「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

第33回 みちのく神楽大会 其の弐

2014-06-30 17:05:20 | 郷土芸能

6月も今日で終わり 生活には何の変化も無し

本業で、寝られないくらい忙しい思いがしてみたい 笑

 

今日の始めは、やはり、猫の額ほどはある我が家のお屋敷の花っこから

 

上郷のアジサイ神社は、一部咲といった感じで写真には、イマイチ

(まさか、咲き終わったわけではないと思うのですが・・・)

 

さて、昨日に続いて、神楽

 

羽山神楽

羽山神楽さんのHPを見ると、起源は小国村常楽法印から伝授された説、

宮古の鎌津田左京法印から南北朝時代の嘉慶元年(1378)に伝授された説がある。

昭和53年に保存会後援会が設立、平成7年に保存会と後援会が分離独立。花巻市湯本 早池峰系神楽 とあります

 

ブログ「祭りの追っかけ」さんには、もう少し詳しい紹介されており、

こちらの神楽が演じられる羽山神社は坂上田村麻呂開基、羽黒派修験専蔵院所管、

江戸時代後期に書かれたと見えると詞章本があり

文政3年と記された獅子頭と隠居権現様と称される年代不明の獅子頭が祀られているとのことです。

 

演じていたのは、とても若い人のように見えました

宝暦13年(1763)の御領分社堂を見ると、湯本村 羽黒権現堂 壱間半弐間板ふき 別当 専蔵坊

由緒等不相知 享保5年中野吉兵衛為祈祷被致再興候 とある

 

下似内神楽

イーハトーブ花巻のHPでは岳系胡四王神楽となっています。

 

隠れて見えないが、幕には羽黒稲荷神社とあり、江戸時代には羽黒堂だったのでしょう

先の御領分社堂には、下似内村 羽黒堂 俗別当 喜蔵 とある

 

天照さんのご機嫌も直り、みんなで舞います!

 

くずしでは、結構な動きだが、装束のせいか華麗に見えます

 

順番が早くなり、八木巻神楽

「神楽とわたしたちのくらし」のHPには、

大迫町外川目 享禄4年(1531)熊野大権現の分霊を祀ったのが八雲神社の始まりで、

永禄7年(1564)から八木巻神楽が始まる とあります

恒例の御領分社堂には 熊野堂 壱間四方かやぶき 俗別当 治左衛門 とある

 

演目看板には「四人命」となっていたが、パンフレットには「四神命」

水無月の祇園祭の日に高天原の神々が天照大神のもとに集い、お喜びを申し上げ、舞を奉ずる

と、演目紹介にはあります

 

早池峰圏にあるのに岳・大償両派とは別の神楽のようです

 

遠野ブロガーの多くの皆さんは、そろそろ神楽は飽きたと思いますので、

今日は、もうひとつだけ 笑

 

上根子神楽

「伝統芸能 夢の架け橋~北の魂、南の魂~公式ブログ」を見ると

円万寺神楽流 明治初年の謡本が現存しているので江戸後期からの伝承ではないかと言われている。

とあります。

熊堂古墳群のある熊野神社の奉納神楽のようです

 

この演目は私は初めて見ました 道成寺由来の演目

(今回は、初めてだらけです 笑)

 

女人禁制の金巻寺の鐘の緒を取った姫が、蛇身に変わり、山伏が法力で折伏させる内容とのこと

 

蛇は、場内をさまよい、子供をさらっていくのだが、

さらわれた子供は大泣き、それを見ていた大人は大笑い

罪のない子供はとんだ災難でした 笑

 

唸るほどの踊りあり、会場をわかせる芸ありで、神楽大会の前半の終了


第33回みちのく神楽大会

2014-06-29 22:21:08 | 郷土芸能

昨夜は唯一自分が出られるお祭りで、お世話になっている先輩からのお誘いを受け一献

今朝は、昨日からの雨も止まず、

 

御屋敷の花だけは元気なようだ 笑

 

こんな日は屋内に限るということで、隣りの東和町まで出撃

 

釜石自動車の恩恵を受け、「御神楽奏上」直前に滑り込む

大迫早池峰神楽の本拠地花巻市の神楽大会というだけあって、会場は満員御礼・熱気むんむん

 

