六角牛神社を後にした一行は、今年亡くなったお婆さんのお宅にて、位牌褒め。この集落は舘石と云い、家の屋号は上台(わんで)。飯豊から中沢に抜ける道路を境に青笹と糠前となり、遠野物語拾遺266話に出てくるデンデラ野は、この近辺ということになろうか?
「わんで」のご主人は、其の壱のコメントでも紹介した昭和43年全国青年大会でしし頭を被った人。その遺伝子は確実に息子さんにも受け継がれているようだ。
始めに屋敷内(遠野では家の敷地のことを屋敷と云う)のお稲荷さんの前で踊る。
(私は、踊りより美味しそうなビンに釘付けとなる)
そして踊り嘉兵エの墓前同様に位牌に菊の花を手向ける
笛・太鼓に合わせて刀掛けも舞い踊る
ここで花がかかり、御礼並びにご披露の口上。
「一つ金は、○○円なり~!」
「ラッキー!」と思ったかどうかは不明であるが、当然、もうひと踊り
ばち上げ太鼓の唄にも熱が入り、柱がかりとなり
輪踊りではない「小切」?から「引端」そして「あとすがり」へ
全員が踊る頃には、ししの「かんながら」も宙を舞う
以上をもって、踊り納めとなる
青笹しし踊りの一行が位牌褒めをしたお宅で小休止をしているころ、私は、南側にあるこちらへと足を延ばす。
改築を行なっていた様子を道路から見ていたが、思ったより立派な建物となっている。(以前の様子はこちら。)
地之神八幡神社・・・・・・新しい掲額には「天照皇八幡宮」となっていた
「両派初代由緒書上帳」延享二年(1745)には、青笹村八幡宮運満堂両社別当 常楽院が記されている。それによると、初代福仙坊智宥、この由緒はわからず、天和3年(1683)没。以後、羽黒派の修験として続くことになる。
とあるのがここだったかとも思ったが、確認すると下関の大八幡のことであり、この八幡さまについては、全く由緒がわからない。神社の魂入れの際にでも、以前納められていた遺物 を確認してみたい。
享保15年(1730)に亡くなった踊り嘉兵エは別格として、寛政3年(1791)、新田市良右エ門(この市良右エ門、新田姓であることから武士であったであろうと想像されるが、その門弟とは何についての師匠格であったかは不明)の三人の門弟(中妻・安戸・四日市の住)によって広められたとされる青笹しし踊りであるが、その中の糠前しし踊りが廃れていた明治初期に家屋新築の仕事で駒木に滞在中、駒木しし踊りを修得し、糠前しし踊りに活を入れたと「遠野郷青笹しし踊り」には記されている。