虎猫さんが舘跡探訪で紹介したことで、頭の片隅にあった出来事を思い出し、やっとまとめることができた。伊能嘉矩が基本調査をした後に菊池春雄先生が踏み込んで調査したものである。
●前置き●
よくテレビの時代劇では、凶作の後に「おねげ~しますだ!お代官さま!今年は米も不作だったので何とか年貢を勘弁していただけね~でしょうか!」「え~い!ならん!ならん!」・・・・「もう我慢できね~!悪代官は越後屋とグルになって、俺たちにひで~仕打ちをしやがって!」
というようなやり取りから一揆が起こるシーンがあるが?、遠野の場合、そんな単純なことではない。五年に一度の凶作、二十年に一度の大飢饉、その大飢饉の前後五年ほどは、冷害・水害が連続して起きるといった具合。また、町では、一六市日に交易する物資に対して税金がかけられていて、一定の金額を藩に納めた残りが手数料として荷役銭問屋に入るしくみから問屋権をめぐって遠野と盛岡の商人とが過度な競争をすることで、手数料が跳ね上がり、不安定な市になりがちであった。
その他に藩からは、凶作にもかかわらず、夫伝馬といわれる物資運搬作業を強いられ、固定資産税から、山・川の利用税、幕府から公的建物の修理を命じられると、臨時税としての軒別銭、商人に対しては、才覚銭と云われるある意味での献上金と「ガチガチの税金取立てシステム」の中で生活。市が活発になると、物々交換からお金による取引となり、現金がない場合は後で年賦での支払いとなるが、それも飢饉で返済期限切れとなり、田畑が借金の形にとられる。これは何も農民・町民に限ったことではなく武士までもが、似たり寄ったりであった。
●本題●
江戸時代の享和3年(1803)におきた遠野の一揆の話。
2月7日、下郷上綾織長岡から一揆は起こった。
集団は二手に分かれ、南廻りは小友土室峠を越え来内から中沢を経て、北廻りは鵢崎から東禅寺・附馬牛・松崎を経て翌日には踊岡野に集結。その数3,800人。(当時の農家戸数2,500戸)
2月9日、遠野の目付や代官らは鶯崎に陣取り、早瀬川を挟んで対峙。そこで、目付の一人工藤某が単身、交渉役となり領民の嘆願を聞き盛岡本藩へ取り次ぐことを約束し、一揆は終結。(遠野の藩内には14日も一揆が起こるとの風説が流れ、警戒を続けることになるのだが。)
「南部藩雑書」享和3年2月11日の項
八戸但馬領遠野通百姓共願筋有之趣ニ寄合等之風説御座候ニ付、小友村肝入村役之者とも申出、去ル八日之夜、踊岡野ト申処エ屯仕居趣故、村役之者江役人差添遣、願筋承届 早速退散為仕候」
これに対して遠野領主八戸但馬は藩に進退伺を出したが、「他郷江茂不まつり出、勿論但馬取扱不宜儀ニも無之、百姓共他借年賦返済方、其他品々至我まま之願筋相聞得」というように百姓の願いは我がままな筋合いものであり、他藩へ出て行った一揆でもないので八戸但馬に対して進退伺などという真似はするなと沙汰する。ちなみに八戸但馬はこの時、盛岡藩の筆頭家老。
早速、嘆願状を盛岡本藩へ上申するが、藩ではそれを却下するとともに18日には一揆の首謀者捕縛の内命が下る。それによって、上下組の同心たちによる捜査が始まり、一揆の発信地となった上綾織村に住む赤坂の今助、山谷川の国松、手代森の八右衛門という三人が捕まる。ここで、丸く名前を書いた連判状が押収されたことから、3月初旬には96名が捕らえられた。遠野には、これだけの人数を収容できる揚屋(牢屋)が無かったことから町屋の蔵に分散して入牢させ、面会謝絶の上、厳しく監視した。その後も、捜査は続き、藩全域には手配書が送られ、野田村の板沢鉱山には、下綾織の久作と市四郎の手配書が送られ、本人でなくても似ている人がいれば知らせるようにと記されている。
翌年の文化元年(1804)11月9日、首謀者3名は綾織宮ノ目の殺生場において打首。この一揆については、当初この三名のみが打首にされたものと思われていたが、実は、まだ処刑されたものがある。
捜査によって、一揆の密談は上綾織村の丹内権現で行なわれたことが判明し、藩では、一揆に神様も加担したという理由から、鳥居と神社そのものの閉門を言い渡し、ここでの祭りも禁止となる。さらには、この別当であった源多は、先の三名の首謀者と同様に打首となったのである。光明寺の過去帳を写したとされる資料には、丹内源多と赤坂勇蔵の二人が4月16日に亡くなっている。他に屋敷の久蔵を入れた三名が首謀者だったと記されているが、これが、先に捕らえられた三名に源多が加わえられたものか、または、先の三名の他に別にこれらの人が加えられたものかは定かでない。
源多は当時37歳、妻は33歳。事件後、妻は尼となり、諸国を巡礼し九州において73歳でこの世を去り、源多の子は他家に飯もらいとなる。藩役人の目があるとはいえ、家族のものが熾烈な仕打を受けていたことがわかる。おそらく、源多の子孫のみならず、打首になった他の人の子孫も同様だったのだろう。
文政7年(1824)6月、丹内権現の閉門は解かれるが、自然に地域による祭りは廃れてしまう。そして、連帯責任を課せられていた当時の農民は、それ以後、この一揆に対して口を噤むことになる。
この神社の境内には、丹内権現の他に稲荷社があり、後に、ここを稲荷さんと呼ぶ時期がある。
後の嘉永6年(1853)に三閉伊の大一揆が起こるが、指導者だった田野畑の佐々木弥五兵衛・畠山太助や栗橋の三浦命助も断罪に処せられているが、現在、それぞれの地元では農民の父とも云われ顕彰されているのだが、これらの一揆の舞台となった遠野では、地元の一揆が忘れ去られようとしている。
理由が一揆のためではないのだろうが、朽ち果てようとしているこの神社を見ると、「見ざる、云わざる、聞かざる」で、良いのだろうか?今こそ、この一揆で犠牲となった人々に手を合わせるべきではないのだろうかと思う。
尚、この一揆は、貸し借りについての年賦返済時期を20年に延長してもらうことと夫伝馬に関する餌代要求とその時間短縮についてのものが主だったと云われる。水飲百姓に転落する人達が多くなってきた時代でもある。