トップは石鳩岡神楽

天保5年(1834)、石鳩岡の住人菊池傳右エ門が、小国常盤守より嶽神楽を伝授され、

早池峰嶽流石鳩岡神楽を名のり独立を許される。

昭和33年南部利英公より向鶴の紋章を幕類装束等一切に使用をすることを許され、

以来盛岡南部家の祭神を祀る桜山神社例祭にて奉納

と、石鳩岡神楽さんのHPに掲載されている

 

鳥舞で、その日の神楽が決まると云われるそうだが、

 

途中で帰れなくなりそうな予感 笑

 

小瀬川神楽

大正7年(1918)花巻市の円万寺神楽より伝承される。その円万寺神楽は同寺を根拠地とした

修験者らが伝えたものと、「花巻市の歴史・文化と」の他岩手県の郷土芸能を紹介するHPに掲載されている。

 

伝承元が違えば、同じ演目でも踊りに異なるところもあるのは、どの郷土芸能も同じ

こちらの三番叟のこのポーズが目に焼き付く

 

お約束のシーン 笑

 

胡四王神楽・・・八幡舞

「花巻市の歴史・文化と」のHPには、いつから伝承されたか、はっきりとはわからないが神社の獅子頭に

慶長3年(1598)4月8日と記されていることから、この頃には既に伝承されていたと推定される、とある。

岳神楽派

 

こちらの神楽もいつかは見たいと思っていました!

 

胡四王神楽の本拠地、胡四王神社は私の好きな小原樗山ゆかりの神社でもある

以前の記事はこちら

 

と、いうことで、今週は続きをボチボチUP予定となります 笑

 


晴れのち雨

2014-06-28 14:39:19 | 景色

半袖にしようか長袖にしようか、そんな日が続いているが、

今朝お会いしたとらねこさんは黄色い半袖、お昼過ぎに駅前でみかけたとおのおぢさんも半袖

そして、私は長袖・・・笑

天気は、平日が晴れで週末が雨

梅雨どきなので、天気も気温も、あっちこっちで定まらず

そんな今日は午前中、とらねこさんが綾織の先で待ち伏せということで、

同じ方面へ行くも、途中で右折し、綾織停まり

 

こちらは晴れているが、山の向こうは雨 無煙銀河も緑に隠れる

 

恒例により、遠野駅に

 

踊る頃には雨となり、外山神楽も屋根の下

 

先週日曜のしし踊り奉納の日、結婚式を行なっていたのが外山さんの関係者

もしかして先週も踊ったのだろうか?

あんたに関係ないでしょ!・・・そのとおりです (-_-;)

 

遠野駅出発時には、まだ雨が降っており、近場にて

 

お父さんが釣り案内人という訛りの無い少年と一緒に

 

今日は、あまり煙が吸えませんでした!

(洗濯物に煤がつくので仕方ありません←勝手に想像)

 

今週は、雨が降りそうな気配がありながら、どっちなの?

と思わせぶりな雲が出ていたが、

 

我が家の御屋敷にある花

 

水が欲しい様子だったので、今日は恵みの雨となっただろう

 

とらねこさんが花巻空港で撮った夕日はまん丸だったが、

こちらは、少しイビツ

撮る人の性格に似るのかもしれない 笑

 

ところで、明日29日(日)

遠野駅前では、第2回バケツでジンギスカン大会

午前11時から午後3時まで

ジンギスカン150gと野菜がついて1,000円

(バケツ・鍋・固形燃料がセット)

雨天時はテントの下になるようだ

自分で飲み物を持ち込み、昼間から宴会も良いのでは?

