「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

遠野市土淵菊池党

2007-07-27 17:08:26 | その他
 先日、遠野市土淵町栃内にある本家から分かれた一族の親族会が福島県飯坂の地で開催された。叔母、従兄弟、また従兄弟など関東近郊から県内にいる総勢27名が参加。ここ数年、次々と父方の兄弟がなくなり、お盆の時期はそれぞれが家で過ごさなければならないという事情から、中間地点ということでの福島入りとなった。



 福島県飯坂と云えば、かつて「ジュラクよ~」のCMで東北地方の方々にはお馴染みのホテルがある温泉街であるのだが、私自身、25年ぶりの訪問。当時ですら、うら淋しい感じが漂う町だったのが、世の中の景気そのものを映しているようで・・・。実際、宿泊したのは、それよりもっと奥、穴原温泉とも天王寺温泉とも云われる地域のこじんまりとした旅館。



 昭和33年の写真が掲げてあったが、吊り橋が川を渡る唯一の手段だったような場所。現在は近くに立派な橋があるが、かえって、吊り橋があったほうが今は風情があって良かったような気がしてならない。

 

 子供達中心の宴会となり、定番のビンゴでは、勝負事大好きな我が家の子供達も、必死に番号を追っていた。景品は高価なものはないものの、人より先にビンゴになることが目的。大人達は、お互いの現在の様子や健康を確認しながら、杯を酌み交わす。



 私が小さい頃から、父親の実家に行くと、花火をして楽しんだものだが、温泉に来てもこれは定番。一泊のみのあわただしい旅行であったが、末の娘はよっぽど楽しかったのか、今度はいつあるのかとうるさいくらいに私に聞く。
 冠婚葬祭の時にしか、会えなくなってきている親戚なのだが、親世代から子供世代へと引き継がなければならない大切なもの。遠くの親戚より近くの他人とはよく云われるが、それはそれ。自分達のルーツがどこにあり、その仲間がどこにいるのか子供に教えるのではなく、感じさせることが大切なのだとつくづく思う。



 旅行に出かける前のわずかな時間に加茂神社例祭の様子を見に立ち寄ったが、少し時間が早かったようで、関係者に承諾を得てパチリ!



 石碑や大木にも注連縄が掛けられ、祭り衣装万全といったところ。平日開催の祭り故、参加される方もまばらなのだろうが、しっかりと受け継がれている様子。

 遠野には、菊池さんが、わんさかと居て、誰も苗字では呼ばないのはご承知の通り。でも、土淵の菊池さんは、飯豊に多いが、我が家の本家は栃内。和野と云われる地域で、ここには、それほど多くの菊池さんは居ない。かつて、そばの大本家にここの菊池さんはどこから来たのかと聞いたことがあったが、不明。少なくとも、周辺に本家別家を名乗る家は他にはない。あくまでも、大本家が、元祖。この家には、かつて相撲取りをしていた人がいて、今でもこのお宅の人達は大柄である。また、この家には、殿様から頂戴したという掛軸(絵がなんであったかは不明)があったが、博物館の方が貸して欲しいと云って持っていったきり戻っていないと愚痴をこぼしていたことを思いだす。

千葉氏

2007-07-25 01:21:20 | 歴史
 盛岡方面から小峠トンネルを抜け、右手の山谷川に架かる橋を渡ると正面に、不動尊がある。戦後政策として山口(実際の地名は滝沢)開拓と通称されたこの地域に入った人々によって篤く信仰されたもの。ここには、岩泉町から移ってこられた方々が多いと聞く。



 この不動の前にある道を下っていくと、右手に八幡様の石碑が見えてくる。明治時代の石碑である。いつもの資料にて確認するが、綾織町には八幡は3箇所あり、いずれに該当するのかは未調査。遠野によくありがちな疲れ気味の鳥居が歴史を醸し出す。



 この周辺に来ると考えずにはいられなくなるのが、曲り家で有名な千葉家のこと。山の経営と炭焼きで財を成し、遠野の町へ行くのに、他人の土地を通らずにいけたと云われる。



 東京大学の伊藤ていじ氏?(藤島氏?)が、かつて日本の民家を紹介する論稿の中にこの千葉家のことを記していたことを思い出す。いつから200年前だかはわからないが、江戸時代末期に建てられた曲り家。年表を見ると天明直後ぐらいなのかもしれない。飢饉によって地域の人たちの生活が立ち行かなくなったので救済の意味を含め、手持ちの山から木材を運び、何年もかけて建てたものである。材料自体は、特別に立派なものを多用している訳ではないが、石垣が建物全体のバランスの良さを引き立てている。救済の意味という点では、下組町と新里はずれの長作堤と同様である。



