「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

来内荒神神社

2007-04-29 17:44:36 | 荒神
  ●来内白蛇・山の神●
 伊豆権現前の道路を住田・小友方面へと向かう。集落が途切れると間もなく右手道路脇に二つの社が目に入る。上が山の神(周辺の方はお神楽様と呼んでいたが)、下が白蛇神社。私には確認できなかったがこれらの上に稲荷さんがあるという。通りすがりの方に伺うと、下の集落内の方が管理しているという。また、そのお宅にはもうひとつ社があるといい、「お不動様」だという。

                 

 ここを管理されている方に謂れ等についてお聞きする。稲荷さんや山ノ神についてはよくわからないという。白蛇については、戦後間もなくの頃のようだが、お社のそばにあった大きなツキの木を青笹の中沢に住む木挽きに頼んで伐ってもらったところ、その木の穴には沢山の蛇が入っていて、その中に白い蛇がいたという。それから、その家の1歳と2歳の馬を放牧に出すと、2歳の馬が穴に落ちて亡くなり、続いて1歳の馬も同じ穴に落ちたという。これは何かあるということで、拝む人にみてもらうと、ツキの木に関係していると言われたとか。その時の木挽きの家も間もなく、あまり良くなくなったという。そこで祀ったのが白蛇神社。

  ●荒神神社●

                 

 このお宅には、敷地の傍の小山に社がある。この土地は、先祖が開いた土地ではなく、以前の方が離れてから手に入れて住むようになったとのこと。ただ、いつの頃のことかは不明である由。

                 

 ご主人に社を案内される。御神体は、江刺の方につくってもらったもので、祈祷神符は、江刺郡大田代鎮座の三寶荒神神社のもの。お不動様と呼んでいた近所の方の言とこの荒神の神符との関係はどのようなことなのだろう。この土地を手に入れる時、既にあった社も含まれていたとのことなので、本来の御神体は、以前の所有者が持っていかれ、現在の方の先祖が、独自に御神体を奉納したものなのかもしれない。
 この上郷町来内は小友町との古くからの交流がある地域で、住田町とも同様である。かつて、伝承されていたという来内念仏剣舞は、住田からのものと言われる。この家の御神体が江刺を縁としたのもこのような交流ルートを裏付けるものと思われる。

戸草の稲荷

2007-04-29 11:32:38 | 稲荷
  連休前半、とらねこ氏の知人が八戸から遠野を訪れ、宮守町戸草の石倉館を踏査することをキャッチし、同行しようと試みるも、時間があわず、二人は山中へと消えていた。しかたなく、周辺を散策する。

                 

 館下にある八幡さまの北東に小山が見え、小さな社が鎮座している。以前に訪問した時にその存在は確認していたのだが、ピンボケで紹介かなわず。
 この社のすぐ下の畑で作業中の老婦人にお聞きすると、お稲荷さんとのこと。二つある社は以前のものと新しくしたもののようだ。どこでも、朽ちてきた社はそのままとし、そのそばに新しいものを祀るようだ。遠野の八幡様のところでも同様のお稲荷さんが紹介されていた。

                 

 お稲荷さんのそばの草地では、春を感じながら、のんびりとポニーが草を食んでいる。遠野郷馬っこ王国と銘打って様々がイベントが用意されているようだが、ここでも体験できるようだ。

                 

 車で周辺を走っていると、遠野七観音のひとつ「平澤観音」の下で、天神様を撮っていると持ち主のおじいさんがでてきて、しばし話をする。この地域の社のことなどお聞きしているうちに、以前に行った上楡木の不動尊はかつて熊野さんと呼んでいたものではないかという。また、その地域で気になっているもうひとつも熊野さんではなかったかという。やはり、そばに行ったら、話は聞かなければ始まらないようである。

