「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

スポーツ流鏑馬

2012-07-31 10:32:30 | 地域

今回で見るのが二回目

 

今年の柏木平は例年通り暑過ぎ

にも関わらず、リバーサイドまつりとの共催ということで大勢の親子連れで賑わう

 

軽妙な選手紹介のアナウンスに時として笑いがおこる中、選手は一生懸命

 

的中率も気になるのだが、なんといってもこの衣装に目がいく

 

手綱を離した手で行う弓の操作は相当難しそう

 

こちらは馬と人が同じピンクで統一

 

後姿もなかなか

 

今年のスポーツ流鏑馬のポスターに採用された写真を撮った信平さんも参戦中

この日撮影に来ていたksuzさんも同じように長~いレンズにヨダレ・・・・

 

標準レンズで勝負! 笑

 

この時点で山の神さんからメール

良い写真を撮ってね!・・・・・って云われても、レンズが・・・・

 

それよりなにより、やはり暑い

 

水分補給にまごころネットのブースで水を仕入れ、しばし、休憩

 

再度、流鏑馬会場に戻るも

 

参加者の笑顔に癒されるも

 

暑さにかなわず、長いレンズのksuzさんと信平さんを置いて会場を後にする

 

どんどはれ!

 


住田町で動く七夕を見る

2012-07-29 22:47:44 | 民俗

昨日は相方がお世話になっている住田町で夏祭り

相方・・・・・本職が漫才師というわけではないが、傍から見ればそう見えるらしい

と、ボケをかましといて

子供達が、まだ親の言うことを聞く頃は、一緒に来たが、今では、無反応

世田米到着時には、既に祭りが始まっており、保育園児の踊りに黒山の人盛り

 

続いて、有住(ありす)中学校のよさこいソーラン

 

そして、世田米中が続く

二校の踊りの間に両校のエールの交換があり、形容しがたいが、とても良い雰囲気

ここで、数十年ぶりに、高校の同級生に会う

テニス部のT木君だ・・・・・地元の中学校の先生として頑張っていた

 

中学校の踊りが終わると、通りに一台の山車

陸前高田のあの「うごく七夕」だ

(この日、どうしてもこれが見たくて世田米に来たのだ)

山車を曳く綱には、住田町の中学生と陸前高田の人たち

 

この笑顔が見たくて・・・・

 

うごく七夕が通りから抜けると下有住の外舘鹿踊り

行山流、1760年頃伝えられ、明治42年に中断し、昭和34年に復活

(例年の祭りであれば、この話題がメインとなるだろうが)

 

町内のきれいどころが一斉に踊る道中おどり

ここで、ハプニング、踊り開始とともに通りの片側が停電となり、しばし中断

(これもご愛嬌)

いつもより、短めに踊りが終わると

 

うごく七夕の夜の運行開始

 

多くの方々のいろいろな支援でこの夏まつりにお披露目

 

表情で気持ちが伝わる

 

高田の各町の名前が入った行灯にあかりがつく

 

高田各地域の祭り半纏がこの山車につながる

 

例年であれば、町内の何箇所かで菓子・餅まきが行われるのだが、

今年は、この山車の上から撒かれ、住田の心意気を感じる

 

保管場所に戻った一行は、8月6日、7日に本拠地陸前高田で開催される「うごく七夕」のPRをし、

三本でその場をしめた

 

気仙川では、恒例となっている五葉山火縄銃鉄砲隊の演武

 

この後、花火が打ち上げられ、住田町の夏祭りを後にする

 

となるはずだったが、演武が終わり、静かになった川沿いに太鼓の音

 

もしやと思い、通りに引き返すと、高田の人たちが山車に集まり、

名残惜しそうに、うごく七夕の囃子を見続けていた

 

この日を待っていたんだ!・・・・・

 

世田米の通りに飾られていた「あかり」・・・・名前はポランの広場

宮沢賢治の「ポランの広場」・・・・夏祭りの話

 

お話、そのものというより、あの「雨にも負けず・・・・」のメッセージを届けたくて・・・・・

と、私は受け取り、感動した夜となる

 

 


釜石かみなかしま DE 桜舞

2012-07-27 21:26:11 | 地域

ラッキー! 

昨日のお昼前のこと、「書類ができたので取りに来るように」とのことで釜石へ

何がラッキーかというと、

その日の夕方から釜石市上中島で地域の夏祭りが行われるという情報を得ており、

あの桜舞太鼓も出演予定とのこと

梅雨明け宣言された新仙人道を一路釜石へ

 

こんな時に限ってスムーズに職務完了となり、かなり早くから会場入り

(中途半端な時間となり帰るに帰れず 笑)

例年以上のお客さんの入りだということだったが、本当に沢山の人にびっくり!

 

釜石のここ上中島の隣は中妻。決して中島では無い。

かつて、中妻は中島で、訛って中妻になったという話がある。

これと同じ話が遠野市青笹町にある。

青笹町の中妻は、やはり、かつては中島だったのが訛って中妻になったのだと。

 

町内の商店関係者を中心に様々な屋台を出しているひとつに

被災者・桜舞太鼓を支援するため手作りのミサンガ・ストラップを販売しているブースに

地元ケーブルTVが取材

(カメラマンさんには販売している方の手の荒れようを、しっかりカメラに収めて頂きたいと思った次第)

何も云わずとも、その手を見れば、手作りだと実感できるはず・・・・

(製作者さんは、さあ大変、ハンドクリームが使えなくなりそう・・・・)

 

日が暮れる頃には、皆さんの手にアルコール

 

