「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

金毘羅神社に幟

2012-07-16 13:11:43 | 金毘羅

土曜日、上の娘を迎えに行った帰り、下早瀬橋を過ぎると幟

今年は例祭の様子が見られるかと思い立ち寄る

 

神社の廻りには手作り提灯が飾られ、建物には紅白幕

 

入口が開けられており、中にはお供え物と御神輿

 

が、人は、いない

 

翌日は生憎の雨

昼過ぎ、もう一度、通るが神社には誰もいない

そばにある消防コミセンには、大勢の人の気配があり、神事等は終わった様子

 

その夕方、再度、行くが人の気配なし

 

子供達の手作り提灯だけが雰囲気を醸し出す

 

中には、こんなものも・・・・大槌に縁ある子供がこの地区にはいるのだろう

 

さて、

この金毘羅神社、以前にも一度取り上げているが、もう少し踏み込んで・・・・

 

建物に掲げられている額には、三神社の名前

この金毘羅神社は、裏町鎮座とある

 

「遠野町古蹟残映」には、遠野町第13地割1番大工丁の北にあり。金刀比羅大権現を祀る。

御神体は高さ一尺位の木造の小堂にて、もと下の屋敷なる山奈某の内神なりしを、

山奈家絶えたる後その遠縁の者これを祀ると伝ふるのみ。其他不明なり。

とある。

 

私が幼少のみぎり?、大工町の祭りといえば、この金毘羅さんの宵宮で、

多くの人で賑わっていたが、それも、いつの頃にか行われなくなった。

 

町の人にこの時の金毘羅さんは、どこにあったのかと訪ね歩くと多くの人は、早瀬だと答える。

今は昔である

 

神社に掲げられている昭和46年の写真

 

私の記憶にあるのも、この風景で、この頃には既に現在地に移っていたことがわかる。

後の昭和59年に現在の建物となる

現在の建物は北向きとなっており、なぜ、この向きに建てたのかは不明

(個人的には、仏壇を北向きにしたのと同じだと思っている)

 

昭和60年代、元々一間道路だった通りが拡幅され、現在の町並みとなった大工町

 

その仲町と駅前新穀町通りの間にある道路が、昭和通り

名前の通り、昭和の初め頃、桑畑があった処に通した道路

現在の町中にある東西に走る道路で明治維新後にできたものは

駅裏材木町と新穀町とこの道路だけとのこと

 

そこで、

古くから大工町で建設業を営む方から、お聞きしたところによると

あの金毘羅神社は、写真の突き当たりにあった由

この昭和通りの工事によって、現在地に移転したとのこと

移転直前頃までは、赤澤某氏が管理していたもののようだが、

その方が山奈氏の遠縁に当たるのか、

戦中戦後の混乱期に所有者が変わったものかはわからないが、

大工町周辺の方々に愛された金毘羅さんが今では早瀬町の祭りとなって続いている

 

主として、航海安全の神様である金毘羅さん、

遠野の各地に金毘羅大権現の石碑が建つが、

お伊勢参りの際、四国まで足を伸ばす習慣があったようで、

その旅行に行く為に各地に講が作られていたようだ

 

さて、さて、明日は、海の民の神様でもある大出早池峯神社の宵宮

午後6時30分~神事及び神楽奉納 

終わりは、去年は10時半過ぎ

翌18日(水)午前10時から例祭

連休明けの平日ということもあり、例年より参拝者は少ないと思いますが、

逆に云えば、じっくり見学できるチャンスかと。

ただ、天気予報では、明日は午後から雨、水曜日は曇り後晴れとのこと

宵宮にお越しの方は、蚊と湿気対策が必要かと思われます

 


早瀬町金毘羅神社

2007-04-08 01:17:00 | 金毘羅
●金毘羅神社●
遠野市の行政区でいうと遠野町12区、市民感覚でいうと早瀬町、実際の地名は松崎町白岩10地割。小学校は北小学校、町民運動会は遠野町、生活圏は松崎町。と前置きはさて置き。ここにあるのがこの神社。
 

                 
 
 金比羅さんといえば

    金毘羅 船船 追手に帆かけて シュラシュシュシュ
    まわれば 四国は 讃州 那珂の郡
    象頭山 金毘羅大権現 一度まわれば

 この歌を思い出すほど全国的にも有名なのだが、かつて陸の孤島といわれた遠野になぜ海の神様が鎮座しているのかと疑問をもつ。

                 

 関連資料によると、

 ・香川県仲多度郡琴平町の象頭山、金比羅宮。讃岐の金比羅さんの愛称で親しまれる。海の神で航海安全の神。また、水に関わることから、農業神としても信仰される、全国各地に代参を行なう金比羅講が設けられた。
 ・明治元年(1868年)の神仏分離令で、金刀比羅宮と改称し、祭神の名を大物主神と定める。また、祭られていた宥盛は厳魂彦命と名を変え、明治38年(1905年)には現在の奥社へと遷座される。それまで金毘羅大権現の本地仏として祀られていた本尊十一面観音像は信仰の対象から外されたが、社宝として現在も観音堂に納められている。不動明王、毘沙門天の2体の脇侍仏は破却の危機に直面したが松尾寺の末寺である万福院住職宥明によって救い出された。その後、所在は転々としたが、明治15年(1882年)、裸祭で知られる岡山市の真言宗寺院、西大寺の住職光阿によって同寺に勧請され、あらためて金毘羅大権現の本地仏として祀られ現在に至る。
 
 遠野の場合、熊野衰退以降に伊勢参りと共に金比羅参りが盛んに行なわれた時代にそのルーツを求めることができるのかもしれない。市内各地に金比羅の石碑があることからも想像される。
 
                 
 
 社正面左側にある掲額には、
  旧遠野横田村鎮座 大瀧神社
  遠野裏町鎮座 金比羅神社
  旧遠野横田村鎮座 熊野神社
 とあり、三社を合祀したことがわかる。
これは、明治の神仏分離令が発端で、その後、裏町の社を現在地に移築し、昭和59年に現在のものに建替えられたようだ。この三社は、元々何処の場所にあったものなのだろう?大瀧神社は加賀の白山、福井の平泉寺に次ぐ越前の神社からか?熊野は新張や諏訪神社隣接の他にどこにあったのだろう?