「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

小友町巌龍神社裸参り

2008-02-29 17:18:43 | 神社
 29日、一年越しの思いを叶えるべく、一路小友町へ向う。気温はマイナスながらも、雪はわずか。



 ライトアップした不動巌が出迎えてくれる。始まりの時間は18時30分とのことで、しばしの間、散策。とは云え、風が強くて、体感温度は、-10℃を超えている。町内の人たちが、見物に訪れた方々に甘酒を振舞ってくれる。写真を撮ろうと思うも、寒さには勝てず、甘酒を頂く。



 裸参りが始まる前に神社への参拝を済ませる。



 拝殿内で、外山神楽が奏でる中、神事が始まる。この神社の神官さんは、土渕の北川氏である。なぜ、外山神楽が担当しているのか?なぜ土渕の北川氏なのか?をそばにいた方に聞くも、わからないとのこと。



 近くの地区センターから準備を整えた若者達が神社への参拝にやって来る。参加者は、本来、厄年を迎えた男衆で、前厄、本厄、後厄と三年続けて参加する倣いであったが、現在は、地元の中学生にも参加して頂いているようだ。



 先頭の者が神社で鈴を受取り、それを振りながら歩く。後の者はその後ろに続く。手には、五穀豊穣、無病息災、合格祈願などと書いた灯明を持ち、小友町メインストリートの南側にある上宿橋の脇にある大般若供養塔の石碑まで三往復する。



 かつては、旧1月28日の不動講の日に行われ、裸参りの一行は長野川で身を清めながらの三往復であったという。そして、お参り終了後に講中の方々と一緒に酒肴を交わしながら年間行事や農事の相談をしたようであるが、現在は、地区センターで関係者が直会をして解散となるとのこと。



 口には護符を咥え、年男は白足袋に草鞋、さすがに中学生はスニーカーであるが、寒いだろう。観ている私達が防寒装備万全なのに、それでも震える。そばで寒い素振りを見せると申し訳ないような気がする。



 巌龍神社の隣りにある常楽寺の六世仁甫の時代、元和寛永の頃に、岩龍山大聖寺(現巌龍神社)に羽黒修験をおいて祀らせたといわれ、宝動院雄海の開山。
 金山開発によって不動岩周辺が開かれてきたことから、元禄年間に源龍院仙林が拝殿を建て、裸参りを始めたと云われている。



 常楽寺は、かつて現在の場所から見て、鷹鳥屋川向こうの南西の山となる南館そばにあったといわれており、南館との関係が伺える。南館には、南館右近なる人物がいて、その二の丸に如来堂があり、弥陀・薬師・観音の三尊が祀られており、山谷観音の一院とも考えられている。南館についてはこちら



 常楽寺は附馬牛東禅寺の無尽和尚の開山で、建武年中のこと。その後、跡を継いだ嫩桂(どんけい)によって境内鎮守のために乾の方角に不動尊を祀ったのが、現在の巌龍神社とも云われる。



 地元の人達が、去年は雪がなくて良かったが、今年は、ここ何年間で一番寒いと言っていたとおり、三往復を終えると、中学生達は急いで地区センターへと移動していった。
 帰りしな見上げた空には満天の星が輝いており、手が届くと思われるぐらい近くにあった。性能の良い私のデジカメでは、撮ること適わず。以前に大出早池峰神社で神楽を観た時に感じた星空と同じであった。

 夏の巌龍神社の例大祭はこちら

荒川の小正月 其の弐

2008-02-24 11:05:43 | 駒形
  ハレの日ゆえに幕を飾って、お出迎の社。

 

 拝殿では、関係者が神事を行なう。神官さんは、この神社の元々の別当さんでもある。馬の里、そして、数年前にこの近所に引っ越してきた遠野ふるさと公社のT氏とその仲間が参加していた。




 この建物は、若宮としての位置づけとなっており、川そばにあるのが本宮。

 

 無尽和尚が片耳の欠けた絵馬を祀ったのが、この神社の始まり。そして、その絵馬には次のような伝説が残されている。
 早池峰山の神霊が無尽和尚の祈願に応じ白馬に乗って現れ、東禅寺の境内に早池峰妙泉寺の水を分与。和尚は、その霊容を書き写そうとしたが写し終わる前に姿が消えてしまい、白馬の片馬を写し残してしまったというもの。

