「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

2008 稲刈

2008-10-28 18:14:42 | その他
 今年の6月10日に田植をした小学校の稲刈りが昨日行なわれた。

 

 ご覧のように田植がメインか泥遊びがメインかと思われたものの

 

 なんとか収穫できるまでとなった。農業改良普及所の方と田んぼのお世話をして頂いた方の話では、カメ虫が入ったということだったが、よくぞ、ここまで。

 

 稲刈の仕方と注意事項を聞き、いざ!

 

 誰か最初にやってみせないかな・・・と思ったかどうかはわからないが、フライング気味の子につられて田んぼへ。

 

 一列に並んで始まったものの、グループごとに少ない鎌を使うので、トラ刈となる。

 

 鎌といえば、私が子供の頃は普通の草刈鎌を使っていたように記憶していたが、今はギザギザのついた専用の鎌を使用することにびっくり!(手伝うつもりで持っていった草刈鎌は目に付かないようにそっと隠す・・・汗)

 

 刈った稲は、コンバインに。

 

 前日の雨で足元の悪い中での作業ながらも、どんどん進む。

 

 1時間ちょっとの作業で、刈り終わる。マンパワー~! 見に来ていたおじいさんに、こんな刈り方では手間銭は払えないと云われ、刈った跡、こぼした稲を子供達と拾って終了。

 私が小学校の頃には、こんな体験学習はなかった。・・・農作業そのものを見る機会も少なくなった遠野の子供達・・・・親の仕事自体見たことがない子供も多いだろうなあ。

 

 近所の家には残り少なくなった柿。

 そして

 

 田植に気になったもの。お墓であった。俗名小笠原何某。

 

 ここちらも。大きな石は何かわからなかったが、標柱があることから、謂れがあるものには間違いないのだが、文字は消えて解読不能。廻りにある石は、やはり墓石。

 倒れたままの石は、なぜか物悲しい。 



 

伊豆神社千二百年年祭

2008-10-26 16:20:50 | 神社
 今年の神社例祭の閉めは、上郷町来内の伊豆神社。

 

 あいにくの空模様、そして我が家のDELLが故障の中、現地へ飛ぶ。風がないので、幟も開かず。

  

 御領分社堂では、板沢村 伊豆権現、俗別当長作とある。板沢ぶんでは、曹洞宗曹源寺の寺院持としての早池峰大権との二社のみ記されている。平倉村ではなく、板沢村に載っているところが面白い。今年は、始閣藤蔵が神社を建立して1200年にあたり、例年よりは人が多いとのこと。

 

 この社殿については、江戸時代、中舘氏が寺社奉行の時に改築されたものと云われる。

 

 その中館氏との関連で興味深いのは、昭和63年に修復工事をした際に寄附をされた方々の芳名額が外に掛けられており、遠野、盛岡、茨城、奈良の中館姓が確認できることである。集まっていた方々にこれについて伺うと、ここは藩政時代、中館氏の知行地であったことから、その関係者であろうとのこと。隣りの平倉周辺に行くと、福田氏の名前が見え、やはり知行地であったようだ。昭和の初め頃まで、平倉では、米が取れると町の福田さんの家へそれを運んだという話までお聞きする。

 

 遠野市内の主だった神職の方々も参列され、伊豆権現と深い関わりのある早池峰神社の里、大出神楽の打ち鳴らしで神事が行なわれる。

 

 また、大出早池峰神社の宮司氏の舞も奉納され、厳粛な時間が過ぎる。

 

 拝殿上には「伊豆大権現」の掲額。願主は来内村小笠原孫之丞。そして、書作は及川藤原春明。春明?どこかで見た名前である。青笹町中妻観音堂にも関わる名前。同年代の額だとすれば、これは明和年間のものということになる。それにしても、春明なる人物は、本当は何者なんだろう?

 

 神事の最中、「御低頭願います」の声の間、これ以上は下げれない程、頭を垂れるおばあさんを横に、妄想しつづける私に参拝のご利益はあるのだろうか?
 おばあさんの奥には、どこかで見た女の人が・・・市の社会教育関連の行事で云った遠野七観音巡りで引率してくれた方だった。今日も何かを取材している様子。

 

 計り知れないつながりがこの神社と早池峰神社との間にはあり、遠野三姫や瀬織津姫命など多くの切り口から学ぶことのできる土地柄。

 

 神社前の「権現橋」の向山には、藤蔵の墓もあるのだとか。神事終了後に、行ってみたが、それがどこなのかは確認できなかった。昔は、墓石もあったと云われるが、今は無いとのこと。

