「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

明治の御宿

2021-05-29 18:02:16 | 歴史

ぼやっとしている内に5月も末、いまだに新コロ話題は続く

と云うような状況ですが、如何お過ごしでしょうか?

 

昨日は、父親の時代からお世話になっている某協会の総会

廻りの雰囲気がそうなので、懇親会は無し、帰りは久しぶりに荒神様に寄道です。

さて、

ここ数日来、東京に住む高校時代の先輩から問い合わせがあり、ご先祖調べ。

 

昭和初期には刀が27振り有り、墨書きの文書も多く残っていたというB場さん、

遠野南部家臣だったのでは?とのことで、手持ち資料を確認したところ、明治初期までの

家臣帳に同姓は2家、その中に教えて頂いた名前を見出すことはできませんでした。

 

菩提寺が遠野南部家老新田(にいだ)氏と同じ対泉院で、実家が新田氏の知行地綾織町、

同町の同姓の多くが、親戚とのことですが、先輩の家は何者だったのか・・・。

新田家に残った家来の中に、遠野南部家臣にはならなかったB場氏がいたのでは?

などと想像しているところです。

江戸時代が終わり、明治、大正、昭和、平成、令和と150年ほど経た現在、

NHKで「ファミリーヒストリー」が放送されるのも、うなずける時代となりました。

 

歴史物と云えば、遠野文化研究センター発行の「遠野案内」があります。

明治44年発行の復刻版で、遠野の商売、名物、名勝が紹介されている本です。

その中に御旅館村上千代吉が載ってあります。通称「村千代旅館」

 

先日、ここに縁ある処で、ご覧のような看板を見せて頂きました。

幕末の北海道五稜郭で有名なあの榎本武揚が泊まった時のものです。

幕臣榎本は函館戦争が終わった後、投獄され、後に、明治新政府で活躍。

ネット検索すると明治27年に第二次伊藤内閣で農商務大臣になり、明治30年に辞任。

その間、製鉄所官営化に尽力しており、その縁で釜石へ行く際、宿泊したのでしょう。

 

もう一枚は、こちら。

安政3年第14代盛岡藩主南部利剛の次男として盛岡城で誕生し、14才の時、

姉の夫に従い渡米し、小、中学校を経て、ダートマス大、プリンストン大と学び、

明治11年帰国。後に大隈重信の長女と結婚し、養子となる。

内務省、外務省勤務後、明治14年の政変により下野し、東京専門学校、早稲田尋常中学の

初代校長を歴任し、明治31年衆議院選挙で岩手より立候補し、当選。明治43年没。

看板に歴史ありですね~

 

次は岩手の電力供給区域図

盛岡電燈株式会社と今回合併せらるべき秋田電業株式会社とあります。

昭和3年に宮古と秋田の電力会社を買収しているので、その頃のものでしょう。

ちなみに遠野は大正7年にエリア入りしているようです。

 

最後にこの1枚

ゴールデンスタンプ会・・・わかる人にしかわからないでしょうね~

この他にグリーンスタンプというのもありました。

物を買うと金額に従い、切手のようなものを貰い、それを台紙に張り、

その数に応じた商品と交換できました。今でいうポイントのはしりです。

これから先、どんなシステムでどんな商売が出てくるのか・・・

もう少しだけ、頑張って若者に付いて行きたいと思います。笑


遠野の2月

2021-02-11 17:01:58 | 歴史

2月の遠野、廻りでは新型コロナ警戒生活継続中といった雰囲気が漂ってます。

 

遠野では感染者ゼロなので、それほど警戒しなくても良さそうですが、

今期の雪と寒さでは、なかなか出歩くこと自体難しいかも・・・。

ところで先月、とらねこさんの叔父さんが亡くなり、私も縁あって御焼香。

その家には江戸時代の甲冑があり、僅かながら禄米を頂いていたとお聞きしていました。

そこで、気になったのが、その先祖(工藤氏)がどこから、やって来たのか?笑

 

遠野郷八幡宮節分祭・・・豆撒きをやっていましたが、今年は中止。

工藤氏

江戸時代末期の禄持ち工藤氏は10家。寛永4年(1627)八戸から遠野移封時に

一緒に来たのが工藤四郎左衛門、工藤権左衛門、追々来たのが工藤久左衛門と工藤右市之助。

と遠野古事記にはあります。

移封7年後の遠野南部氏御支配帳には上記の人とは別の工藤与四郎200石とあります。

これらの人たちは、どのような関係の人なのか?笑

 