遠野さくら祭り

2007-04-28 00:01:59 | 郷土芸能
 遠野さくら祭りが始まって何年になるのだろう。JCなる団体にいた折り、時の理事長の発案と遠野町地域連絡協議会のコラボによって始まったのだが。桜が咲いても花見をする人もいなくなったということで、鍋倉神社周辺で「しし踊り競演会」をJCが仕切り、南部入部行列を地連協が行なうことで1回目が行なわれた。当時、その担当者の一人として、大槌町や達曽部のしし踊りの出演交渉やら、遠野市しし踊り保存会連絡協議会?への打診など、汗をかきながらも楽しみながら活動していたことを思いだす。所属団体のシステム上、ずっと継続参加することは難しいようだが、入部行列と僅かながら郷土芸能が行なわれ、遠野郷八幡神社の子供流鏑馬を除いては、これといったイベントのない遠野の春まつりとして定着したように思う。

                  

 その南部神社の例祭が5月4日だが、今日伺ってみると神輿の準備が進められていた。

                 

 南部神社の西側に回ると、お多賀さんの近道だが、ここも、通路の邪魔な小枝が刈られ、通りやすくなっていた。この神社へは、砂場(すなっぱ)からだと急な石段を上がらなければならず、ついついおっくうになるが、私は、神社上から下へのコースをとる。(臆病な私は、上に何がいるのかわからない恐さから、全体が見れるコースを選択しているだけなのだが・・・。通いブロガーT嬢は朝の散歩コースにしている節がある?)
 この多賀神社は、阿曽沼広郷が横田城をここ鍋倉山に移した時に勧請したともいわれ、神社の下の地域は多賀の里と言われていたようだ。また、旧事記には、直栄の願いで、正保4年(1647)に勧請され、24代義論の元禄5年に建直したとある。これは、阿曽沼時代からあったのが事実か、南部氏創建かは、難しい。全国の多賀神社の親分格は滋賀県の多賀大社のようだが、古事記までさかのぼるようで、手に負えない。。
  
 「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」

 私自身は、上記の伊勢・熊野信仰と同様に考えたい。

                 

 連休突入というのに、遠野の桜はどうしたのだろう。ほんのわずか咲き始めたところもあるようだが、鍋倉山はつぼみのまま。気温の上昇もあまり期待できない様子なので、連休最後に見られるか心配だ。桜前線はいつもどおり、弘前まで行っているが、いくらなんでもここまで遅いとは?通い○ガーさん達のためにも咲いてほしい!私は、まだ、咲いている桜を今年は見ていない。隣町へ通う嫁さん曰く、「もう散り始めたよ!?」遠野の春はいつ来る?
 

赤羽根稲荷神社

2007-04-24 23:24:39 | 稲荷
 「いちご白書をもう一度」という曲がある。荒井由美の曲だが、なぜかしら、頭をかすめる。先週の土曜日「親不孝」をしていた日に私とあまり齢の変わらない千葉にいる従弟が脳梗塞で倒れた。幸いにも、無事だったようだが、その知らせのせいか体力的なもののせいか今週はどうも調子がでない・・・。もしかして、五月病・・・・。そんな訳はない。嫁はん曰く「あんたは殺したって死なないタイプだから!」 
 そんな元気をもらう一言?を励みに?

 ●赤羽根稲荷神社●
                 

 赤羽根:伊能嘉矩氏は、アイヌ語のAkka(水)Pana(河下)水の下尻「アッカパナ」と解いている。一方、地元の人菊池久次郎氏は「山の走り根のところで山頭部の所である」と。また、奥州仙台領遠見記では、「赤八年」と記しているという。遠野では、青笹にも同じ地名があり、苗字にもある。かの江戸にもあり、関連書物を読んだ際には、久次郎氏と同様の説が掲載されており、やはり、アイヌ語地名とあった。

  「遠野の神々と民話のふる里」の細越氏によると、
 この神社の由来については不明であるが、天文年中(1532~1555)阿曽沼の臣、平倉村の地頭、刃金館主平倉千右衛門が京都の愛染寺より勧請して創建されたという。天明8年(1788)8月23日、萩野条右衛門勝信ほか6名が願主となって社殿の修復が行なわれ、東善寺法印宥尊によって武運長久の祈願がなされた。とある。

