育つが、本来の後継者が亡くなったことで、その任に就く。天明2年から8年まで全国的に飢饉が続いた時代で、盛岡藩でも本来の30%しか収穫できない年が続いたと云われる。
この時期は幕府から御用金や課役が課せられたことでその対処に追われ、また、天明4年には遠野の裏町・穀町で大火があり、さらに同7年(他説では、別な年ともされる)には本人が遠野滞在中に鍋倉城本丸が焼け、再建の陣頭指揮をとる。国内では、寛政元年(1789)に北海道でアイヌが蜂起したことから、盛岡藩・津軽藩共に松前警護役を幕府から命じられ、その準備に奔走。同じく寛政13年には同じ松前の御用夫として遠野から29人を割り当てるなど、江戸詰めの幼い盛岡藩主に代わり、国許の難題に取り組まなければならない時期を生涯とした。
さて、本題の「小原相改」であるが、本姓「小原」を「唯是(ゆいぜ)」とするように殿様から授かったわけだが、何に対する褒賞だったのかが定かではない。この書状を正確に訳することはできないが仁左衛門は「唯是」となり、この家に連なる末家の「逸作」はそのまま「小原」とするようにとの趣旨となっている。禄については、本高94石6斗3升の内、81石1斗8升1合は現米で、残りは知行地。そして新たに55石3斗7升を受け合計で150石となっているが、その新地についても百姓小高としてあまり肥えた土地ではなく、その全てが知行地として賜ったものではないようだ。この150石の内50石は小原逸作宛で、唯是仁左衛門は100石となり、小原家は仁左衛門が初代ではなく、父祖の代にも家臣であることがわかる。
さてこの「小原」氏は、いつから遠野家臣となったのであろう?八戸譜代とする説もあるようなのだが?遠野南部氏が八戸から遠野へ移封となったのが寛永4年(1627)、三翁昔話に記されている村替え以前の御支配帳(元和6年(1620)~寛永6年)には、小原姓の家臣は見えない。また、移封後の寛永11年の御支配帳にもない。この寛永11年のものには阿曽沼旧臣と近隣から採用となった人も含まれているのだが、これにも見えない。と云うことは、南部譜代の家臣でも、阿曽沼家臣でもなかったということではないだろうか?前記の禄高を見ると100石と多いのにも関わらず、知行地として多くの土地を領していたようには見えない。
明治30年に草案が作られた「遠野士族後籍願書」と明治2年の南部弥六郎殿家来身帯面付帳を見ると
唯是直志60石、唯是善蔵40石、唯是八郎10石、小原留治・亮右衛門55石、小原林治40石、小原定見20石、小原勝見15石、小原忠兵衛15石、小原俊庵18石外切米片馬 以上の名前が確認できる。
逆に古い年代としての手持ち資料(御支配帳(多田家伝))には、唯是仁左衛門100石、唯是丹左衛門10石但し現米、小原勝助70石、小原逸作50石、小原万右衛門20石、小原転30石但し現米、小原辰之2人扶持但し切米2駄という名前が確認され、仁左衛門が唯是と改姓した時代から、そう遠くない時期の御支配帳と考えられ、黒印状のとおり、小原逸作50石も確認できる。これらから考えると、天明の頃には2,3の小原家が存在しており、その内の仁左衛門家は天明5年に唯是となり、幕末にはその100石を基本として60石、40石、10石扶持の3家に分かれたことになる。「逸作」家は、幕末までに50石が40石になりながらも続いており、他の小原家も同様と考えられる。
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(遠野市新町常福寺)
この小原・唯是両家について菩提寺である常福寺を訪ねてみると、小原家の家紋は丸に四つ石(通称:石畳紋)、唯是家も同じであり、黒印状のとおり同門であることがわかる。小原姓は近くでは小原樗山で御馴染みの東和町に多く見られ、先般、ブログ「開く 築く」の一如氏が紹介していた東和町丹内神社は安俵小原氏が篤く信仰した神社であるが、この一族の菩提寺は成沢寺で遠野小原氏と同じ宗派である
家紋についてウィキペディアで確認すると武家小原氏は、清和源氏武田流が丸に二つ引両、和賀氏流志戸懸舘派が帆掛船、安俵小原氏が日向木瓜となっている。実際に安俵小原氏の菩提寺である東和町成沢寺にて墓石を確認すると藤となっている。
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(東和町成沢寺)
また、
一如さんのブログで紹介された丹内神社相殿の屋根には丸に二つ引き両の紋がある。
安俵小原氏は和賀氏系とされ、和賀氏は鬼剣舞の衣装にも付けられている笹竜胆紋として知られるところだが、その庶流は石畳紋である。また、この和賀氏が寄進したと云われる宮城県刈田疱瘡神社には、笹竜胆とともに石畳紋が設けられているようで、笹竜胆紋は後年に使用され始めたものとの説があり、和賀氏系一族は石畳紋であったことがわかる。
しかし、東和町を訪ねると、上記のように石畳紋は見当たらず、逆に、和賀氏系と異なる由緒の小原氏紋となっており、どうしても私が想像している遠野小原氏は東和町から移って仕官したとの仮説には結びつかない。ただ、少なくとも和賀氏系小原氏に結びつきそうな石畳紋と同宗派を菩提寺にしている点だけは共通である。
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(東和町丹内神社)
和賀氏は、吾妻鏡にもその名が見える一族で、南北朝期には北朝方として南朝の南部氏と戦っている。また、秀吉の奥州仕置によって、葛西氏や遠野阿曽沼氏と同様に滅亡の道を辿り、その後は多くの人々が帰農し、中には仕官するものもあったようだ。但し、盛岡藩においては、近世こもんじょ館の公開資料や南部諸家系図にも盛岡藩諸士名に小原姓は一家のみのようであり、遠野小原氏に結びつく手がかりにはならない。
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(東和町小原家住宅)
本題の「小原」相改「唯是」と改姓した唯是三家は、明治以降に遠野を離れ、釜石や北海道に渡った者もあり、その混乱期に江戸時代からの三つの家系を結ぶ線が途切れたようだ。先月、図書館にて先輩郷土史家の方々が綾織村の明治期の地図をご覧になっていたが、その時に綾織に縁ある唯是家に関する記述があったかどうかを確認することができなかったのが返す返すも残念である。
今回は、目標が定まりながら、なかなか先に進む文章をまとめきれずに日数を費やした自分の非力を痛感したところではありますが、快く冒頭の資料をお見せ頂いた某家の皆さんには感謝しております。
ひとつのことに没頭しているうちに、遠野の駅前の様子が変わっていたことに気がつかないでいた。紆余曲折があったようだが、遠野の駅前にふさわしい景観になることを望むところでもある。