鱒沢神楽・・・2月は例年初舞ですが、今年は情報無し。

まずは、工藤与四郎

はるか昔の康生3年(1457)現在の青森県田名部で起きた蠣崎蔵人の乱に、南部方(八戸)

として工藤与四郎が参加しています。また、八戸市の中居林天満宮の朝日大明神由緒記には

工藤与四郎という武将がこの地で井戸を掘っても水が出ず、娘と水神に祈ったところ、

我こそは千年を経たる竜神なり・・・と云って夢枕に白髭の老人が出てきて・・・以来湧き続ける。

この工藤与四郎は寛永4年、根城南部氏が遠野への移転に従い、移住したとあります。

朝日大明神の与四郎は遠野で200石の与四郎だと考えて良さそうです。

ちなみに寛永11年の遠野で起こった岡前騒動の交渉役も与四郎です。

蠣崎蔵人の乱、岡前騒動はネットで確認してください!笑

 

市内松崎町のひな祭り、今年は中止

次に工藤四郎左衛門

移封当初は鍋倉に屋敷を与えられていましたが、寛保年中(1741~1744)とも享保年中

(1716~1736)とも云われているが、家を失火により焼失し、遠野古事記では石倉丁に、

吉田政吉氏の著書では新屋敷丁に引越し、平士に降格。とあります。

この四郎左衛門、寛永11年三代将軍家光公が京都上洛の際、諸侯にその供を命じ、

行列の中には南部藩家中として工藤四郎左衛門も。上洛後の帰途、大井川にさしかかった

ところで大雨が降り出し、二日間足止め、まだ濁流渦巻く中、南部藩主重直公は八戸弥六郎に

どうにか渡れないものかと相談したところ、直義は家臣工藤四郎左衛門を供に川に入り、

渡れる場所を探り、無事、渡河。それを見ていた残りの他藩も一斉に渡ったとのこと。

南部藩の参考諸家系図を見ると、

工藤長門の嫡男が四郎左衛門、長門の弟が右市之助で、その子が権左衛門。

長門の四男(諸家系図には三男とある)は盛岡南部藩士となり、陪臣となった

父長門、兄四郎左衛門に代わり、工藤本家として一家を成す。

 

2月末の小友町裸参り・・・今年は地域外へのPR無しで地元だけで

という情報もありましたが、どうやら中止。

当初、遠野に来た四郎左衛門、右市之助、権左衛門は、何となくわかりましたが、

久左衛門は不明。また、与四郎が長門のことなのか、四郎左衛門のことなのか、

これまた、不明。(わからないことばかりで・・・笑)

 

町家の女子神楽・・・町家のひなまつりに合わせて開催されていますが、

今年は、まだ情報がありません。

 

その女子神楽が演じられていた旧三田屋さんは解体されました。

暖かくなる頃には、安藤忠雄氏支援による「こどもの本の森」図書館がオープン!

さて、

失火により降格となった四郎左衛門、その後の御支配帳に工藤氏トップとして

工藤喜内110石が出てきます。

参考諸家系図では、四郎左衛門の父長門の弟右市之助の項に出てきます。

右市之助嫡男権左衛門、二男が廣當でその子が喜内(直右衛門とも云う)。

ところが、角川書店編「姓氏家系大辞典」には次のようにあります。

遠野南部家臣に紫波郡佐比内村の河村広当若狭の次男広明を祖とする工藤家あり。

広当は浪人中の父秀重の親友だった遠野南部家臣工藤右市之助に目をかけられ、同道し

遠野に住むことが多く、遠野では工藤氏を名乗った。

後、広当は盛岡藩南部英信(七戸氏)に仕え、広当の次男広明喜内もまた英信に仕える。

遠野南部八戸利戡の死去により信有(七戸氏)が養子相続するに当り、

広明は信有の傳臣を命じられ、遠野に移る。信有成長後も遠野に留まることを懇請され、

土淵村栃内に100石と永代家老格身分を安堵される。

見ての通り、御支配帳と大辞典には違いがあります。

工藤喜内の家系は喜内、直右衛門、紀内などと続き、明治には河村に改姓しているので、

おそらく大辞典の記述が本当で、右市之助の子として遠野八戸家臣になったものと推察。

四郎左衛門と喜内、両系統には医者になった人がいることから、

相当優秀な血筋なのかもしれませんね!笑

 

中止続きのイベントの中、遠野町家のひなまつりは本当に小規模ながら開催とのこと。

2月26日~3月3日まで、駅南側の町中にて。

 

ここ数日、最高気温がマイナスから脱出するようで、少しは春に近づいているようにも

感じられますが、四月下旬にならないと桜が咲き始めない遠野、

もう耐えられないなどとは云わず、足の霜焼けも含め、もうしばらくは、

じっと我慢の子でいたいと思います。笑

 


高橋武右衛門

2020-06-29 13:31:39 | 歴史

今年も半年経過。こんなに、だらだらしたまま何カ月も過ごしたのはいつのことだったのか?

