「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

中下 熊野神社

2012-08-09 11:46:02 | 熊野

嘉永7年(1854)著 三閉伊路程記 に、青笹周辺の様子として次のような記述がある

少し行きて堰田という処に一里塚 堰田 家三軒

此の処中沢川橋有り、別れ道ありて中沢の方へ行く道也 此の橋を高橋と言うとぞ

少し行きて橋あり、東の山下に糠前村見揺る 家九軒程有るとぞ

下堰 家17軒

五丁程行きて子橋を渡り、二丁程行きて 中下 家17軒

熊野社有り、きせい院と言う寺あり

 

ここに出てくる熊野社が 中下の熊野神社

まぬけ節の日がちょうど宵宮だったようだ

 

江戸時代に書かれた盛岡から釜石までの街道沿いの地図にも

先の熊野神社が記されている

神社の門前に小川が通っているが、その名残が現在も見て取れる

 

今では、河川跡といった感じだが、地目は川だったと記憶している

 

一度も例祭の様子を見ていない神社のひとつ

 

 

以上で、撮り貯め画像の部を終わります

これから、しばらくは、トンネルの向こう側へ頻繁に通うことになりそうなので、

あればり・こればり

は、しばらく、お休みかな? 笑

 

 尚、高校の同級生の皆さんに告知です

お盆期間?の顔見せ会は、人数等の確認が困難な状況なので、

8月17日(金)午後6時前後から仲町、佐藤酒屋並びの「寿々」にて三々五々ということで

食物は、あまり準備していないので、お盆の残り物など、各自持ち込みがよろしいかと・・・

 

 


観明院

2009-12-10 18:27:40 | 熊野

天気の良い寒い朝。

出勤前に六角牛方面を望む

 

早瀬川に残るわずかな緑も白い

 

川の水の方が暖かいので、湯気?

 

早瀬川を上流に進み、細越辺りまで行くと熊野神社

 細越:阿曽沼家臣と云われ、江戸時代の遠野大工にも名前が見える苗字ながら、遠野同様に八戸にも地名として存在する。また、県北にも見られる苗字。これは、どういうことなのだろう?両者が並存していたということなのだろうか?

 

おしらさまで有名な中山家

 

 ちょうど、写真を撮っていると声をかけられる。家の方だった。かつては、市や博物館に依頼されて小正月行事の「おしら遊ばせ」を取材されたことが何度となくあったそうだが、だんなさんが亡くなってからは、一人となり、行事も行なっていないのだという。残された家屋敷を維持するのが大変だと話す。

 

 細越村愛宕別当 大蔵坊 

 初代壽延 時代年号不知

 二代宮蔵坊延浄 元禄15年(1702)死去(赤穂浪士討入の年)

 三代略

 四代宮蔵坊智峯 享保17年(1732)中沢村愛染院弟子ト成宮蔵坊ト号

 以後、観明院として山伏として続き、最後の当主は神職であった。

 愛宕については、いずれ。

 青笹は中村の荒神さんのところで紹介した愛染院とは、師弟関係にあり、いずれのお宅にも「オシラサマ」が存在する。

平野原の石碑

 

この石碑のそばには、

屋敷の主不在の社

 

残された建物が痛々しい。

 

中沢の愛宕神社・・・・・山頂にあった社を麓に移したもの

信仰しようにも場所の不便さゆえの遷座

 

この日、鳥居の脇に何かを発見!

 

人なつっこいこのお方は、道路にいる私を見続けること10分以上。

動いてくれないと、私も動けない。

途中、笛の兄弟子が車で通り過ぎバックで隣りに戻り、

「何やてんだ?」・・・・・「これこれ鹿々・・・・」

 

外国のサンタクロースはご覧のようなトナカイのソリに乗ってくるというが、遠野では鹿なのかもしれない。などと、くだらないことを考える。

 

鹿に乗ったサンタクロースを思い描いて喜んでいると、

こちらでは、プレゼントに頼まれた地デジ対応?で忙しそうなサンタを発見。

 