  千葉姓の方々はいつ頃遠野へやって来たのだろう?
 歴史上、表舞台にこの姓が登場するのは、何と云っても、文治5年(1189)源頼朝の奥州征伐の際、東海道軍の総大将として名を残す千葉介常胤からだろう。その恩賞として相馬・亘理から気仙にかけての海沿いの各地に千葉氏縁の歴史を見出すことができる。この氏は元々、千葉県の名のとおり下総に居しており、そこは、伊勢神宮の所領御厨であり、平氏の一族に名を連ねる。(余談:上総と下総~房総半島の東端より安房国、上総国、そして下総国ととなっており、現在の東京中心から考えると上下が逆になるのだそうだが、国名が付けられた律令国家の時代には、相模国から海路にて房総へ行くのが東国への近道であったことからその順番が付いたとのこと)



 遠野が直接、千葉氏に関係をもつ出来事を確認すると次のようなことがあげられる。
 ○永享9年(1437)~横田城が葛西一族の浜田(千葉)氏の家臣岳波・唐桑崎氏と大槌孫三郎の連合軍に攻められる。
 ○天正年間(1573~92)~葛西領の浜田安房守広綱が横田城を襲撃。

 また、近隣の千葉氏系に関わる出来事では、天正19年の九戸政実の乱そして秀吉の奥州仕置がある。この時に千葉氏は、多くの葛西旧臣らと共に討たれ、そして領地から離れた。この時が、遠野千葉氏の定着の始まりではないかと鱒沢の千葉氏は云う。

 綾織の千葉氏は長洞・山喜千葉家を大本家とし、水ノ口家、弓折家、西野家、喜之助家、京助家、喜一家、喜助家と分家を出すことになるが、判明している範囲では延享5年(1748)に没している方がいるとのこと。また、この綾織千葉氏縁の方としては、大迫の川原田菊池家そして、小和田家があるようだ。川原田菊池家は、入内一崇氏著の「遠野菊池党」にも登場する家でもある。

 市内の千葉さんの分布を電話帳で確認すると
綾織町12件、土渕町3軒、附馬牛町9件、青笹町19件、上郷町4件、他
となり、青笹で古いとされる千葉氏は延享元年(1744)に中沢の現在地に住み始めたとされるお宅と、同じく、宝暦年間(1751~1763)に記された寺社本末支配帳に名前があるお宅があり、いずれも江戸時代中期となる。また、松崎町に多い、浜田氏も千葉氏縁の姓で、旧横田城周辺に居ることも不思議に感じる。(書き忘れたが時代的には早い時期からの常堅寺縁の大原氏も千葉氏系の人物で、この家系がその後どうなったのかも興味のあるところ)
 これ以上のことは、実証をもってさかのぼる事は難しいのだろうが。

 ところで、一如さんのところで金毘羅さんのお祭のことが話題にされていたが、例祭の夕方、あわてて現地に行ったが、既に祭りの後の静けさ。



 そして、昨日、とあるお宅で、この金毘羅さんの元々の場所をお聞きすると、この辺だったと思うとのお話。



 昭和通りとも称される、かつての色街であった仲町(裏町)の本当の意味での裏路地だった通り。この通りは公図を見ると道路用地として分筆されたことがわかるので、もしかすると、道路拡幅によって移転を余儀なくされたのではと考えている。その他にも、この神社に関係していそうな人が浮かんできたので機会をみて伺うつもりである。
 この話を伺った大工町の方は、大工町の人がなぜ加茂神社をお祭にしたのか、やはり不思議であると云っていたことと、金毘羅さんがなぜ早瀬に移転してしまったのかと残念がっていたことが印象に残る。その加茂神社の例祭は旧6月12日。残念ながら、所用にて見ることかなわずかもしれない。それにしてもこの時期。仲町の八坂さんや、新里の愛宕さんと例祭が目白押し。山の神が田の神に変わる事と何か関係しているのだろうか?
 