 

そんな先週、ブログ仲間のksuzさんが、canonのレンズを置いて行きました。

ヤフオクに出す前に欲しい人があれば、ほど良い価格で譲るそうです。

ばんばん稼いでいる年なら、私も絶対買うのですが、今年は・・・。

 

さて、話題は、懲りずに百専右衛門関係から、小友町鷹鳥屋

ここは旧鷹鳥屋小学校、大きな木の下に校舎が見えます。メインの登り口前

 

周囲より一段高い丘の上といった雰囲気ですが、この左奥を含め、伝説として、

阿曽沼氏の沖舘某の居た処とも、織田信長に白鷹を献上した石田宗順が居た処とも云われています。

百専右衛門の緒用留書を見ると父高橋氏の一族とは異なる?高橋武右衛門殿という人が出てきます。

文政12年(1815)の文書では遠野南部八戸弥六郎の御納戸役(鍋倉城にて)とあります。

図書館にある弥六郎支配帳を見ると武右衛門、武左衛門の名前で10石。

この高橋武右衛門さんはどんな人だろうと探していたところ、「とおの小友探訪」という本にありました。

それには、ここが江戸時代中後期、南部家臣高橋氏の居館で、武左衛門、軍蔵、・・・とあり、

昭和17年以後断絶し、分家も昭和20年後期には釜石に移り、後、小学校新築に際し、

残されていた墓石を公葬地に移転とありました。

 

その公葬地に百専右衛門関係者と行くと、書いているとおりにお墓があり、家紋は笠紋。

百専右衛門関係高橋氏の菊紋ではありません。

上閉伊郡小友村郷土教育資料には、鷹鳥屋の高橋氏として、緒立笠紋

葛西の浪士高橋民右衛門、遠野南部氏に仕え、禄20石を食み、鷹鳥屋館下に住居を定む。

後、遠野に10石を分け分家す。とあり、この民右衛門の後裔が武右衛門さんだと思われます。

現在、小友町には十数軒の高橋さんがおりますが、鷹鳥屋にはゼロ。

分家がどの家を指すのか確証は得られていませんが、安左衛門、平四郎の系統かと想像しています。

 

旧鷹鳥屋小の北東に回ると鳥居。

何年か前の鷹鳥屋まつりに来た時、鷹鳥屋獅子踊りが奉納した神社です。

先の「とおの小友探訪」には、天満大自在天神とあり、残されている棟札には

奉再興天満大自在天神神宝殿一宇成就武運長久祈願之収 所願成就祈所

願主高橋武ヱ門重房、同軍蔵重富、遷宮導師源龍院本考 寛政6年(1794)申寅年9月25日

次は、願主高橋部重富、遷宮導師源龍智観 安政5年(1858)9月25日

高橋部は幕末の家臣名簿にもあり、明治19年鷹鳥屋手習師匠高橋部死亡と小友年表にある。

とあります。

 

2010年の鷹鳥屋まつりの写真に、この神社が撮ってありました。

 

当時は、こんな処にも神社あるんだなあと思いながらの撮影

 

さらに写真データを確認すると先の棟札の一部があり、武の次が左と云う字に見えますが、

かすれながらも右という字で、高橋武右衛門です。

また、天神さんの紹介文章にある「高橋部」は、御支配帳関係名簿によると「高橋蔀(しとみ)」が正解で、

武右衛門、軍治、蔀と続き、明治時代を向かえたようです。

郷土芸能の追っかけが、思わぬところで、功を奏した感じです。笑

 

鷹鳥屋公葬地に同道頂いたお二人と次に回ったのは、百専右衛門系綾織高橋家と

同じ家紋を持つ小友町山谷の高橋さん。

このお宅は、2017年の山谷観音まつりの際、山谷獅子踊りが門掛けして歩いた家の一つでした。

わかる範囲で11代続くという家の系図を見させて頂きましたが、手掛かり無しです。

 

江戸時代の古地図

二日町と書かれている場所の右側にアラマチとある場所が現在の二日町中央部

その前の猿ケ石川に橋が架かっており、札場橋、橋を渡って右へ行くと、コシオウ(胡四王)

それを左に折れ、中央の山越えが小友峠 かつての小友・遠野のメインルートです。

峠を越え、白地の処が2ヵ所あり、古城跡で、その右のほうのが、高橋武右衛門の屋敷。

峠の小友側で、主要道が見える処にあるのが高橋武右衛門家で、

猿ケ石川の綾織側が百専右衛門の父、綾織高橋家の居た処になります。

政治的に配置されているように思えますが、どうだったんでしょう?