サンタもオシラサマも赤い服がお好きなようで、どちらも冬になると忙しい。


2008暮坪熊野

2008-11-16 12:37:07 | 熊野
 昨年の春3月お邪魔した、ここ上郷町暮坪の熊野さん。縁があって、再訪。

 

 まずは、別当さんのお宅に挨拶をして。

 

 ここのシンボルの石碑群を横目に。

 

 前回も記したが、暮坪地域の氏神として祀られており、六角牛山の奥宮にあった御神体2体のうち、盗難にあいながら、どうしても溶けないので返された1体がここに祀られる。

 

 例の御領分社堂には、佐比内村ぶんとしての熊野神社は載っていない。地域の氏神として信仰されてきたのに、どういうことなのだろうと気にしていたところでもある。

 

 同行して頂いた別当家の現当主と80代の先代との話によると、ここは六角牛山への上郷側からの登山口にあたり、気仙方面からの客が別当家へ宿泊をし、登山の先達を勤めていたという。80代の先代が子供の頃までは、かなりの人が利用していたようだ。

 

 掲額は地元暮坪鹿踊連中によるもの。この地域には、鹿踊りの他に虎舞も残っているが、最近は、見る機会がない。

 

 境内には、かっぱ淵の常賢寺と同様にかっぱ狛犬がある。

 

 拝殿には、弘化4年に奉納された絵。願主は上組 川村○ノ丞
この弘化4年は三閉伊一揆があった年で、また、この弘化の時代には同じ上郷町平野原に仙台領から田植踊りが伝えられ、板沢しし踊りが南部公の屋敷で奉納舞をし、小友町長野のしし踊り供養塔が建立され、土淵しし踊りや達曽部湯屋神楽が伝えられた時代でもあり、何かと世の中が気忙しい頃のことである。

 

 熊野権現社殿の隣にある六角牛権現を祀る建物は、だいぶくたびれており、御神体は別当家にて保管とのこと。

 

 境内には古峰神塔他の石碑。

 さて、この神社であるが、先代の話によると、この熊野さんは150年ぐらい前に、同町清水川にあったものを譲られてきたのだという。その経緯も、元の所有者も今は不明。例の分社堂には、現在の上郷町として、板沢村、平倉村、細越村、上佐比内村のみの記載で、該当しそうな板沢村には、曹源寺と伊豆権現しか載っていない。今では上郷の中心地ともなっている板沢であるが、当時は家数5,60件と細越村の1/3。もしかすると、宝暦年間には、存在しなかったものか、完全に朽ちた社だったのかもしれない。

 

 遠野の人口がピークをむかえていた?昭和30年代に例祭に踊られた手踊りの記念写真。しし踊りの男衆の他に母子が参加できるほどの賑わいをみせた時代も今は昔。

 

 この神社が移された150年ぐらい前とはいつ頃だろう?現時点からでは江戸末期。神社にある棟札は、明治と昭和の屋根替えなどの改修工事によるもののみ。建物内部には、慶応と記された手習いで使用した半紙が壁に貼られてはいるが、最も古いものは、前記の弘化4年(1847)の額。外では、鳥居脇にあった石碑群の弘化3年、その隣の文化元年(1804)の百万遍供養塔。
 以上から考えると文化元年を移設建立と考えてもよいのかもしれない。

 最後に、弘化年号の額にあった川村氏とは何者か?

 明治2年の遠野南部弥六郎殿家来身帯面附帳まで、知行地をもった川村氏の名前は見えないが、明治32年に編された遠野士族名簿には、上組同心50人の中に、川村庄之助、川村勘之丞、川村惣兵衛、川村甚之丞、川村長之丞の名前があり、この中のどなたかの先祖と思われる。

 

達曽部熊野神社

2008-07-06 20:59:03 | 熊野
 達曽部の町外れ。とは云っても、赤い屋根が遠く国道からも眺められる。先般、とある打合せの折、「○○さんって結構この手のことが好きなんだ」ということで、この熊野を紹介して頂いた。

 