早池峰神社

2007-07-19 23:32:38 | 修験
 早地峯山の古名は、東岳(アズマダケ)、東子岳(ヒガシネダケ)と云ったという。北上川の西方奥羽山脈を西根といい、川の東方であることからヒガシネと呼んだとの説あり。
 
 この山の登山口は、かつて4箇所あり。東登山口は、川井村江繋からで善行院が新山堂を守っており、北登山口は同じ川井村門馬からで妙泉院という山伏が宿坊を営んでいた。南登山口は、大迫からで岳集落に新山宮と池上院妙泉寺があり、西登山口は、ここ遠野市附馬牛町大出からで、新山宮と持福院妙泉寺があった。それぞれの登山口には、似たような読みの神社やお宮があったということになる。由緒については、それぞれに言い分があるようだ。



 大出には早池峰神楽があり、先日の神社例祭には宵宮及び翌日の例祭に踊りが披露された。この神楽の由来は定かではないとしながらも、次のように伝承されている。一生を妙泉寺の寺男として過ごし、明治10年に90歳で亡くなった佐々木満蔵が寺に伝わる記録をもとに神楽の覚書を書いたと伝えられている。それによると、大出神楽の発祥は京都であり、これをこの地に運んだのは法印である。出羽三山に神楽が伝えられた頃、早池峰にも神楽が伝えられた。



 この神楽は早池峰山を開山したといわれる藤蔵の後衛始閣家が伝えたもので、この始閣家は早池峰信仰の法脈を天台宗の法院に譲った後、禰宜として新山宮に奉仕する。後には、上禰宜、下禰宜とに分かれ、縁組しないことによって忌みが重なることを避け、神事に支障がないようにした。また、始閣姓は上下の二軒のみとし、別家にもこの姓を許さなかった。
 当初、修験者として新山宮で神に奉仕していた始閣氏は、江戸時代の享保12年(1727)正月26日をもって京都の吉田家より神官の補任を得ている。



 社人である始閣家は、享保の頃より、神事や加持祈祷を行い、また、神楽の庭元を勤めてきたが、宝暦8年(1758)第55代法師宥全が寺社奉行に提出した文書によると元禄年中(1688~1704)の大出新山宮例大祭で神楽が奉納されたことが記されているという。その神楽も元禄年中の飢餓のよって一度断絶したが附馬牛町宿の新山宮別当であった宝明院の系統によって再興された。この宝明院は大出への参道入口に位置し、遙拝所であった新山権現を祀る新山神社を預かる本山派の山伏なのだが、ここの神楽は元々、大出神楽の系統だったのかもしれない。その後、神仏分離によって早池峰神社となっても神楽組は神社に帰属。昭和24年、当時の庭元、鈴木龍太郎宅の火災によって神楽の記録や道具一切が焼失し衰微したが、弟子神楽である小倉神楽から道具を借りて例祭に奉納。昭和48年に再復活して現在に至っている。大出小中学校最後の生徒達を始め集落の人々の熱意によって続けられている。



 

程洞稲荷神社

2007-07-12 12:39:44 | 稲荷
  ●程洞稲荷神社●
 去る7月8日(日)、遠野市遠野町程洞にあるこの神社の例大祭に行った。愛宕神社は綾織町新里に、卯子酉神社は程洞と、その所在地が微妙に異なる。入口前には案内板があり、宮氏縁の神社であることが記されている。


 11時から始まることを事前に入手していたが、既に道路に人影もなく、十台前後の車が。一人で登るしかない。急な山道を汗をかき、息を切って登ると大工町「太神楽」の人達に出会う。



10分以上もかけて登ると、稲荷大明神の幟が見え始め、やがて本殿。その手前、左側には金華山の石碑がある。



 この季節故に、あたり一面が緑に覆われている。最後の石段を登ると平場の境内へとたどり着く。



 若干、神事には時間があるため、内部を見せて頂く。名梨さんのお仕事前に権現様を確認。



神事



 本殿の扉も開いている。



 妻面からの様子。熊除けのために、金網が張ってある。



 本殿は、流れ造り(本家、賀茂神社に由来)で彫刻もあり、しっかりした造り。宮大工の手によるものと推察。いつ再建された建物かは不明。



 順序は前後するが、神事前に太神楽の奉納。この太神楽が毎年奉納されている訳でもないとのこと。何年か前には附馬牛の小倉神楽が奉納されていたとか。
 
 社殿の裏側に廻ると、山宝神が祀られている。



 今回の収穫のひとつ。もうひとつあるという神様を名梨さん他数名の方々と見学に向かう。



 とても一人では行けそうもない山の中へ。案内人がいてこそたどり着くことができる神様。「高早大明神」。華厳院縁の方のお宅には、この高早大明神に関係する古文書があるという話を名梨さんからお聞きする。どのようなイワレがあるものなのか興味を覚える。



