お文殊様。地元の方々は、今でもそう呼ぶ。明治の神仏分離以後、「倭文神社」(しとり、又は、しどり)と改名。本来8月20日が例祭日で、かつて土渕村社。何日か前から、幟が建っていたが、日曜日の土渕まつりに合わせたようだ。
神輿が町内を巡行する直前に現地入り。あいにくの雨模様で、神社には、灯りがともり、宵宮を彷彿させる。
神輿も雨対策で、シートを被っていた。
かつては、郷土芸能の奉納や相撲などでとても賑わった祭りだったというが、町内のまつりへ移行してからは、寂しくなったと近くに住む叔母が話す。
かっぱを着た似田貝神楽の子供達が神輿について歩く。(移動はバス)そして、町内のポイントとなる場所で演じながら、まつり会場である土渕地区センターへと向う。今年の土渕まつりには、柏崎しし踊りが出演しないという怪情報があり、土渕を後にした。
以前のこの神社を紹介したので、それの補足。
羽黒派修験喜楽院、文殊堂 社領三斗。阿曽沼氏の時代に初代喜楽院の父が、お不動様を持ってこの地に住みつき、山伏となったという。その不動様がこちら。
寛文年間(1661~1672)には正福院を栃内に別家として出していることから、南部氏が遠野に移り、その後の地域開発に協力する形での栃内行きではなかったろうかと考えている。正福院は厚楽川の水路を治して湿地を開田した事実と、大洞家が一時期、沢里姓を名乗っていたことがあるという点がその根拠となっている。
最近、いろいろと聞いていると南部氏が遠野へ移るに際し、修験系の人達を先発隊として送り込んだとか、地域開発にそれらの方々の協力を得たという話が残っていて、新たな面白みを感じている。
神輿が町内を巡行する直前に現地入り。あいにくの雨模様で、神社には、灯りがともり、宵宮を彷彿させる。
神輿も雨対策で、シートを被っていた。
かつては、郷土芸能の奉納や相撲などでとても賑わった祭りだったというが、町内のまつりへ移行してからは、寂しくなったと近くに住む叔母が話す。
かっぱを着た似田貝神楽の子供達が神輿について歩く。(移動はバス)そして、町内のポイントとなる場所で演じながら、まつり会場である土渕地区センターへと向う。今年の土渕まつりには、柏崎しし踊りが出演しないという怪情報があり、土渕を後にした。
以前のこの神社を紹介したので、それの補足。
羽黒派修験喜楽院、文殊堂 社領三斗。阿曽沼氏の時代に初代喜楽院の父が、お不動様を持ってこの地に住みつき、山伏となったという。その不動様がこちら。
寛文年間(1661~1672)には正福院を栃内に別家として出していることから、南部氏が遠野に移り、その後の地域開発に協力する形での栃内行きではなかったろうかと考えている。正福院は厚楽川の水路を治して湿地を開田した事実と、大洞家が一時期、沢里姓を名乗っていたことがあるという点がその根拠となっている。
最近、いろいろと聞いていると南部氏が遠野へ移るに際し、修験系の人達を先発隊として送り込んだとか、地域開発にそれらの方々の協力を得たという話が残っていて、新たな面白みを感じている。
小正月行事に「ヤラグロウ・ヤラマワシ」の風習があり、その唱え言葉に「やらぐろう、とんびくる、ぜにもかねもとんびくる、うまっこもちのとのがなぁ~、べごっこもちのとのがなぁ~まめのかわもふかふか、そばのかわもふかふかぁ~恵方(あき)の方を見てやれば・・・・・」と唱えながら家の周りを巡り、窓の数「やかがし」を立て窓塞ぎをする風習があった。
この行事からも、先発隊が領民に対してまだ見ぬお殿様に期待感を持たせる役割を果たしていたものと思われますし、その通りの殿様だった事から、その行事も最近まで伝わってきたものと考えます。
先日は、お世話になりました。今週末は、所用にて行動規制されそうです。涙
さて、小正月行事ですが、「弥六郎」の風習にとても惹かれるものがあります。菅江真澄の東北の滞在日記「かすむこまがた」をはじめ、多くの部分に、田植踊りの記述があり、やん十郎というものが、「藤九郎がまいりた・・・」というせりふなどを云いながら、庭田植踊りを演じるくだりがあり、その芸能と「弥六郎」との関係や、修験と芸能集団との関係に調査範囲を広げていきたいと思います。
そして、「文殊さまよぉ」と言ったら「あぁ」との返事。
修験の方が伝えしお不動さま、文殊さま。どのように衆生に浸透していったのでしょうね。
加持祈祷だけではなく諸国を回ることから様々な情報を持ち合わせていた。また、芸能集団も同じと思います。
八戸弥六郎遠野入部に関しては、民意を図る行為としては修験道を先立としての考えに賛同いたします。
名梨さんとのかつての語らいで、何故に八戸で盛んである「えんぶり」が遠野へ伝えられなかったのか・・・?・・・これはまたの機会の調査対象ながら、今回、コメント欄にての「藤九郎」まさに「えんぶり」の太夫の中の太夫、太夫の指導役が藤九郎といわれ、田植え踊りとの関り、これもまた興味を覚えます。
次回の八戸行きでは、根城や新田氏ではなく、えんぶりと遠野みたいなテーマで行ってみようかと思案中です。
土淵の遠野の祭りもだいぶ変化してきているのでしょう。市内には、まだまだ、祭りの原風景を留めている地域はありますが、土淵に関しては、神社を中心とした祭りとしては、金勢様があるぐらいで、(それも新しい)さびしいような気がします。
それらに関する資料等が書物として残っていないのかとの思いもあって歩いていますが、これがなかなか。
「とうくろう」、字や若干の呼び方に変化はありますが、福島県から青森県まで、これらの田植踊りと称する小正月行事が分布しております。えんぶりも、えんぶりずりという呼び名と共に、田植踊りの中に登場していることから、かなりの確立で、同一系統のものだと思っています。
こうやって、社寺を追っているのですが、残念ながら、これといって感動するほどの建物には、会うことがありません。きっと、ブログの目とそうでないときでは、心の持ちような違うのでしょう。