 


太鼓踊系しし 踊り編後編

2014-06-26 11:08:47 | 郷土芸能

とある論稿によると仙台藩 には八幡堂系、桃生野系、屋代郷系三系統のしし踊りがあり、

そこから派生したもののうち、岩手県南部には、行山流、金津流、春日流などの分派が多く伝えられているようだ

この分派が明確なのは踊りが伝授される場合、巻物と云われる免許皆伝?が与えられ、

それを代々大事に保管しているからにほかならない。

幕踊り系にも巻物は伝わっているが、明治以降、この免許皆伝方式は無くなっているようだ

 

さて、踊りも後編

 

金津流石関鹿躍

伊達藩士犬飼家に伝わる踊りを宮城郡国分松森村の源十郎が伝授され、

安永8年(1779)源十郎から石関村小原吉郎冶に伝授と配布資料にあります

 

上記の犬飼家関連は他に鶴羽衣鹿踊があり、慶長12年(1607)七北田の藤九郎から万吉に伝えられ、

後に仙台藩御境御番所に赴任した犬飼清蔵から3代目万吉が享保3年(1718)に改めて伝授された

と、「百鹿繚乱えさし鹿踊図鑑」に記されています

 

弓術、銃術で仕え俸禄120石の犬飼家には七北田八乙女に在郷屋敷があり、

寛永の頃、清蔵が江戸は三田の八幡社の分霊を移した屋敷神があり、その神社は今も残っているようだ

 

さて、その石関さん、太鼓踊系しし踊りに興味を持つきっかけとなったのが、ここの中立さん

遠野の幕踊系しし踊りの歴史を探っていた私が、しし踊りを検索すると、あちらこちらにその方のコメント

 

太鼓系のマニアや馬鹿と自称するほどのしし踊り好きには驚くばかり

どこか撮り鉄・乗り鉄さんに近いものを感じる 笑

 

太鼓の音、唄声、踊りのキレとも抜群で、細かなところまで練習でチェックされていると感じさせる

 

バイパスにも太鼓の音が聞こえたというこの日

ホームグランドにいながら、どこか県南地域でしし踊りを観ているような錯覚を覚えた

 

投げ草の歌詞がわからないので、紹介できず 笑

 

石関鹿躍の重鎮と思しき方、とても、味のある風貌がなんとも云えずgood!

 

そして、この日のトリ

 

行山流湧水鹿踊

 

追集(おいあつめ)

資料その他を見ると

慶応2年(1866)佐々木多郎が友人二人と家にあった鹿踊道具2組を用いて踊ったという伝承があり、

明治29年(1896)佐々木作治が2代目の中立を受け継ぐ。仲間は15人ほどだったとのこと。

 

明治30年頃(1897)江刺の梁川で行山流鹿踊が舞われていることを知り、指導を受け奥義を伝授される

 

慶長2年(1597)野手崎村久田に住む吉郎兵衛、仙台城下八幡堂踊大将佐藤長兵衛より行山流鹿踊を伝授され・・・

これは作成者年月等不明として湧水に伝わっている

 

湧水のルーツとなる久田鹿踊の資料を見ると、伝承の始まりは慶長4年となっており異なるが、八幡堂の件は同じ

仙台市教育委員会編「仙台の民俗芸能」によると

仙台市大崎八幡の別当寺龍宝寺の塔頭東光院が藩内の鹿踊と剣舞、田植踊り等の庶民の芸能を管理しており、

東光院の踊の大将「藤九郎」が仙台市泉区の福岡鹿踊・剣舞の祖と記されている

気になるのが、これらと犬飼家の関わりで、

七北田には犬飼家の在郷屋敷があり、そこに藤九郎がおり、八幡堂門前にも「藤九郎」、

では、犬飼家の本来の屋敷は城下のどこにあったのだろう?

武門で仕えた犬飼家と八幡堂踊大将との関係は?

(仙台藩士であれば家臣録があるはずなので、調べてみる価値があり)

ちなみに「藤九郎」という名前は田植踊りやえんぶりの登場人物の名前にもある

 

踊りは、追集にふさわしく、坊主(子供たち)が鹿を集める

坊主と云えば、先日、東北学院大学論集に興味深いものを見る

「大名正室の領国下向と奥向」という表題で、伊達一関藩8代藩主の養祖母宣寿院が江戸から

一関にある夫の墓参に行った時の様子が記されている。弘化4年(1847)のこと

その中に滞在中の様子を描いた絵があり、宣寿院が家臣と共に獅子踊を見ているシーンが出てくる

論文では、「舞川獅子踊」が披露したとあり、

絵には、しし9匹、ししの前に道化役、その他、正座し二人

(ネットで検索できます)