 稲荷大明神銘のある鳥居の先には、「高早大明神」



 巨岩を御神体としている様子。また、辺りには、沢水があることから、ここを水源として祀ったことも考えられる。程洞稲荷本殿の下段にも手水鉢が置かれ、涼をとることができる。



 この神社でもうひとつ興味深いこと。熊野那智大社の御神符。奉納者は、程洞稲荷創建に関わる宮氏。
 登り口の案内板には明和2年(1365)と記されているが、明和2年は1765年、1365年なら南朝の正平20年となる。おそらく、明和2年のほうが正解なのだろうが。この明和2年、笹谷観音や平倉観音が修復、再建された頃で、宇夫方広隆が遠野旧事記を書いた7年後のこと。
 何故に、伏見稲荷ではなく熊野なの?宮氏と熊野との関わりは?

 さて、この宮氏。この宮氏関連の詳細はこちら
 宮氏は倉堀姓だった?そして、阿曽沼最後の領主広長の弟が改姓して倉堀氏になった?阿曽沼氏は、その有力家臣や南部氏によって遠野を追われ、その家臣団は、遠野から出ていくように云われ、次々と去って行った。残ったのは、老人など出るに出られない事情のある人達だったと理解している。にも関わらず、時の領主の弟が南部氏の配下となるとは・・・。
 
 空想:阿曽沼一族は、家臣団のみならず、兄弟も意見がわかれ、兄に従った者が遠野から追放されたのだろうか?それとも、宮氏は弟ではなかったのか?

 倉堀氏が氏神としたのが倉堀神社で、これが有名な卯子酉神社となる。



 遠野物語拾遺に登場する宮氏と倉堀氏の話の舞台のひとつがこの場所になり、この卯子酉さんの後方、山中にあるのが程洞さん。どちらも同一一族にまつわる神社ということか?今の私にはすっきりした形で理解できない。

 いつもの参考図書には、横田村、程洞稲荷、善行院。とある。(倉堀神社及び卯子酉さんについては記述なし)江戸時代の弘化・嘉永年間(1840、50年代)には、鱒沢の羽黒派頭巾頭である善行院の霞場だったことがわかる。鱒沢は、阿曽沼広長追放急先鋒だった左馬之助広勝の本拠地でその鱒沢氏の菩提寺を預かっていたのが善行院。左馬之助は阿曽沼広長の叔父だったといわれる。(遠野最大のクーデターを起こしたのは小友金山縁の人々で、小友・鱒沢・綾織の連合軍。阿曽沼氏はこれらの地域を掌握できていなかったのではないだろうか?少なくとも秀氏以降は。)
 やはり、空想に近い状況だったのだろうか?



 神事終了後の直会は、下組町の消防・コミニティーセンターにて行なわれ、部外者の私は、太神楽見たさに同行。稲荷さんの鳥居と熊野さんのやたがらすをモチーフとした半纏を観ながら、空想にふける。

 日曜日から今日までの天気と同様にすっきりしない気分のままでとりあえず書き込む。ひとつ、ひとつに興味深々の私には、あまりにも収穫の多い程洞参詣であった。

 

仙人堂

2007-07-08 10:38:02 | その他
 仙人峠にまつわる神社として、頂上の仙人堂、中仙人の山神社、遠野口の沓掛観音がある。山神社は前回、沓掛観音は前々回紹介したが、本日は残りの仙人堂について。この神社がいつ建立されたものかは定かではないが、頂上境内にある石碑は青笹村中沢の人が享保15年(1730)に建立したことが記されている。この年は、三陸沖に津波があり、小友・上郷の火石金山が発掘され、青笹しし踊りの祖「踊り嘉兵ヱ」が亡くなった頃でもある。宝暦10年(1760)編の御領分社堂には、仙人堂、俗別当平蔵とある。



 この仙人堂の御神体は、上郷聞書にも載ってある木像のもので、寛永6年(1629)、仙人大覚、別当三光房、畠山京介作、勘七とある。八戸から南部氏が遠野へ来て2年目、幕府から新造寺院禁止令が公布される2年前。小友赤坂金山に気仙の者が入り仙台藩と境界論争がおこった翌年の奉納。
 この御神体はある時の大雨で青笹まで流され、しばらくは、上郷町佐生田の「おせんどから」(御仙堂河原か?)に祀られた。後に、仙人堂の御神体なのだからということで、また、峠に戻されたという。