 

 所謂、早池峰山妙泉寺宮本文書を見ると、大出妙泉寺では例の駒形を刻んだ印を作り、その御札を配っていたことが記されている。白馬については、岩手県民間信仰辞典によると「蒼前は葦毛四白の馬の意味で、齢8歳に達すると白馬になるといい、霊異ある馬。」とあることから、無尽和尚が妙泉寺に御札を配ることを進めたのは、このような信仰が底辺にあってのことではないかと考えられる。

 
 (下の長屋門風拝殿脇に祭られる白馬)

 平泉藤原氏の時代から馬産地だったとされる遠野ならではの信仰だったものか、馬産信仰を奨励しようとした政策からきたものかはわからないが、別当家=神官さんも早池峰山妙泉寺との関わりがこの神社にもあったのではないかと話してくれた。

 

 神事終了後、建物内部を見学させて頂く。四面の壁には沢山の絵馬や馬の写真が奉納されており、明治以降のものがそのほとんど。先に記したT氏に縁あるこの額が最も新しいもののひとつ。

 

 小正月行事ということでこの日は本殿の扉は閉まっており、江戸時代以前の札の確認はできなかったが、古くから伝わっている権現様を見ることができた。以前はこの上柳にも神楽組があり、祭礼の日には踊っていたというが、今はない。山伏系神楽であったという。小倉神楽がこの系統である由。

 

 仙台の方々が奉納した立派なコンセイ様。馬産信仰→種馬→コンセイ様→子宝



 石段上の拝殿掲額には、なぜか「山王社」の文字が。云われについてはわからないと云う。



 境内には、別の駒形さんの他に、黄金山さんが祀られている。



 別当家の氏神として祀られていたものが、地域の神社として発展したこの荒川駒形神社。現在も、地域や馬関係者からの信望が篤いことがつくづく感じられた日でもあった。

 

 関係者が直会へと移動を始めたので、このまま神社を後にする。側には、参拝に訪れた方々の馬が並んでいた。



 時代によって少しずつ変化しながらも継続しているこのような行事が今も残る遠野。薬師・早池峰山を観ながら、「感謝」。

 

 石上山にも。



 おまけ:白馬ならぬ安居台の白鳥。


荒川の小正月 其の壱

2008-02-22 19:24:12 | 駒形
 1月15日は小正月。旧暦の小正月が新暦では2月21日となっていた。今では、小正月行事のミズキ団子飾りなどは、新暦の1月15日に行なっているが、本来は、この時期にあたる。八戸のえんぶりは、まさに小正月行事であり、旧暦に合わせて開催されている。



 旧暦のとおりに例祭を行なっていたのが、ここ。



 キャッチした情報では、21,22日に行事があるようだったので、21日が宵宮で、22日が本祭なのではと考え、時間をみつけて直行。



 沿岸部では、最高気温が10℃を超えたというが、附馬牛町荒川周辺は、まだ、まだ冬。



 この大きな直家(すごや~曲り家に対する呼称)を過ぎると目的地。



 沢山の鳥居が目印となる「荒川駒形神社」



 道路わきには、軽トラ(決して、一般乗用車ではない)が数台並んでおり、予想は的中。時間もドンピシャ!
 御出迎い?して頂いたのは、上郷のおやぶんさん。私も、この方がここにいるとは想像もしていなかったが、私を観たおやぶんさんも、好きだね~と云わんばかりの表情。



 本来の拝殿を通って、本殿へ向うと、そこは、当然の如く、石段となる。この石段でコケル瞬間をパチリ!といきたいところではあるが、残念ながら、急勾配なだけ。

 

山崎観音

2008-02-19 17:36:17 | 観音
  先頃、遠野ブロガー諸氏参加による冬の遠野探訪第二節が行なわれた。場所は、遠野七観音のひとつ、土渕町の山崎観音。今回も、地元の地の利を活かしてaboutさん(人呼んで:タヲル君・・・本人の了解は得ていないが・・・いいよね)に段取りをして頂き、観音堂の別当さん立会いのもとでの見学となった。