 

 今は無いと云えば、この田植踊り。ここには、南の山向こう住田町から伝えられたという「剣舞(けんばい)」もあったというが、どちらも廃れている。

 

 隣に居たおばあさんに聞いたところでは、拝殿におかれた御神輿も、おばあさんが若い頃までは下げられたようであるが、若い人達が少なくなってきたことや、この例祭日が学校の文化祭と一緒の日となることから、年配者のみが参加する祭りへと変わってきている。

 

 

 

遠野大工 其の参

2008-10-23 18:54:01 | 歴史
 遠野大工三人目は鶴田氏。
 
 天保2年(1831)松崎町村兵稲荷建立の鶴田重吉を初見とし、安政元年、万延元年の御支配帳、面附帳に3人扶持喜三郎、惣兵衛が、慶応元年の遠野臣録帳に2人扶持巳代吉、徳四郎が、明治元年御支配帳に3人扶持喜惣治、同33年遠野士族名簿に3人扶持惣助、後に専助へと継がれる。

 

 遠野大工四人目は細越氏。

 安政3年遠野本城御家計図に平野、市川、鶴田、寒風氏と共に、忠治、忠和の名前が確認されている。同6年御支配帳に広治、忠兵衛、面附帳に広治、万延元年、明治元年に広治、遠野士族名簿に忠治、後に徳治へと繋がる。細越氏は、阿曽沼氏の家臣名にその苗字が確認でき、本姓は菊池。南部氏の時代に浪人した物の末裔か上郷の地名からきた苗字なのかは定かでない。

 

 最後に、寒風氏。

 重右衛門を祖とし、八戸譜代と称される大工の家柄で、天保14年(1843)御神明社の寒風伝兵衛が初見。嘉永5年(1852)伝兵衛の跡を息子欣五郎(17歳)が継ぐ。安政の遠野本城御家計図に上記緒家と共に寒風未生の名が記され、同6年御支配帳に2人扶持欣五郎、万延元年面附帳に清十郎、明治元年御支配帳と遠野士族名簿に同じく欣五郎がある。

 

 欣五郎は、維新の頃には諸家と共に長柄組に属していた。慶応2年(1866)には総職司に挙げられ帯刀が許され、江刺県庁が遠野にあった頃に県の材木係となり、後に稼業に励み公共事業の施工などを行い、郡議会議員となる。(長柄組とは、幕末に沿岸部から来襲する恐れのある官軍に対し、遠野の同心達がその備えに出たために、手薄となった町内の警護に職人達を組織したもの)

 

 明治25年先祖の八戸郷相内村にちなみ、姓を寒風から相内と改姓。八戸郷相内とは、現在の三戸郡南部町相内を指すのではないかと推察する。

 

 様々な御支配帳に登場する五人の扶持大工。名前が登場する当初は、苗字を持たない人々だったようだが、何故にこのような姓を付けるに至ったのであろうか?

 平野は花巻・東和辺りか? 市川は千葉ではないよね? 鶴田は津軽か? 細越は上郷か? 寒風は綾織か? 中でも、以上の5氏の他に別格としての20石を扶持ではなく知行地として頂いていた平野氏が棟梁格として明治まで存在していたことに興味を抱く。 

 

 まるで雲をつかむような話。この雲の上で、これらの人たちは「何を考えているんだ!」と笑っているかもしれない。

 

 扶持をもらって最低限の食費を確保し、建て主から材料を支給してもらい、手間賃を頂いて仕事が出来た時代の職人は幸せだったのか?少なくとも、技をはっきする機会には恵まれていたのかもしれない。寒風欣五郎のように請負で工事をする今の時代は、景気に左右される。

 

 地元の職業訓練校でも来年は大工さんになる1年生が少ないとか。

 職人がいなくなっても、困らない家造りは可能なのだろうか?育てるも、滅ぼすも、それぞれの気持ちひとつ。

 すっきり晴れる未来が見たい。と、大工のことが景気のことに話が変わったところでおしまい!お粗末さまでした。

 

遠野大工 其の弐

2008-10-22 18:11:09 | 歴史
 平野氏に続き、市川氏。

 遠野大工覚書」によると、市川氏の先祖となる半之丞は元禄元年頃の生まれで享保6年(1721)1人扶持にて採用。寛保3年(1743)常堅寺では、平野庄八と共に脇師とし参加し、その翌年延享元年(1744)八戸弥六郎盛岡城上屋敷が焼失した際、その再建にもおそらく、平野氏と共に参加したものと推察する。