 この「おせんどから」と呼ばれる場所は上郷聞書には御銭堂と書かれており、三光坊の墓と記された標柱が建っている処である。釜石市教育委員会の仙人峠の資料では、峠の本宮に対して、ここが里宮としての役割を果たしていたのではないかと記されている。ということは、御銭堂と記されたここは本来、御仙人堂と呼ばれていたものが簡略化したものではないかと推察する。


 
さて、御神体に記される勘七であるが、ここ佐生田には勘七家と呼ばれる家があり、この「おせんどう」の持ち主で、現在の当主によると、仙人堂の別当をしていたという。また、三光坊の墓は標柱の場所ではなく、この「おせんどう」の道路向かい(南側)の田圃の中にあるとのこと。この田圃も別当家のもので、三光坊は先祖とのこと。石碑には「松嶺法師三光坊之霊位が元文10月14日」と記されている。 元文年間とは1736~1740で、附馬牛の笹谷観音に本尊勢至観音立像が建立され、小友長野上台川原みよし金體金山発掘され、来内の伊豆権現再興、両川覚兵衛が伊勢両宮社、松尾神社社殿寄進した年代とも重なる。


 
この勘七家(本姓佐藤)は、トンネルが開通してしばらく経った昭和37年に当時の当主(現当主の夫)が桑畑鶴松を神職に金野元治郎を棟梁として「おせんどう」に現在の社を建て、御神体を峠から降ろして奉納したとのこと。従って、標柱の記述は本来の「仙人堂」と訂正すべきだろう。社建立の翌年、遠野住の刀鍛冶「菊池竹斎」による御神刀、日本刀などを奉納したが、現在は盗難にあい、紛失してしまったという。この竹斎の手によるものは釜石の尾崎神社にも奉納されているようである。



(里に御神体を降ろすまでの峠の神社は、大正期には荒れていたものを昭和17年に市川洗蔵氏が再建。この市川氏は当時遠野在住で、父は下駄屋とその材料の卸業を、姉夫婦が釜石で下駄屋を営んでおり、14,15歳の頃釜石に集金に行った帰り、仙人峠頂上近くで猛吹雪にあい、死を覚悟した時、吹雪がやわらぎ、頂上に辿り着いた。これも仙人の加護かと感謝しながら、上にいた三人の軍人と一緒に茶屋で一夜を明かした。その後、洗蔵氏は親戚を頼って大阪で貿易商を営み成功する。そこに姉夫婦の長男を呼んで商業高校に入れ、仙人の加護に報いるために神社を再建したという。この長男こそが、新張の味方屋さんの先代である)

 仙人堂別当勘七家は、当初は現在のトンネル遠野口(沓掛)から佐生田までを有していたようで、別家に常楽という屋号の家がある。この常楽は一説によると常楽寺という寺があったところだと云われ、三光坊と常楽寺との関係をうかがい知ることができる。また、以前、高橋縫之助の家の方が、別当家を訪れ、錫杖が残されていないかと聞いていったことがあるという。そばにある日出神社と別当常陸家とこの三光坊と仙人堂、いずれも、この地域を開発した先駆者としての役割を果たした家なのだろう。



 最後に、昭和16年頃、「放浪記」で有名な林芙美子は朝日新聞に連載していた「波濤」の舞台としての取材で釜石を訪れ、帰りに峠を越えて来て遠野口の雲南茶屋に寄り、雲南餅を食べたという。そして、その店の娘が所用があって東京へ行く際の列車が芙美子と一緒となり非常に懇意にしたという。また、宮沢賢治は、叔父が釜石で薬局を営んでいたことから、度々、軽便鉄道を利用し、峠を歩いている。「春と修羅」の一節にある「峠」は仙人峠のことであり、風の又三郎の舞台は釜石鉱山大橋小学校である。遠野物語に出てくる仙人堂も、しかりであるが、佐々木喜善が土淵村長時代に軽便鉄道の国有化運動に尽力したことも附しておく。最後に、戦時中、大陸から来た人達が鉱山で労働し、戦後の混乱期にこの峠を越えて来た事も忘れてはならないようだ。