 どこの観音堂も同じなのだが、春からは、ここにも熊が出没するので、この時期でないと。



 観音信仰が盛んになったのはいつ頃のことかはわからないが、ここ南部の地では、永正9年(1512)に奥州糠部三十三所巡礼が観光上人という方によって設定されたのが、始まりであるとか。

 観音信仰は仏教の盛んな地域で特に人気がある仏で、一心に観音様の御名を唱えるとお祈りする方にふさわしい姿で現れ、その人を救うと云われる。



 三十三観音は、その観音様の変化した姿で、その中の七つが代表的な観音様であるとか。(聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、不空羂索観音、准胝観音)

 遠野の七観音はどうだろう。十一面観音は4箇所、千手観音が1箇所、勢至観音が1箇所、馬頭観音が1箇所となっている。



 ここ山崎観音の本尊は馬頭観音である。寛政13年(1801)に松田理右衛門らによって、七観音に奉納された由緒書「栃内観世音菩薩来由」によると、大同2年(807)に大月山栃内寺として草創され、嘉祥4年(851)慈覚大師が一本の木から七体の観音像を彫刻したもののひとつが安置されたのが、ここであると云う。しかしながら、いつの間にか本尊もお堂も無くなり、おそらく、ここがお堂のあった場所であろうという現在地に百姓らがお堂を建立したのが、元禄14年(1701)のこと。「江戸城内の松の廊下で赤穂藩主浅野長矩が高家肝煎吉良義央に切りつけた」同じ年。



 この元禄14年に畠山京命作の聖観音菩薩・薬師如来・虚空菩薩の三枚の板絵が目内六右衛門によって奉納されていることから、百姓らがお堂を建てた時には、この絵が本尊の代わりとして奉られたものと思われる。(畠山氏と目内氏がどのような人物であったのか不明)
 その後、廻国の仏師の進めで村内の奥さん方が助成をして建立したのが、白い色をした馬頭観音坐像である。享保5年(1720)。この像の建立には、地元の修験正福院のお内儀の名前もありながら、導師を勤めたのは、良厳院照栄となっている。良厳院は宮代の元八幡宮と現在の八幡宮を司っていた人物であるが、何ゆえ、ここの導師となったのか興味のあるところでもある。


(再建助成の記録額の代官名)

 写真には古すぎて文字が写らなかったが、享保17年の御詠歌が奉納されており、そこに六番栃内寺と読み取れていることから、この頃には、七観音信仰が成立していたことがわかる。(寛保8年(1796)田名部海辺三十三番札所でも御詠歌が使用されているようである)

 安永2年(1773)現在、本尊として中心に安置している馬頭観音が新たに建立され、導師は五日市の喜楽院と地元の正福院。但し、作者及び願主は不明。
 それから27年後の寛政12年(1800)に現在の建物が、御代官(飛内氏、小沼氏)の助成を頂いて再建される。



 享保5年に建立されている馬頭観音があるにも関わらず、安永2年に新たな観音様を建立し、観音堂を再建した翌年の寛政13年に先の松田理右衛門らの七観音由来額が奉納されていることから、額の奉納に合わせて様々な動きがあったものではないかと考えられる。



 これらの出来事から現在まで、修復をしながら維持している観音堂であるが、この建物内に納められているもので、よく云われのわからない物のひとつが、オカクラ様。



 皆で触って真っ黒になっていたものを拭いたら、きれいになったと別当のおばあさんが笑いながら言っていた。


(観音堂そばの稲荷さん)

 その他にも、享保14年の虚空菩薩堂・阿弥陀堂・薬師堂の建立棟札や、明和9年の瀧不動堂の棟札、安永8年の神楽宝殿の棟札、文化元年の不動明王造立銘札、文政5年不動尊開眼銘札、文政6年牛頭天王宝殿棟札、弘化4年不動堂再興棟札と近隣にあったであろう様々なお堂の札が、本尊脇に納められていたはず。(全ては時間の都合で確認できなかったので、それはまたの機会に)



 寄り道




 不明札の中にあった不動明王と関連あるかは調べていないが、新田川向かい沼袋にあるお不動さん。



 この地域にはお不動さんが三箇所あり、このいずれかに関係あるものと思われる。また、瀧不動は、琴畑のものか?