幼稚園児の鼓笛ドリルやエアロビクス

昔のお嬢様たちによるハワイアンダンス

(残念ながら見惚れて画像が無い・・・・・)

さらには、エレクトーン演奏

 

そして、よつやバンドによるベンチャーズメドレー

と多彩なステージを堪能し、会場のアルコール度数が高くなったところで

大トリ、桜舞太鼓

 

現在、保管場所を失った彼らがお世話になっている上中島の皆さんへ感謝を込めて

 

心を込めた一打

 

紫波でのチャリティーコンサートでお会いし、気になっていた方にこの日再会

三十年も本郷桜舞太鼓を観てきた方だった

 

唐丹町本郷の祭りに手踊り太鼓として産声を上げたこの太鼓が、

どのような手踊り太鼓だったのかをお聞きする

 

私自身も、その手踊り太鼓というものに妙に興味を抱いていたので、説明に想像を膨らませる

 

創意工夫の中で現在の演目が生まれ、みんなに感動を与える響きとなったこの集団

 

原点ともいえる手踊り太鼓の踊りを虎舞の手踊りのように、

男踊りとした舞を加味した演目が生まれることを期待

 

演奏中に観客の中からメンバーの名前が叫ばれ、

彼らの地元釜石ならではの雰囲気に浸った、たった一人の遠野人と自己満足(笑)

 

さて、

これから短いながらも暑い夏となりますが、

 

遠野の蓮はこれからが見頃

 

熱中症にご注意下さい!

 

 


2012 新里愛宕神社例祭

2012-07-24 19:40:57 | 愛宕

遠野なんだり・かんだりと云いつつ看板に偽りありで

いつも、あればり、こればりで申し訳ありません。

今回も、あれです!

 

下組町の西はずれに愛宕神社例祭の幟

愛宕神社~祭神伊邪那美命 天応元年(781)和気清麻呂が平安京鎮護の神として

愛当護大権現を勧請したのが基となり、後、愛宕大権現として諸国に広まる

日除けの神の他、塞の神・境の神として病疫除けとして、村の入口などに設ける

遠野物語拾遺64話には、この愛宕さんの話がとりあげられてる

 

24日の例祭の前日・・・・宵宮

下組町の真ん中にある建設会社の敷地に里宮として社が置かれ、

自治会の方々による出店やステージ発表で盛り上がる

 

残念ながら、郷土芸能の奉納は無いようで、雰囲気だけ味わい退散

 

例祭の日

 

宝暦12年(1762)に宇夫方広隆によって記された遠野旧事記には、次のようにある。

横田村(現在の遠野盆地中心部?)の愛宕は

遠野殿(八戸から南部氏が移封する前の統治者阿曽沼氏)時代の勧請

延宝2年(1674)大破していたお堂を修復

坂の石段は、正徳6年(1716)新町の両川覚兵衛の寄進

 

愛宕神社は、どういう訳か、いずれも急勾配となる山の上にある

 

息せき切って階段を上ると、次は坂道

この日は、草取りしている方々がいて、不安な思いをせずに登る

 

平らな境内では例祭の準備

 

遠野物語拾遺では、日除けとして六日町神明神社の大徳院という山伏が登場するが、

宝暦の頃、大徳院は熊野権現(どこにあったのか不明)と加茂神社(アクティ本店道路向かい)の別当で遠野の修験者の親分格の人物。

当時、その縁者は六日町神明神社とこの愛宕神社の別当として和光坊と名乗っており、遠野物語拾遺に集録される頃には、本家大徳院は遠野を離れており、和光坊系の方が後に大徳院を襲名したものと思う

 

後の大徳院が別当をしていた頃の元愛宕神社が隣接して祀られている境内

 

では、この立派な建物は?

 

明治の神仏分離令・山伏禁止令などにより、神と仏を一緒に祀ってはならぬということで

廃却か分離を迫られた時代

(この時代には神職による神楽禁止令もあったという)

ということで、この拝殿は、綾織町の胡四王権現社殿であったものだと聞く

その胡四王は現在、同町の駒形神社に一緒に祀られている)

廃藩置県以降の町村制により、横田村から綾織村に編入になったことから、

同じ村のこちらへ移設したのかもしれない

 

その頃の建物事情を知る方

 

役員が揃ったところで、予定時間より早いが神事

綾織町出身で宮城の神社にお勤めだとお聞きした宮司さん

 

神仏分離令により、愛宕神社から新町にある常福寺へ移された延命菩薩像

享保時代、新町通りの常福寺側全てが敷地だったといわれる両川覚兵衛が奉納建立したもの

愛宕神社の境内に行くと、この菩薩様がどこにあったのだろうと思う私だが、

愛宕橋が見える石段中腹にある平らな部分では?と想像たくましくして退散


2012 遠野早池峯神社例大祭 後編

2012-07-22 09:53:46 | 地域

例大祭最後の舞

 

大出早池峯神楽から・・・・衣装の華やかな色合いが素敵

 

国際色豊な神楽です・・・・日本人より刀の扱いが上手

 

そして、ミスター大出早池峯神楽の登場

 

ここはどこ~♪

 

早池峰の~♪

 

一度でも、この場面を見た方は忘れない言葉

 

市内の他の例祭では観られない場面

 

神楽の舞が終わると、しし踊り

 

今年は残念ながら、東禅寺しし踊りは関係者にご不幸がありお休み

 

そして、最後のイベント・・・・餅撒き

 

2時間半ほどの祭りであるが、紹介している内容以上に濃い祭り

 

カヤ葺き屋根が、だいぶ傷んできており、葺き替えが必要な境内にて