「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

2009 青笹しし踊り納め 其の参

2009-11-29 15:04:19 | 郷土芸能

 六角牛神社を後にした一行は、今年亡くなったお婆さんのお宅にて、位牌褒め。この集落は舘石と云い、家の屋号は上台(わんで)。飯豊から中沢に抜ける道路を境に青笹と糠前となり、遠野物語拾遺266話に出てくるデンデラ野は、この近辺ということになろうか?

 

 「わんで」のご主人は、其の壱のコメントでも紹介した昭和43年全国青年大会でしし頭を被った人。その遺伝子は確実に息子さんにも受け継がれているようだ。

 

始めに屋敷内(遠野では家の敷地のことを屋敷と云う)のお稲荷さんの前で踊る。

(私は、踊りより美味しそうなビンに釘付けとなる)

 

そして踊り嘉兵エの墓前同様に位牌に菊の花を手向ける

 

笛・太鼓に合わせて刀掛けも舞い踊る

 

ここで花がかかり、御礼並びにご披露の口上。

「一つ金は、○○円なり~!」

 

「ラッキー!」と思ったかどうかは不明であるが、当然、もうひと踊り

 

ばち上げ太鼓の唄にも熱が入り、柱がかりとなり

 

輪踊りではない「小切」?から「引端」そして「あとすがり」へ

全員が踊る頃には、ししの「かんながら」も宙を舞う

 

以上をもって、踊り納めとなる

 

青笹しし踊りの一行が位牌褒めをしたお宅で小休止をしているころ、私は、南側にあるこちらへと足を延ばす。

 

改築を行なっていた様子を道路から見ていたが、思ったより立派な建物となっている。(以前の様子はこちら。)

 

 

地之神八幡神社・・・・・・新しい掲額には「天照皇八幡宮」となっていた

 

 「両派初代由緒書上帳」延享二年(1745)には、青笹村八幡宮運満堂両社別当 常楽院が記されている。それによると、初代福仙坊智宥、この由緒はわからず、天和3年(1683)没。以後、羽黒派の修験として続くことになる。

 とあるのがここだったかとも思ったが、確認すると下関の大八幡のことであり、この八幡さまについては、全く由緒がわからない。神社の魂入れの際にでも、以前納められていた遺物 を確認してみたい。

 

 享保15年(1730)に亡くなった踊り嘉兵エは別格として、寛政3年(1791)、新田市良右エ門(この市良右エ門、新田姓であることから武士であったであろうと想像されるが、その門弟とは何についての師匠格であったかは不明)の三人の門弟(中妻・安戸・四日市の住)によって広められたとされる青笹しし踊りであるが、その中の糠前しし踊りが廃れていた明治初期に家屋新築の仕事で駒木に滞在中、駒木しし踊りを修得し、糠前しし踊りに活を入れたと「遠野郷青笹しし踊り」には記されている。


2009 青笹しし踊り納め 其の弐

2009-11-28 15:11:03 | 郷土芸能

 踊り嘉兵エの墓前から次に向ったのは、

 

糠前の六角牛神社

 

 

 青笹には二つの「ろっこうし神社」があるが、中沢にあるのは「六神石神社」で、かつては住吉である。

 では、こちらは何と呼ばれるのか?私もこの二つの関係が不思議だったのだが、神仏分離令以後、神社として登録する際、糠前の「ろっこうし神社」が「六角牛神社」として先に登録したために、中沢のは同名の神社として登録ができないことから「六神石神社」としたようである。

 

 糠前では、「六角牛神社」と改名する以前は画像にもあるように「神楽大権現」。それ故に、この神社の川下は神楽田という地名となる。

 いつもの「御領分社堂」(宝暦年間編纂)には糠前村俗別当勘作神楽権現と記されており、他に該当するものはない。勿論、六角牛神社名のものは、中沢にも糠前にもない。

 なぜ神楽権現なる名前を冠するに至ったかは不明であるが、神楽田という地名から考えると、かなり力のある権現さまであり、相応の人物が治めていた土地でもあったのだろう。また、下流にあったと云われる善応寺との関係も否定できないような気がする。

 

 

 

このような謂れのある神社へ到着した一行、準備が整うまでの間、

境内にある石碑等を改めて見入る。

 

しし以外は、先に神社へ参拝。

 

出番です!