 さて、この山崎観音堂が本尊馬頭観音と称されるようになったのは、享保からと云われているが、宝暦の「御領分社堂」には観音とのみ記されている。初期の三枚の絵は聖観音・薬師・虚空菩薩であり、これが現在のお堂に最初からあったものかは実際のところ不明である。
 聖観音は観音様の筆頭、薬師は山口に薬師堂があり、虚空菩薩は運萬堂を指す。薬師も運萬(うんなんさん)も、ここ土渕で名前が登場するのは宝暦以降のことである。そして、寶領のある山際には、かつてお寺があったとされる場所が2箇所あり、それらとこの山崎観音堂再建との関わりも今となっては不明である。

 ●おまけ●



 遠野ブロガー新年交流会での1コマ。ウラワン王子とえんで大王、そして宮洞将軍、萌え萌えの図。遅まきながら。
 






 

冬の陣 其の弐

2008-02-14 17:17:41 | 宝領
  先日の遠野ブログ歴史班、通称「中年探偵団」の面々による探訪第二弾。場所はaboutさんの地元、土渕町。



 ●北野のシヤウ塚森●

 山崎のバス亭東方、南は明神沢、北は寺沢の中間。阿曾沼の時代には、この周辺に寺があったのではないかと云われている地域。仏具を葬り、古来から地震のせぬ処とし、高丘の上に人工的に土檀をめぐらし、頂部に自然石を据えている。と「土渕教育百年の流れ」には記されている。
 この現地を訪れて感じたのは、常賢寺東方、地名:讃経。ここの屋号「キット」の家に在ったという水天宮を祀る石と類似しているということ。かつて、堅牢地神(旧号地ノ神)と呼ばれていたもので、言い伝えも石の形状もそっくり。



 知る日とぞ知る山崎一本松の東の山から下りてくると、当然の如く、ホウリャウへ。

 

 雪ゆえに道なき道を歩く。



 鳥居の足は、どうにか真っ直ぐだが、貫(ぬき)は既に?・・・曲がってる。



 地元の区長さんの案内によって、建物内部を見学。



 以前、aboutさんから頂いた棟札の写真の現物があった。

 南部領内(10郡33通り)で宝暦13年(1763)までに実在した社寺が掲載されている「御領分社堂」を見ると、

 ○田名部通御代官所管轄地  白糠村・・・ 法量社 正徳4年(1714)建立
 ○七戸通御代官所管轄地   二ツ森村・・・ 法量権現社 法量村・・・法量権現社
               天馬館村・・・法量権現社 大沢田村・・法量権現社
               上野村・・・ 法量権現社
 ○五戸通御代官所管轄地   浅水村・・・ 法霊堂   米田村・・・法霊堂
 ○三戸御代官所管轄地    田子村・・・ 法了林開基慶長年中(1600年初期)
                        祭神法了権現
               同 村・・・ 法了権現  同 村・・・法了林
               同 村・・・ 法了林   梅内村・・・法了林
               惣米村・・・ 法了
 ○毛馬内御代官所管轄地   毛馬内村・・・法量堂
 ○福岡通御代官所管轄地   安比村・・・ 法霊社
 ○向中野見前通御代官所管轄地 高田村・・・ 法領権現堂 北矢幅村・・法領権現堂
                永井村・・・ 法領権現堂
 ○日詰長岡通御代官所管轄地  南日詰村・・ 法龍明社堂 宮手村・・・ 法龍権現
                平沢村・・・ 法龍権現
 ○八戸弥六郎地行所社堂    綾織村・・・ 宝量権現

 管轄地によって、呼び名も漢字も色々。




 宝暦13年時点の、南部領内に現存していた「ホウリャウ」は、上記のみであり、土渕町ぶんは、やはり、無い。



 区長さんから、鳥居や「藤の木」伐採の逸話をお聞きし、参加者一同、その後の遠野物語を堪能した一時であった。

 ●今日の遠野●



 冬将軍、再到来。



 こんな日に、山に行く仕事の人は大変だと思いながら「用足し」を済ませる。



 山猫氏来遠の折、この荒神(あらがみ)さま別当家の方と偶然にもお話をする機会に恵まれる。



 我が家の庭に咲くこの木の実がなくなると春・・・・まだ実があるようなので、春はまだ先なのかもしれない。




 それにしても予想外の大寒波である。