「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

ムジナ

2006-09-30 23:53:54 | 物語
清水川の曹洞宗滴水山曹源寺。土淵の常堅寺三世雪翁恕積により、慶長10年(1605年)開山。開基は天正2年(1574年)板沢泰之進とされる。ムジナ退治の伝えがあり、遠野物語拾遺に収められている。また、TVでかつて放映されていた日本むかしばなしにも、ここのムジナ堂の話が登場した。神仏習合の頃までは早池峰大権現を祀っていたのではないかと思われる。(盛岡藩遠野通の霞場の支配地の中に記されている)この時代は、室町幕府が倒れ(1573年)、徳川幕府成立(1603年)までの混乱期でもある。遠野のしし踊りと縁があるといわれる遠州掛川のかんからまちという三匹獅子舞が始まったのも江戸時代初期。話が横道にそれたが、「ムジナ」?私は「ムカデ」をずーとイメージしていたが、アナグマの異称とある。混同してタヌキをムジナと呼ぶこともある。と広辞苑にはある。荒れ果てた寺のお堂に住んでいた「ムジナ」とは、何を指すのだろうか?常堅寺三世の和尚がムジナ退治をして再建したのだろうか?当時の支配者が変わったことを意味するのだろうか?

地名考「留場」

2006-09-30 00:09:13 | 地域
平野原からムジナ堂で知られる曹源寺に向かう路傍の石碑。庚申塔の数々。遠野市内には、柳田国男が紹介するように本当に多くの石碑が残っている。(これでも道路工事でかなり減ったものと思う)片田舎の石の文化はどこからきたのか?
 さて、また、また、地名。「留場」(とめば)。上郷の赤羽根トンネルを気仙方面から遠野へ来て最初の川となる早瀬川に架かる上郷橋の手前、平倉ぶんに「留場」というところがある。同様に、土淵の本宿から須崎の間、本宿の町はずれにも「留場」がある。そもそも「留場」とは何を意味するのだろう?子供の頃の私は、他の地域の人達が遠野へ入るのを一時的に止める場所、番所があったところではないかと空想していましたが、改めて広辞苑をひくと、漁猟、伐木を禁じた場所。簗を設けて魚をとる場所。江戸時代の歌舞伎劇場で木戸口近くで劇場を取り締まる所。また、ここに詰めて客の乱入を防いだり警護に当たったりする従業員。おわり。という意味があるようである。さて、遠野の「留場」はこの内のどれ?辞書のどれもがあてはまる場所でもある。どちらも川沿い。どちらも沿岸部から遠野への入り口。

地名其の弐

2006-09-28 22:11:26 | 地域
【遠野の小字名に残る建物つながり】
(遠野町)東館・館・西舘・神明・会下・伊勢堂・作善寺
(松崎町)「白岩」~明神前・太子堂・熊野・八幡「松崎」~天神前 「光興寺」~天神・宮代 「駒木」~古舘・八幡沢・館ノ下 「小友町」~屋敷沢・一堂森・高千軒城・館内・館山・堂場・稲荷山・荒屋敷・明神・宮崎・寺田・十三坊
(附馬牛町)「上附馬牛」~若宮・愛宕山・寺沢・薬師 「下附馬牛」~下荒屋・上屋敷・妙見 「東禅寺」~妙泉寺・神倉・大寺 (上郷町)「平倉」~天神前・中屋敷・稲荷前・宇南林・宇南野・清水屋敷・館前・寺田・館下・大寺・本宮 「平野原」~神明 「来内」~権現・神楽田 「細越」~番屋・畑屋・関屋・日光 「佐比内」~運南・月山・小屋敷・鍛冶屋敷・熊野 「板沢」~茶屋後・大師田・熊野・寺下・立石 (青笹町)「青笹」~牛館・釈迦堂・地蔵・八幡・善応寺・館下 「糠前」~大明神・天王・権現前・館ヶ沢・館石・神楽田 「中沢」~古舘・田屋・館前・高屋・門前前・本堂・長者洞 (土淵町)「土淵」~神明 「栃内」~角城 「飯豊」~宮沢 (綾織町)「新里」~宮の目・若宮前・愛宕前・羽黒下・来迎前・日光・西風館 「上綾織」~田屋・屋敷前・立石  書き過ぎた。

地名

2006-09-27 22:45:57 | 地域
【地名について】遠野市内の土地には(小字名)がついている。ちなみに私のところは、遠野市松崎町白岩●●地割字「田中」●●番●である。この「田中」が小字名。市内の土地の小字名を調べてみると同じ名をもつ場所が結構あることに気づく。 「大洞」は小友町・上附馬牛・下附馬牛・平倉・糠前にある。
「林崎」は細越と栃内にある。「長洞」は青笹と来内にある。「留場」は土淵と平倉にある。その土地の名前と苗字との関わりとか、その土地の名前のもととなった事物のこととか、そこから遠野の古い歴史が見えるような気がする。
(画像は来内にある追分の碑で、右は気仙道、左は山道と記されている)

長洞

2006-09-26 22:03:52 | 地域
上郷町来内に「長洞」というところがある。ここには長洞姓の人はいない。が、土淵町の須崎には長洞さんが居られる。また、上郷町細越には「林崎さん」が結構居るが、土淵町栃内にも同様。また、上郷町板沢に「大洞」(おおほら)さんが、土淵町山口には「大洞」(おおほら・だいどう)さんが。
 慶長年間の阿曽沼・伊達勢との合戦により、板沢氏・平倉氏が亡くなったことは先日記したが、その子息はかつての苗字「菊池」姓を名乗り、土淵へ移り住んだとされている。上郷と土淵には、この合戦から、何らかのつながりを感じずにはいられない。
 ちなみに、長洞さんを除いて他は、皆、土淵町の山口集落側の山沿いに住んでおられる。