昨年の春3月お邪魔した、ここ上郷町暮坪の熊野さん。縁があって、再訪。
まずは、別当さんのお宅に挨拶をして。
ここのシンボルの石碑群を横目に。
前回も記したが、暮坪地域の氏神として祀られており、六角牛山の奥宮にあった御神体2体のうち、盗難にあいながら、どうしても溶けないので返された1体がここに祀られる。
例の御領分社堂には、佐比内村ぶんとしての熊野神社は載っていない。地域の氏神として信仰されてきたのに、どういうことなのだろうと気にしていたところでもある。
同行して頂いた別当家の現当主と80代の先代との話によると、ここは六角牛山への上郷側からの登山口にあたり、気仙方面からの客が別当家へ宿泊をし、登山の先達を勤めていたという。80代の先代が子供の頃までは、かなりの人が利用していたようだ。
掲額は地元暮坪鹿踊連中によるもの。この地域には、鹿踊りの他に虎舞も残っているが、最近は、見る機会がない。
境内には、かっぱ淵の常賢寺と同様にかっぱ狛犬がある。
拝殿には、弘化4年に奉納された絵。願主は上組 川村○ノ丞
この弘化4年は三閉伊一揆があった年で、また、この弘化の時代には同じ上郷町平野原に仙台領から田植踊りが伝えられ、板沢しし踊りが南部公の屋敷で奉納舞をし、小友町長野のしし踊り供養塔が建立され、土淵しし踊りや達曽部湯屋神楽が伝えられた時代でもあり、何かと世の中が気忙しい頃のことである。
熊野権現社殿の隣にある六角牛権現を祀る建物は、だいぶくたびれており、御神体は別当家にて保管とのこと。
境内には古峰神塔他の石碑。
さて、この神社であるが、先代の話によると、この熊野さんは150年ぐらい前に、同町清水川にあったものを譲られてきたのだという。その経緯も、元の所有者も今は不明。例の分社堂には、現在の上郷町として、板沢村、平倉村、細越村、上佐比内村のみの記載で、該当しそうな板沢村には、曹源寺と伊豆権現しか載っていない。今では上郷の中心地ともなっている板沢であるが、当時は家数5,60件と細越村の1/3。もしかすると、宝暦年間には、存在しなかったものか、完全に朽ちた社だったのかもしれない。
遠野の人口がピークをむかえていた?昭和30年代に例祭に踊られた手踊りの記念写真。しし踊りの男衆の他に母子が参加できるほどの賑わいをみせた時代も今は昔。
この神社が移された150年ぐらい前とはいつ頃だろう?現時点からでは江戸末期。神社にある棟札は、明治と昭和の屋根替えなどの改修工事によるもののみ。建物内部には、慶応と記された手習いで使用した半紙が壁に貼られてはいるが、最も古いものは、前記の弘化4年(1847)の額。外では、鳥居脇にあった石碑群の弘化3年、その隣の文化元年(1804)の百万遍供養塔。
以上から考えると文化元年を移設建立と考えてもよいのかもしれない。
最後に、弘化年号の額にあった川村氏とは何者か?
明治2年の遠野南部弥六郎殿家来身帯面附帳まで、知行地をもった川村氏の名前は見えないが、明治32年に編された遠野士族名簿には、上組同心50人の中に、川村庄之助、川村勘之丞、川村惣兵衛、川村甚之丞、川村長之丞の名前があり、この中のどなたかの先祖と思われる。