「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

残されたお稲荷さん

2007-05-31 10:53:20 | 稲荷
  ●中沢館?●


 先日、コメントにあった中沢の館跡と思われる場所が載った略図。見にくいのだが、糠前経由で笛吹峠へ行く道の1本手前の道路から入るようだ。その周辺には館の稲荷もあるようで、四足・無足生物がいない時期にでも行ってみようかと思うも、とらさんのほうが先行しそうな気配を感じる。 また、愛宕山、月山深山宮の下方にある館跡は、地元で館があった場所として語られているところでもある。


  ●無くなりそうな社①●


 
 12月26日にアップした名も知らぬ社。先日、近くで草刈をしていたおばあさんに話を聞くことができた。
 かつて、この社の周辺は桑畑で、その一角にこのお宅の稲荷さんがあったもののようだ。今は、圃場整備によって田圃の中に稲荷さんだけが残ったのだそうだ。
 また、この社の南西の早瀬川沿いも、このお宅の畑であるが、そこには、かつて、井戸があり、誰かの住まいだった跡が伺われたようだ。ここに住まいされていた方は明治の頃には、ここから離れていたという。
 ここで、ちょっと気になるのは、桑畑だけが単独である場所に稲荷さんを祀るのかということ。もしかしたら、このお宅は元々この社のそばに本宅があったのではないかということ。また、このそばにあった別の方の稲荷さんだったのではないかということ。
 おばあさん曰く「うちのじいさんが新しく鳥居を建てたいと云っているが、息子の代には、かまわなぐなるべな~」


 
  ●清水川公民館そばの社②●
 青笹町関口から上郷町板沢の曹源寺に向かう途中の道路と早瀬川との間にある社。稲荷さんだという。ここも、元々の持主の方が、この場所から離れてしまい、社だけが残ったもの。そばにある木を見ると、相当古い時代から在ったものだとわかる。このお宅も明治の頃には、この場所から移動している。



 そういえば、父の実家にも、以前そこに住んでいた方の稲荷さんがあった。その土地を離れる時、一緒に持っていかないものなのだろうか。その場所を離れた当初は、拝みに来ていたという話は、あちこちで聞く。その後は・・・・。市内にある手入れのされていない社は、案外、これらと同じような運命を辿っているのかもしれない。
 

 

中沢の愛宕さん

2007-05-28 23:50:15 | 愛宕
 2006.11.27にエントリーした青笹町中沢にある八幡神社は、かつて、月山深山宮と呼ばれており、その社東側の小高い山は愛宕山といい、その名のとおり、この山頂に愛宕神社があった。この山周辺には、八幡さんの北側と愛宕さんの東側に館址と地元の方々が呼ぶ場所があり、後者は通称中沢館と呼ばれるが、前者については不明。           



 その愛宕山には登るのが大変だ(どこの愛宕さんも同じ)ということで、お参りしやすい場所に移したのがこの小さな社。



道路から眺めると、遠野では至る所にあるお稲荷さんか山ノ神と思い込んでしまいそうな佇まいである。(この社を造られた方からお聞きしたので間違いはない。)

 六角牛神社へ行く道沿いのこの地域で本家と称する家々は、確認できる範囲でも宝暦年間(1700年代中旬)には現在地に居たことがわかっており、十何代さかのぼる事が可能だとか。



 そんな歴史を刻む地域に在って、正にその移り変わりを見てきた建物が、ゆっくりと自然に帰ろうとしている。



 御馴染みのお堂の周りでもすっかり田植が終わり、遠野独特のゆった~りとした時間が流れた一日だった。

小学校の運動会

2007-05-26 23:49:50 | 地域
 昨年までは、ブログの師匠格である「とらねこ」氏が小学校関係の行事をアップしていたのですが、「子とらねこ」さんが卒業されたので、不肖、私が・・・。
 
                
 
 今週前半は晴天が続き、昨日は雨降り。天気予報もぴったり当たり、ほどほどの天気の中、遠野北小学校の運動会が行なわれた。全校生徒400人を越える市内では大所帯の学校だが、私が小学生の頃は、1000人規模だったことを考えると半分以下となり、小学校PTAとなった当初は随分と少ないと感じたが、流石に長年子供を通わせていると、ほどほどで良いとさえ思えてくるのが不思議だ。

               

 昨年度、校長・教頭先生以下10名以上の先生が一気に変わり、諸行事をこなすのが大変だったことを考えると今年はスムーズに進行され、一PTAの私も落ち着いて参加することができた。(学校で、半分の先生方が変わると、校風も変わったようにさえ思え、PTAもやりにくいが、流石プロの先生方、情熱が伝わる見事な運動会だった。)

               

