「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

菅原神社

2009-08-29 16:24:56 | 神社
 話は一週間前にさかのぼる。(大汗)

 

 さかのぼらなければ、このネタがボツになるから・・・・

 関係者の話による本殿建物が移動し、周りの木々もすっきりしたとか。

 

 確かに境内は広くなり、あきらかに明るくなった。柳田が訪れた日は・・・・

 

 などと、考える余裕が出てきたのは、山道で転んでから、しばらくしてからのこと。

 
 100年前のこの日、踊っていたしし踊りが、今も踊られている。

 

 遠野物語には、子供が太刀廻りを演じていた様が記されているが、明治時代のこの地域では、既に、刀掛けの演じ手が子供になっていたことがわかる。

 

 しし踊りのしし頭を被るのも、刀掛けを演じるのも、大人の男衆の役回りだったのが、戦争で演じ手が足りなくなって子供達に変わったのだと聞いたことがあるが、この地域では、その頃には、ししの数も減り、また、他の演じ手も少なくなっていたのかもしれない。

 

 遠野のしし踊りは12匹が基本とされるが、演目では三匹が重要な役回りを演じる。この日の三匹は特別バージョン。

 

 三匹が重要なのは、なぜか?・・・・私は、関東から伝承された三匹獅子舞が、東北のしし踊りのルーツとして深く関わっているからだろうと考えている。
 それにしても、遠野の正統派12匹のみの踊りが観たいものである。

 

 この日奉納されたものに「甚句踊り」があった。演目には建物の上棟式で大工らによって唄われる「地固め節」も披露された。
 これについても、どちらが先だったのか?

 

 難しい話は、少し置いて・・・・地元の子供達が、何百年も前から伝えられる郷土の芸能を今も伝承してくれることに感謝!・・・・たとえ、串団子が目当てであろうと。

 

 さて、さて、この日、注目度№1は、これ。

 いずれ機会を改めて、記したいと思う。

 最後に、入院中の足、本日、延命治療を終えることになりました。

 つきましては、景気が回復するまでは、義足となります。

 大奥の台所事情も厳しいようで、倹約令が・・・・・大涙!

 この話は、ここまでにしとうございます。

災難

2009-08-25 23:07:23 | その他
  天神様の崇りか・・・・

 
 
  稲荷様か・・・・

 

 出勤前の風景にいい日となるはずが・・・・

 

 長年連れ添ってきた愛車が、本日、入院となりました。
 
 

 「カメラなんかで遊んでいる場合じゃないよ!」・・・車より長く連れ添ってきた方の一言

 携帯の通じない場所でのトラブルが、こんなにも大変なものか実感した次第。  

 

樗山を求めて

2009-08-21 00:12:08 | 寺院
 いつもの生活に体調も慣れたところで

 

 とある日のこと、以前行った際、撮った画像があまりにも、ブレブレだったので再度訪問。

 

 案内板にある旧遠野街道のわき道を入った寺小路の先

 

 到岸寺。天保7年に起こった農民一揆の指導者「切牛覚十郎」が眠るお寺さん。

 訳を話して拝観させて頂く。ご住職の話による樗山縁の写真家が、ここを撮りにきたことがあるとのこと。
  
 

 昨年、小山田の樗山直系宅にお邪魔したときに、部屋に飾られていた写真を撮った方だと思われる。

 

 向拝(こうはい)に向かって左

 

 右

 

 そして、本堂内部の欄間・・・枠面からはみ出す構図がすばらしい。

 ここ大迫には、遠野の社寺工舎さんが施工される建物の彫刻を手がけることもある彫師の方が住んでいるとのこと。

 彫刻をする人はどんな心持ちで作品に接し続けるのであろう?

 

 さて、話題は変わるが、今年の元八幡のお祭りはどうなるのだろう? 六角石は?、村兵稲荷は?、達曾部八幡は?・・・9月中旬以降は、例祭が集中。

 勿論、今週末も。

 

 (番外:庭に咲く花っこ)

 

 


 

2009 船っこ流し

2009-08-19 01:02:52 | 民俗
 まずは、15日の遠野納涼花火の翌朝のこと。

 

 今年も遠野中学校の生徒が、朝6時から、花火やゴミの後片付けを行っていた。一市民として感謝申し上げます。

 

 静かに過ごしたお盆の〆は、遠野ブロガー諸氏の顔見たさに、附馬牛へ。

 

 町の雰囲気を味わおうと早々に行った甲斐あって、良いものに遭遇。

 

 上柳しし踊り。かつては、お盆の時期にも踊られていたと知ってはいたが、その雰囲気を味わうことができた。初盆のお宅の位牌誉めなどという演目は、まさにお盆そのものの演目である。似たようなものに小友町長野には、墓に行って太鼓にあわせて供養の歌を捧げる風習があるようだが、宗教行事から発生したものか、しし踊りの演目から発生したのか興味のあるところ。