 前回も書いたが、江戸時代には大迫通御代官所の管轄地だった達曽部。金田一京助氏はこの達曽部はアイヌ語で「シラカバの皮をはぐ処」と訳している。また、この地名は盛岡にもある。現在の岩手県知事の達増(たっそ)氏の苗字との関わりが有るや否や。

 

 例の本を見ると達曽部村ぶんとして、熊野は2ヶ所あるが、二間四方かやぶきとこの村の一番目の記述から考えると、宝暦10年時点での俗別当七兵衛の管理していた社がこれだと推察する。

 

 境内には10個以上の石碑が大事にされている。

 

 目をひくものに、大木があり、ひとつはこの「サワラ」。樹齢300年。

 

 もう一本は杉で樹齢500年。

 

 500年も前といえば、南北朝以降の室町時代で、大崎氏の家臣間の争いが絶えなかった頃でもあり、江刺や気仙でも局部的な戦が繰り返されていた。

 

 また、熊野那智大社関連では長覚坊乙世が遠野地下の檀那職を実報院に売買した記録があり、確実にこの地域にも熊野の勢力が及んでいたことになる。

 ちなみに、駒木の覚助が習い覚えたと伝えられるしし踊りにつながる遠州掛川の郷土芸能「かんからまち獅子舞」は、この時代に神社への奉納舞いとして踊られていたようである。
 
 

日影熊野

2007-05-12 11:24:38 | 熊野
 国道283号線から綾織町日影橋を渡ると正面に、遠野で製材所を営む方々が協同で出資し、仕事で使う刃物(のこぎりの長いベルト上のもの)を研磨する工場がある。この工場の右手奥の林をよ~く見ると赤茶色の屋根の社らしきものが見える。石神の園方面へ向かう道から眺めると、間違いなくそこにあることがわかる。

                 

 絵ではわかりにくいが、中央の林の中。躊躇しつつも、そこへと向かう一本道を進む。一軒しかないお宅の敷地内で道は行き止まりとなり、玄関先で声をかけるが、応答なし。農作業でもしているのかと思うも見える範囲に人影はない。せめてもと、庭先から社を撮らせて頂く。

                 

 それほど傷んでいるようではないので、近年建替えられたものか?それにしてもこの社は何ものだろう?誰もいない庭先をこれ以上うろつくのは、との思いから退散することにしたが、市道に出るとちょうどトラクターを運転中の近所の方と出会う。例により社について伺うと、「熊野!」の一言。作業中であるため、詳しくは聞けなかったが、
  「おお~、此れも熊野か!」
 考えると、この社のある辺りは、遠野城下へと繋がる江刺街道の古道ではなかったのかと思える節がある。鱒沢の上台・高館附近の江刺街道は、現在の猿ヶ石川沿いの道ではなく、小友方面へと登る山越えの道となっている。(堤防ができるまでは山の裾野まで、河川または河川敷となっていたことが地層からもわかる)また、綾織新田遺跡のある辺りは川からかなり上にあり、増水時にも安全な場所で、かつ、川に近い場所にある。今回の日影も、高館・上鱒沢・綾織町向・新田を通る線上にあり、ここから、卯子酉・愛宕さんへと続く、山際ルート(五百羅漢の道?)が古い道として存在したのではと思いを廻らす。古くからある社を見て歩くと、その地域のシンボル的な場所を選定している場合と旧道沿いの目印となる位置にその多くが在ることに気づいてきた。

                 

  おまけ!
 日影にあるごみ処理施設「清養園」敷地内にある池。冬には、スケートリンクとして利用される。私も、2回ほど滑った記憶があるが、室内のリンクと違い、防寒対策がかなり必要。それ以外の季節には、ごみの焼却時にでる熱を利用したお風呂があり、平日でもかなりの市民が訪れており、庶民のためのお風呂といった感じがする。池の周りには、桜も咲いており、これらの木が大木になる頃には、隠れた名所のひとつになるかもしれない。できれば、桜が舞う時期には貸ボートでもあれば、うれしいのだが。