 

先週、家の玄関には菖蒲とヨモギ

少し前まで菖蒲湯に入っていましたが、今は昔です。

昔のことはどうでもいいじゃないか!・・・それはそうですが・・・


百(高橋)専右衛門

2020-05-31 16:08:59 | 歴史

あれよあれよという間に5月最終日。今月は3回しか更新していなかったと今気づきました。

思ったように本業も捗らず、なかなか前へ進めません。これをコロナのせいにするか、

歳のせいにすればよいのか・・・どっちもか 笑

 

そんなこんなの先日、隣町住田町の世田米に久しぶりに出かけました。

こちらは阿曽沼中務重範の菩提寺として建立された曹洞宗瑞川山満蔵寺。

関ケ原の合戦のあった慶長5年(1600)、東北では上杉景勝と最上義光・伊達政宗軍の戦いが

あり、最上軍として遠野から阿曽沼広長らが参戦しました。

この時、伊達領地の気仙から、追加募集に応じて出撃した人たちを気仙36騎と呼びます。

その中に、ここしばらく気になっている高橋さんがおります。汗

 

世田米村 高橋二兵衛 ここの分家を出した時に祀ったのが、梅ノ木馬頭観音

と云うことで、そちらにも回り、その分家さんを訪ねると、

高橋二兵衛さんが遠野に引越しした事実もなく、家紋も笠紋。

残念ながら、遠野との関わりはないようです。ちなみに菩提寺は先の満蔵寺。

遠野では阿曽沼広長が最上から帰ってくると、家臣・親戚のクーデターが起こり、

広長は妻の実家、世田米の阿曽沼修理の処に逃げ、伊達政宗の後ろ盾を得て、

遠野奪還の戦いを挑みます。

その中に気仙36騎ずばりの名前は確認できず、高橋二兵衛他の人はどうしていたのか

気になるところです。

 

今日あたりで田植えもほぼ終了だと思う遠野、今年は水鏡風景もあまり撮らずじまい。

新しいコロナ生活対応というわけでもないのですが、自称案内所に籠もる時間も増え、

先日目を通していた資料に面白いものを見つけました。高橋関連で。笑

宝暦5(1755)、6年の大飢饉の遠野の様子を書いたものに凶作見聞集があります。

その中に新町利右衛門と理助、そして東屋善左衛門が出てきます。

新町利右衛門は百専右衛門の母の父である松田理右衛門その人で、理助は理右衛門の弟。

百専右衛門は子供の頃、伯父の名前と同じ理助を名乗っていた時期があります。

次に東屋、百専右衛門の父方の祖父は高橋仁兵衛といい、吉里吉里善兵衛の株を持ち、

善兵衛取り扱いの酒を売る商売をしており、その際の名前は東屋仁兵衛。

百専右衛門の弟は後にその東屋名で商売をすることになります。

ちなみに東屋は吉里吉里善兵衛の屋号東屋孫八からきているようです。

 

水鏡風景、もしかしてこの一枚だけで終わりそうです。笑

 

諸般の事情で遠出できないこともあり、かつ、お誘いもありで、

今朝は、上じぇんごの遠野人なら一度は見たことのある鳥居のあるこちらへ。

 

お誘いして頂いたのは高橋家・東屋に縁あるお二人。

 

踊鹿の正一位稲荷神社です。

 

神社内部の他に、合わせて特別にお見せ頂いたのが、これ。

踊鹿野を開拓した百専右衛門が勧請した稲荷神社の証文です。

この神社の東側向かいの小高い場所にも神社らしい石灯篭が残っていますが、

そこが元の稲荷神社かと思っていたところ、別の云われがあることが今回わかりました。

内容はここでは書きませんが。笑

 

百専右衛門が水の少ないこの地を開発するにあたり、造ったため池。

 