 

 薄暗くなる頃、上柳のメインストリートには、灯が点けられる。「カンコー学生服」・・・・カンコーが菅原道真の「菅公」からきた事を知ったのは高校を卒業後、しばらくしてから。私が学生服を着ていた時代には、「カンコー学生服」のCMが流れており、まさに、ブランド品であった。・・・・ということを思い出す。

 

 船っこにも灯りが点く頃まで歩き回ったのだが、知人に出会う度に「今日は何っす?」と聞かれ、「観光客!」と云うと、カメラを見つけて「そんな趣味あったのすか?」と突っ込まれ、「見るのが趣味」とも言えず、「まず、まず・・・・」とお茶を濁す。お恥ずかしい限り。

 

 船っこを曳く人たちが出番を待つ。この中にも同級生が二人。「さごみの木さん」は、この役の補助であったとか。近年は、この曳き手が不足しているので、参加者は大歓迎とのことである。

 

 遠野ブロガー諸氏(ゴンゲンさまやKsuzuさん、そして、玉千代さんに豆太郎さん)とそれぞれ挨拶を交わし、その時を待つ。見物人の多さとその賑やかさにビックリ!

 

 カメラの設定が当初考えていたものと合わず、いじくりまわしているうちに終わる。

 

 暗がりの撮影の難しさを今年も、また、繰り返し思い知って終わる。(道具だけではなく、腕っこの問題)

 来年は、規模の小さな光岸寺の船っこ流しを狙おう。

 

2009 お盆 其の参

2009-08-17 21:00:09 | 地域
 お盆の15日、町のお盆を済ませ、留守番部隊、母方、父方の実家へと分担して廻る。で、私は、父方へ。

 

 私が好きなのを知っているので、

 

 そばにある遠野遺産第80号角城舘麓の神社群についての説明書。地域の方々にもっと理解して頂くために配布されたようである。この中で気になる文言は、南部弥六郎義晋の祈願所だったと釜平神社について記されていることで、おそらく、棟札に記されたものだったのだろうが、その実物が見たい衝動にかられる。

 

 話題は角城から山口へと移り、皆で写真展を見に行くことに。

 

 見学に来ていた人たちは、写真に写る風景や人物についての話題で盛り上がっていた。

 これを見ているうちに、あることに気づく。

 

 一如さんに確認したところ、やはり、この日だった。

 

 遠野守大権現例祭。最初に現れた方に事情を話し、あれこれとお聞きする。

 

 本来の別当さんから、地域の方々に管理が委ねられ、詳細は不明ながら、興味深い話として、遠野八十八観音のひとつとしてツアー客が来たのだとか。私は、その八十八観音については聞いたことがない。盛岡の話なのだろうか?
 また、この地域は新山地区であるようだが、この名前の由来についてはわからないとのこと。ここには義経伝説が残っており、この神社の北の方に義経が休んだとされる大きな石があるのだそうだが、今は、木々が生い茂り、わかりづらくなっているとか。

 

 社の中には、ご覧のような小山神社の額と数枚の札があったが、管理されている地域の方々も中のお札については触ったことがないので、遠慮するよう云われる。
 小山については、そう呼んでいる場所があるようだが、この神社との関係はよくわからない様子。小山にあった神社の、もしくは、神格化された小山の里宮としての新山ではないのかとも想像したが、遠野守とはつながらない。当時の知事による銘額があるからには、義経伝説の他に遠野守大権現との明らかな関係があったに違いないのだろうが。
 あまり、しつこく聞くので警戒しだした様子を察し、最後にこの周辺に古くからある家で、三つの苗字を名乗る家はないか集まった方々にお聞きすると、黒川の向こうの手代森というところに、三つのうちのひとつの苗字の家があるという。
 この神社がこの場所にできた時代の最期の別当さんは、残念ながらその三つの方ではないが、もしかすると、元々、小山神社の里宮だったところに、ある事情があって、遠野守大権現も一緒に祀ったのではないだろうか?または、その逆とか。この土地は、遠野守を祀る家がかつて所有していた土地だったとか。
 いずれにしても、遠野権現を祀っていた大徳院に縁の家が遠野を離れたのは明治初期。三戸南部氏が遠野を統治した際に、大徳院本家は盛岡に仕官し、後、その消息は不明となるのだが、三つのうちのひとつの苗字は大徳院が仕官した際に名乗った苗字、そのものである。
 周辺は元々、りんご畑だったところが宅地化された地域であり、遠野の名を冠することに何の疑問も生じないことに驚き感じる。

 

 わずかな収穫ながらも、わざわざ行った甲斐があったことを喜びつつ、山際の旧道を戻ると、法領神社。さらに進むと、

 

 そして、

 

 八月は例祭の季節。そう云えば、山谷観音もこの日だったような・・・後の祭りである。