 

 また、明和年代の十文字橋・新町橋築造、瑞応院山門建立には同様に平野庄右衛門と共に市川弥蔵がおり、享保3年(1803)には切米5駄が加増される、時に才右衛門。

 

 安政3年(1856)遠野本城御家計図には市太郎、同6年の御支配帳には左右衛門、万延元年の身帯面附帳には弥蔵、明治元年御支配帳に左右衛門、遠野士族名簿に長柄組として才右衛門そして、久太郎、喜左衛門と続く。この系譜に萬福寺裏で建設業を営む会社の初代健次氏が連なる。

 

 大手門前を望む。一日市が車利用上のメインロードだったことがわかる看板。

 

 そして現在。

 

 おまけ。昔話村もパチンコ屋さんもまだ無い。 

遠野大工 其の壱

2008-10-21 18:58:30 | 歴史
  ●遠野古事記●宝暦13年(1763)宇夫方広隆著
 
 八戸より被召連大工四五人、地方七石づつ被下、御台所に被差置 朝夕の御賄い被下居候処、二三年過ぎ候へて御暇を願い、故郷に帰候者有之。両人残り候内、一人は病死、相続の男子なく遺跡断絶仕候由。一人喜右衛門の子喜蔵は粗細工に候へ共、父死去の遺跡無相違被下大工町に居申候。此男度々致酔狂候故、世人「つくり喜蔵」とあだ名を付け、出会をいとはるる老人、頬髯白き小男、予弱年の頃迄、存命して往来仕候を見申候。喜蔵病死の時、子供は弱年にて家職も勤め兼ね候へ共、御譜代の子孫不便に被思召、遺跡の地方半知家屋敷共に被下置候処、四五年過ぎ病死仕候。八戸より参候大工共故郷に帰候以後、当所の大工、木挽、畳刺段々数人被召抱、御台所に可被差置所無之に付、町御同心の家続に屋敷を被下引移候へても以前御台所に被差置候時に不相変、新古の職人共、毎年正月元日、三ヶ日、七ヶ日、十五日、二十日に御登城、御菓子、餅、濁酒、近年迄頂戴仕候。

 

 「遠野大工覚書」を著した市川泰造氏は、この記述から八戸譜代の大工は、この時点で断絶したのではないのかとの思いと、後々まで「我が家は八戸譜代の大工の家柄」と名乗る人達が存在することへのこだわりから、遠野南部氏のお抱え大工であった自身の先祖を辿っている。その「遠野大工覚書」を根本資料としながら、史料に現れる大工を紹介する。

 

 最も古い文献は、八戸直栄が遠野に移封された7年後の寛永11年(1634)著の「三翁昔話写本後編(御支配)」であり、20石大工重斗右門、15石大工左兵衛とその他に大工と思われると記された10人(弥助、与左衛門、弥三郎、平十郎、五右衛門、三助、助三郎、小四郎、与四郎、長七)がおり、各7石となっている。この7石は遠野古事記の石高と合致しており、棟梁格二人の配下の人達であろうと推察する。次に古事記の愛宕橋の項に寛文6年(1666)橋築造の棟梁として十左衛門が登場するが、この人物が、先の棟梁二人のうちのいずれに連なるのかは、不明。そして、その3年後に八戸氏(遠野南部家)の松前出兵準備に際し大工庄蔵、半三郎の名前がみえる。

 

 その後、大工町が成立し、元禄4年(1691)早池峯山新山宮再興には大工棟梁平野庄右衛門勝吉、小工長男庄吉勝貞がおり、はじめて苗字を持つ大工の記録として残っており、「つくり喜蔵」の子が亡くなるのは、その9年後の元禄13年(1700)。譜代といわれた喜蔵の子が生存中に、平野氏が大工棟梁として遠野に地位を確立していたことになる。この平野氏がいずれから来た人物なのかは定かでないが、松前出兵の「庄蔵」とのつながりを強く感じるところでもあり、また、東和町に多く見られる平野姓との関連も惹かれる。

 
 (かつての高善旅館)

 
 (現在の高善旅館)

 

 現在、大工町通りと一般的に呼ばれるのは、下早瀬橋から、旧高善旅館の辺りまでであるが、古くは萬福寺門前から旧高善旅館辺りまでであったことがわかる。

 

 当初の大工町には、町同心屋敷があったが、職人を住まわせる場所を確保するために、町同心を地図上の中組方面へ新たに町割をして移したものである。