天保のその時代は、何年も飢饉が続き、思うように成果を上げられませんでしたが、

こうして側に田んぼができたのも、百らの開発あってのことです。


従弟来遠、そして、遠野太神楽

2019-08-11 12:55:01 | 歴史

9日(金)夕方、遠野の町に入ってくる車の量が増えたような・・・。

が、今現在は、いつものようにどこに人がいるのかと思うほど静かな遠野です。

 

その金曜日の晩、新しい家族を伴って、かなり久しぶりに父方の従弟が来遠。

お盆前にも関わらず、周辺にいる一族19名が集合です。

彼(橘氏)の家系は、遠野南部氏が八戸にいた時代から昭和まで、遠野にその苗字が残っていましたが、

平成の現在、電話帳には名前がありません。

また、彼の奥さんは元会津の人で、南部藩・会津藩共に敗れた官軍派、赤い糸が手繰り寄せたのかも。笑

 

翌日の昨日、その従弟家族とジンギスカン

 

暗くなる前に少しだけ乾杯!

従弟の男三人、共通点が見つかりました。岩手県人には珍しく、冷麺がそれほど好きではありません。汗

 

夜8時過ぎ、若干のアルコールとジンギスカンの匂いをさせながら遠野座へ

 

夜神楽公演のこの日は、神楽は神楽でも大神楽

遠野太神楽さんです。

 

あら 面白や ここはどこ  ここは高天原なれや 集まり給いし四方の神々

おかめ四方の舞です。

寛永4年(1627)八戸から根城南部氏(後の遠野南部氏)が移封となった頃、同じく遠野に移ってきた

てんや与平治が発端として受け継がれている太神楽。

天明8年(1788)には一日市の傳兵衛が先年に上方筋で獅子舞の免許皆伝を得て

玉川傳太夫という名前を貰い、帯刀にて太神楽に付き添うことを許されます。

 

うさぎ舞い

寛政3年(1791)一日市の笠上金作に申付け、町方の若者たちに太神楽の稽古をさせますが、

遊芸の事なので若者たちのためにならないということで、裏町の店屋与平治(何代目かの)に申付け、

盛岡・花巻の店屋たちが来て勤め、大変良かったと記録にあります。

その後の安政3年(1856)、鍵町瑞応院門前の神道佐々木大和守が祭礼に太神楽奉納の願いを出し、許されます。

遠野古事記には、てんやは俗体の祢宜・神主の類で、仙台領では吉田様(吉田神道?)に認めてもらい、

何々守と称しているとあり、佐々木大和守も同様ではなかったのかと推察します。

 

万歳

文化年間(1800年代初頭)、盛岡では七軒丁が藩の依頼にて江戸ではやりの万歳等を習得し、

その後、藩内でも流行ったとあることから、遠野太神楽の万歳もこの頃に伝えられたと思われます。

 

時は明治となり、裏町の佐々木徳太郎氏宅で鶴田せん助、まんべいばさま、細越が指導を受け、

大工町の若者たちに伝えたのが現在の遠野太神楽となります。

 

以前は鳴り物として、大太鼓、小太鼓、笛、三味線、鼓、手平鉦があったようですが、

現在は三味線、手平鉦が無くなっています。

 

町方の芸能としての、この太神楽と南部ばやしのお囃子が聞こえると今年もまつりが始まった

と感じる人が多い遠野まつりは、9月15日が遠野郷八幡宮で神事と役(獅子・神楽)奉納があり、

21日(土)が御神輿渡御と町中での芸能共演会、22日(日)は八幡宮で流鏑馬、芸能パレードです。

とは云え、今月は13日(火)が宮守めがね橋夜まつり、15日(木)納涼花火まつり、

16日(金)土淵町光岸寺と附馬牛町德昌寺の舟っこ流し、17日(土)遠野座夜神楽

18日(日)土淵まつり、24日(土)上宮守愛宕神社例祭、小友まつり、附馬牛町菅原神社例祭

その他も含め、9月末まではイベントラッシュの遠野です。

 

さて、告知です。

葬祭幹事長からは17日(土)午後6時頃から仲町の同級生ママの店で、プチ同級会開催の連絡が入っています。

また、同じ日になりますが、

山猫さん迎撃遠野ブロガーとその仲間たちの飲み会の予定です。

時間は同じ頃だと思いますが、場所はその内にということのようです。

万障繰り合わせの上、参加頂きますように! 笑

 

しかし、盆休み突入直前だというのに本業のやり残しが山積み・・・気力がありません。汗