 情熱といえば、春先に先生方と飲む機会があり、その中で、慣れることは良いことだけど、その慣れが一番恐いという話があった。十人十色の子供達に接する時、その慣れが子供達から発信される小さなシグナルを見逃してしまうという。また、子供はいつも先生を見ているので、情熱(一生懸命さ)がなくなると、子供は敏感にそれを感じると。先週の中学校の運動会を見ていて感じたのは、その情熱だった。先生も生徒も本当に一生懸命。そして、今日。今までで最高の運動会と思える情熱が伝わる内容で、学校に新しい歴史がまたひとつ刻まれたなあと思う童子であった。
 最後に、我が子の成績はというとリボンが貰えず、親に似て親の期待を裏切らず、見事だったとだけ記しておくか・・・笑  (姉は部活が始まり、ついに家族全員で楽しむことができなくなったが、「喜楽」での晩ご飯の時にお互いのがんばりを讃えながら、団欒をすごすことができ、健康に感謝) 

盛岡城

2007-05-25 23:30:53 | 歴史
 今日、所用にて盛岡へ行ってきた。場所は、盛岡城跡公園。隣接する桜山神社ではちょうど例祭が行なわれる準備をしていた。盛岡市外の私は、この神社の例祭を見たこともなく、どのようなことをするのだろうという興味もあり、寄り道をした。城跡公園(岩手公園という呼び方のほうが馴染み深いのだが)には何度か来ているがこの神社は初めてである。丁度、神輿を保管庫から出す準備をしていたが、残念ながら画像ブレで紹介適わず。



 神社の右手後方には、これまた、初めて目にする名勝「烏帽子岩」



 岩の形状からその名が付いたようだ。盛岡には、このような巨岩、奇岩が多いと聞く。三石神社や石割桜がその代表と言えよう。それにしても、この烏帽子岩も見事なものだと関心してしまったのだが、その隣には盛岡稲荷神社が鎮座しており、こちらは、庶民用かなと勝手に納得。

盛岡藩20万石(後年)の城としては立派な石垣沿いを歩きながら、集合場所の広場に行く。



 盛岡城は九戸政実の乱の後、浅野長政、蒲生氏郷らが三戸の南部信直にこの地を勧めたと云われている。秀吉が盛岡城の築城普請を正式認可したのは1598年で、築城にあたったのは嫡子の利直で現地の総指揮をとり1599年に暫定的に完成。
 信直亡き後、利直が二十七代を継いで築城工事をさらに進め、1619年頃までは三戸から一般庶民をも移住させていたようだ。
  明治元年、維新の変革によって領地を没収されるまで転封されることなく、同一領地に定住。
 
 なお、桜山神社の御祭神は南部氏始祖・南部光行、盛岡開祖・南部信直、初代藩主・南部利直、第十代藩主・南部利敬 の四公。



 ここは、ご存知のとおり様々な集会やイベントで使用される広場だが、当時、何に使われていた場所だったのかは記憶に無い。(恥ずかしながら)

 

赤羽根稲荷神社

2007-05-23 14:41:57 | 稲荷
  ●赤羽根稲荷神社●
 
 上郷町、赤羽根トンネルの手前左側の山中にあり。
天文年中(1532~1555)に阿曽沼家臣の刃金館主「平倉千右衛門」が京都の愛染寺より勧請して創建したといわれる。天明8年(1788)8月23日に萩野条右衛門勝信ほか6名が願主となって社殿の修復が行なわれた。棟札には東善寺法印宥尊により大小旦那の武運長久の祈願がなされたことが書かれている。正一位稲荷大明神。




  ●天文年中の出来事●
 
 天文3年~南部晴信、柏山氏と交戦。遠野でも葛西氏と交戦。
 天文6年~二番札書松崎観音境内に、この年の銘ある石碑建つ(奉納開山善秀和尚百五十年造塔仏立、施主善快主白)
 天文7年~江刺氏、気仙郡高田の千葉胤継および矢作重村らと戦い、矢作重村を討ち取る。
 天文12年~種子島に鉄砲伝来
 天文18年~フランシスコザビエル、キリスト教を伝える。小友に曹洞宗清水山西来院、開基

 この後、川中島、桶狭間の戦いと全国至るところで国取り合戦が行なわれることになる。

  ●天明年中の出来事●
 
 天明3年~天明の大飢饉
 天明4年~裏町から失火(長助火事):焼失家屋100、罹災家屋186
 天明5年~遠野7代南部義顔逝去(江戸にて病死)8代怡顔継ぐ
 天明6年~菅江真澄、胆沢町に滞在中に田植躍を見る(かすむこまがた日記)えんぶりずり小正月行事
 天明7年~松平定信、老中となる。六日町に代わり一日市、穀町、新町で伝馬役を負担する。
 天明9年~菅江真澄、青森県下北田名部正月15日田植踊を見る(おくのてぶり日記)小正月行事

 未曾有の大飢饉が東北地方を襲い、故郷を離れる人々が相次ぐ中、乞食同然の姿をした人々が小正月行事の田植踊り(えぶりすりorえんぶりすり)を演じながら、村々を歩く様子が見られた時代。八戸に伝わるえんぶりや各地の田植踊りの原風景がそこにはあったようだ。
 室町時代後期から250年も過ぎた頃、田植の時期でもない小正月にお祝いの行事として田植え踊りが演じられ、どこから来たともわからない人達によって行なわれたものが、その後、次第に各地域の若者達に引き継がれ、形を変えて今も生きている。伝統芸能とは、そういったものなのだろう。決して不変ではないとだけは言えるようだ。



我家の庭に咲く名も知らぬ花