 天明8年は、あの「天明の飢饉」(1783)の後のことで、飢饉を乗り切った後で、修復されたことになり、飢饉によって荒れた社を荻野以下が直したということか?この萩野「はぎの」、最初に見たときには荻野「おぎの」の間違いではないかと思った。というのは、この地域に居るのは荻野「おぎの」姓の方々だからであるのだが、南部氏家臣には萩野姓が見られることから、間違いではないようだ。ただ、不思議なのは、この赤羽根には伊達領境ということで番所が置かれ、そこは、元造り酒屋の荻野「おぎの」氏の所有地となっており、このややこしさは、まさに?である。
 例のコピーを見ると、平倉には2箇所の稲荷があり、以前載せた繋稲荷と赤羽根稲荷のことと考えられる。俗別当名は、ひとつが十右衛門で、もうひとつが千右衛門とある。上記の平倉千右衛門と俗別当の千右衛門、繋がりはあるか?代々、襲名した名前ではなかろうか?

 ●もうひとつの稲荷●

                 

 青笹から国道340号線を上郷方面に向かい、青笹・上郷の境界附近の左側の田んぼの中にぽつんとある社。(SMCの工場の南側附近)個人所有の稲荷様なのだが、なぜ、田んぼの中にあるのだろうといつも思う。稲荷さんのイメージは今回の赤羽根や欠ノ上のように大規模なものは、山にあり、他は屋敷の敷地内にあると思っているのだが、なぜ、田んぼの中?かつて、そこに家があったのか?田屋があったのか?雷が落ちそうな場所からして、雷様かとず~と考えていた社である。

細越愛宕神社

2007-04-21 00:23:19 | 愛宕
  此の地に愛宕神社とその境内に雷神あり、佐藤何某氏の管理でる。又、西方に篠ヶ館(別名関口館)あり。大字細越関口にあり、現在は萱場で一部雑木林になっている。頂上の後方に二篠の空堀址があって山に続く、前方は数段になり北麓に早瀬川が流れる。西麓を小川が流れ、如何にも要害の地のように見える。阿曽沼氏の臣鱒沢左馬助の一族関口某の居た所と伝えられる。頂上より、瓶を掘り出したことがあり、又一説に依ると越田山より此の壕に水を引いたと言われる。(上郷村郷土教育資料)

                 

 先の文章に登場する愛宕神社。場所はわかるのに、道がわからず、行きそびれていたが、皆さん同様にトンノミの白山姫や八幡さんを見つつ、何度も行ったりきたりした社。手持ちの地図では、管理している佐藤氏のお宅から道路をまっすぐ南へ行けばよいことになってはいるが、早瀬川にあるべき橋がなくなっている。川だけでなく、新しい釜石道によって、分断された様子。本来は橋を渡ると社が見え、脇の道を登ると、そこがアタゴ沢となるのだが。

                 

 今は、佐野橋を渡り、徒歩の場合は、新釜石道なりに西へ進むとその道路下をくぐって神社の下に行くことができる。また、車では、JR釜石線の脇の道を釜石方面に一旦向かい、大きくて立派な和風住宅の手前から線路を渡り、釜石道なりに西へと行くと神社下へと繋がる。(目と鼻の先にある神社へ行くのに、この面倒くささ。)
 明治以前に、羽黒派修験大蔵坊が檀那場としていた愛宕権現がこの神社と思われる。

●話は変わるが●

                 

 先日の山口ホウリャウ社に行く手前、水車小屋の北側山に十二薬師さんがあるが、そこの鳥居そばに、どうやればここまで、ねじれるのかと思うほどの松が見える。一般的に、社寺のそばにある樹木はそれなりに手入れをされているものなのだが、見事にねじれている。
 松の木はそもそも、ねじれながら生長するもので、製材したものでも元の形状に戻ろうとまたねじれる性格の木で、その扱いは難しいのだが、遠野の大工さん方は、そのねじれに逆らわないように上手に使っているようだ。この松を見ているとこの土地の自然の厳しさがよくわかるようだ。そして、この厳しい土地を開墾した先人達が願いをこめて宝領と名付けたのも頷ける。
 さて週末は、4月後半最初の親不孝の日。懐具合に相反するように徘徊することになりそう。ひねくれ松と自分がどこか似ていると思いつつ・・・・。