 

参り来て是の鳥居見申せや

 

参り来て此の御拝殿を見申せや

 

この日は天気が良く、境内の周りにある木立からの陰影が程よい

 

いつの間にか集まった人だかりの中

 

柱がかり

 

カメラを手にした方々が数人、中には東京から来たという人も

 

例年であれば、ここまでで終わり

 

しかし、今年は・・・・・


2009 青笹しし踊り納め 其の壱

2009-11-27 14:55:38 | 郷土芸能

青笹の皆さんお待たせしました。笑

 

 さかのぼって11月23日、午前9時半過ぎ。土渕町は飯豊。例年通り、青笹しし踊り連中が、踊り嘉兵エの墓前に集まる。(今年は天気が良かったせいか、予想時間より早めの到着)

 まずは、役員の方々から順次、線香を供え手を合わせる。(役員のお一人が次の日に市の役職を退官なされること、この日は知らずにおりましたが、長い間、ご苦労様でした。)

 

そして当然、「墓誉め」で礼を尽くす

 

例年より少なめの構成ながら、ばしっと決めるのが青笹。

 

学校全体で参加する時とは違い、このような場面にいる子供達は本当に好き?なんだろうと感じる。

 

この日初めて馬力大会のポスターで御馴染みの太鼓の方と一言会話する。(想像とは違いやさしい方である。汗)

そして、カッピーも頑張って笛を吹く。(笑)

 

膝立入端

 

一通りをこなし、落ちたかんながらを拾い、次の場所へ向う準備。

 

 お墓のそばのお宅には、吊るし柿。

 

 干っ葉(ほしっぱ)・・・・冬の味噌汁の具~!

 

次ぎの場所は

 

 六角牛神社(六神石神社ではない)


板沢しし踊りの特別な日 其の弐

2009-11-25 17:23:09 | 郷土芸能

 11月22日の午後、お昼をはさんで再開。

 

 

 午前最後の演目「柱がかり」をもう一度行なう。素人目にはわからないのだが、ししを担当している方々から、納得のいかない部分があるので、どうしても、もう一度躍らせてくれということだった。

 先輩方から、もう一度やれ!と云うのではなく、若い方々からの申し出であったことが、私にはうれしく感じる。

 

そして、「四つがかり」

 

 柱がかりの進化系とでもいうような内容で、「柱がかり」は踊っても、これはやらないという団体も多いのではないかと思う。明治の初めに菊池田子助が駒木は海上集落へ働きに行った際に駒木しし踊りを習い覚えたと伝えられる謂れがあるが、この「四つがかり」は、駒木では「紅葉四つがかり」と呼ばれる。

 

今年の遠野郷八幡宮例大祭でも演じられたと記憶しているが、とても長い時間演じる。市内で開催される遠野まつりでは、なかなか見ることがない。

 

 一息ついた後、向ったのはそばにあるこの神社。私は、この日まで、ここが丑神社だと思っていた(隣で牛を飼っているので・・・・笑)が、山神であった。 

 

 午前中には太陽が差し込み良い天気であったが、午後も時間が過ぎ、動いていないと寒さを感じる。奉納された「木花咲耶尊」もさぞやうれしかろう。

 

そして、

 

次ぎの場所へ。

 

 ここは、稲荷さん。この近辺にはこの他に、もうひとつのお稲荷さん、熊野さん、駒形さんと立派な建物の神社があり、他集落とは違った雰囲気を感じる。

 

太陽が隠れると3時過ぎなのに夕方のような暗さ。よく、踊っています。

 

お屋敷に戻り、最後に雌獅子ぐるい

 若い方から種ふくべが変わる。この日は太鼓で参加されていたのだが、ず~と板沢しし踊りの種ふくべを務められてきた方である。足の運びに無駄がなく、流れるような動きに目が釘付けとなる。

 

 板沢しし踊り・・・・・先にも記したように駒木から伝えられたこのしし踊り。菊池田子助とその弟村助が創始者となるが、この日踊られた屋敷が田五助の末裔であり、代々の庭元。隣りには村助の末裔の家がある。また、現在の保存会長は田子助の別家になり、創始以来、その縁者によって、伝承されていることになる。興味を惹くのは庭元の家が、田五助の姓である菊池ではない点で、この近所は、庭元の姓と菊池姓が多い土地でもある。何回か記したが、しし踊りには菊池さんが深く関わっているように思う。駒木の角助もしかり。

 最後に演目の歌詞の一部を紹介

    