現在の舞川の構成とは異なるように思えるが、この絵の実物は一関市博物館所蔵とのこと

 

踊りも最後、「投草を投げたるお人の心なつかし・・・」

 

太鼓踊系の中でも岩手では久田鹿踊と湧水だけが坊主と笛が別に付く

貴重な構成だということを遠野の皆さんに知ってほしいところです

今回は仙台藩縁の鹿踊りを堪能したわけですが、山形にも多くのシシ踊りがあるようです

その形態は3匹のもの、それ以上のもの、太鼓踊り系、幕踊り系と多彩であり、

いまだ、その歴史についての文章を学んでいないので、そちらも興味津々というところです 笑

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


太鼓踊系しし 踊り編前編

2014-06-24 22:19:16 | 郷土芸能

22日のしし踊りの日、寝る前に体重計に載ると、思ったほど体重が減っていない。

いくらなんでも1Kg以上は減っているだろうと期待していたが、600gの減

夕ご飯に沢山食べたわけでもなく、お昼も食べていないのに・・・がっかり

再来週は健康診断だが、まさか空気を吸っただけでも体重が増えるとも云えず・・・笑

さて、話は、奉告祭神事終了後に戻り、踊りの披露となります。

 

トップは春日流八幡鹿踊

配布された資料には、和賀郡落合村の春日流落合鹿踊文化元年(1804)を始祖とし、

安政2年(1855)落合の小原右衛門から稗貫郡関口の藤根寅蔵に伝授

明治10年(1877)八幡村島岡の上川長蔵が藤根鶴蔵・金太郎から伝授され、以後途絶えず 

 

演目は一番庭・・・幕踊り系では「いれは」に該当するのでしょうか?

 

太鼓踊系には〇〇流という流派が名前の前に付くが、幕踊り系では少ない

東和町田瀬に東半月流野金山かながら獅子躍という幕踊系があるようだ。

遠野市小友町長野獅子踊は謂れに寶山奥山半月踊という文字が確認できる

 

宮沢賢治は「鹿踊のはじまり」を記しているが、

実際、花巻の鹿踊で一番古い伝承をもつのはどこなのだろう?

 

現花巻市は太鼓踊系と幕踊系が混在する稀なる地域

 

ところで、この八幡さんに以前、ぶらりとやって来て、しし踊りの太鼓を叩かせてほしいと云い、

おもむろに車から太鼓を取り出し、一人奉納をした人がいると聞いたことがある

 

私にその話を聞かせてくれたこの近所の方は、その太鼓の方が誰だったのかと

思い出そうにも思い出せない様子

 

遠野らしい語りである 笑

 

続いて、行山流舞川鹿子躍

 

配布資料には、宮城県本吉郡水戸辺村(現南三陸町志津川)に住む伊藤伴内持遠を元祖とし、

元禄13年(1700)舞川の吉田猪太郎に免許が与えられ、昭和初期まで42代の庭元を維持し、周辺村々へ伝承

 

ブログ「祭りの追っかけ」様で確認すると水戸辺鹿子躍は、伊藤伴内が登米郡の伊達式部に召し使われていた頃、

伊達綱村が仙台に入部した際、踊りを上覧し「ぎょうさんなる踊り」と褒められたことから

「行山流」と称するようになったとのこと

 

綱村が活躍した時代を考えると延宝~享保初期(1673~1716)あたりか

 

仙台藩の延宝5年(1677)「百姓条目」には、

14.神事祭礼は軽く仕るべき事

16.勧進相撲、花火、あやつり、かぶきの類、堅く御停止の事

附り(ツケタリ) あやつり、かぶきの真似をいたし、すべて百姓に不似合いの態仕りまじき事

などの文章があり、芸事が厳しく規制され始めたことがわかる

 

ところで、舞川鹿子躍の皆さん、しし頭をかぶる前に見たら、本当に若い人たちばかり

 

三人狂い・・・本当に見事に飛ぶ!

若い人でなければ、踊れない理由がわかったような気がします 笑

 

都会の方々も参加されているとお聞きしたが、踊りがスマートなのはそのせいかも 笑

 

演目の違いもありますが、流派によって違うものだと実感した前半

(何がどう違うのかって?私に聞かないでください 笑)