     ~女鹿くるい・雌獅子しぐれ・友恋雌鹿狂~

駒木鹿踊:

一 中立(ナカダチ)は庭に入口屋なか入口中立 なくば庭も茂けなや

ニ 鹿の子は生れて落れや山廻る我等も 廻る庭を廻れや

三 奥山の澤の出口に女鹿あり 女鹿尋ねにいざや友達

四 女鹿見に行かんとすれば白山山に 霞みかかがり山は見ぬぞ

五 あれ見ろや風は霞みと吹払うて 今こそ女鹿尋ね廻れや 

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板沢しし踊り

一 それでそのまま 太鼓早めろ

ニ この庭に中立入れろや中入れろ 中立なけれや 庭は繁なや

三 鹿の子は生まれ落ちれて落ちれや山巡る我等も 廻る庭を巡るや

四 奥山の澤の出口に女鹿あり 女鹿尋ねにいざや友達

五 女鹿尋ねに行かんとすれや白山小山に 霞かかるや

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青笹しし踊り

一 このししはここはふしばかここは里 山にふしばは岩のはざまに

ニ 天竺の相そめ川のはたにこそ 木草むすびの神はたたれた

三 此の里の木草むすびの神ならば めじしおじしを結びあわせろ

四 此の里で何度めじしは隠れても 是非とも一度は尋ねあわせろ

五 此の里で何度めじしは隠れても ひと村すすき分けて尋ねろ

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綾織しし踊り

一 中立入れろじゃ中切さ中立入れろ お庭すげないお庭すげない

ニ 鹿の子は生まれて下りれや山をめぐる我等もめぐる お庭めぐるなお庭めぐるな

三 雌鹿子たずねていかんとする白山小山 霞かかるな 霞かかるな

四 なんと雌鹿子かくれても一むらすすきあけてたずねろ あけてたずねろ

五 雲や霞を吹き払うて今こそ雌鹿子逢うやうれしや 逢うやうれしや

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行山流 湧水鹿踊

一 廻れま拍子お庭を揃え 太鼓早め遊べ友達

ニ 一人出でておろすとは出でて遊べ 鹿の八つ連れ

三 笹の中なる雌鹿をばそろりそろり おびき出さばよ

四 天竺の藍染川原肩にこそきくくさ結び 神のたたれた

五 からかねは伊勢で作り刃をつけて雌鹿鹿 間を切らばよ

 

 ひとつの演目でも微妙に違うが、基は同じであっただろうと想像できるような歌詞。訛りもあって、意味不明な箇所もあるが、他の演目に見られる伊勢や熊野、そして白山、武蔵野と宗教とその伝播経路を窺い知る言葉が混じる。

 踊りを見て楽しく感じるのが一番であるが、耳を立ててもなかなか聞き取れない歌詞や、演目の変わり目での太夫らの駆け引きもまた、楽しいもの。良いものを見させて頂き、あらためて感謝。

 いつの日にか、踊り納めの納会の風景に挑戦したいと思う。


板沢しし踊りの特別な日 其の壱

2009-11-23 17:14:58 | 郷土芸能

 12月22日は、上郷町の板沢しし踊り保存会にとっては、特別な日。今年、文化庁から記録を残しておくべき民俗芸能のひとつとして、一年かけてビデオ撮りをされていたものの集大成ともいえる一日となる。

 

 

庭元の踊りの館?にて準備

 

保存会長は、一足先にこの日踊る旧家まで挨拶に出向く

 

晴天のこの日も、しばれたが雪化粧の六角牛も顔を出す

 

明治33年気仙大工佐藤喜右衛門の手によるセガイ(遠野ではセンガイと呼ぶ)造りの建物を中心とした屋敷にて踊る

 

ベテランに混ざって中学生のししと太鼓が目を惹く

 

様々な褒め踊りに続き、位牌褒め

 

この場に身をおけたことに感謝しながら、見入る。

 

午前の部のきれいな画像は、とらねこさんのこちらをご覧下さい。

 

私は、ちょこっと違う目線で・・・・

 

柱掛りの一場面?今まで気をつけて見ていなかったのか、初めて見るシーン

 

出番が近づくと妹の手を引く姉

 

次は君が引き継ぐのかな?

 

未来の太夫・・・・君がいる限り、50年先は保証されるだろう

 

遠くに早池峰を望みながら、午前の部を終える