「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

土室 篠権現

2006-12-31 01:05:47 | 歴史
 遠野物語拾遺56話に登場する社。小黒沢伊豆権現の帰りに立ち寄る。小友町勝跡志増補版及び遠野のお寺とお社の沿革概要によると、葛西の浪士佐々木一族がこの地に非難し、開拓を行い定住(土室開拓の祖)。杉岡如意の戒論により良民となり、正業に就いた際、武器を埋めた地に社を建立し篠権現とする。時に寛永8年(1631){この年は土淵町光岸寺が沢里主膳の開基、常堅寺四世了室全達により開山されている}9月8日。後、正徳3年(1713)につるのない鉄鍋が奉納され、これを被ると疱瘡が早く治ると評判になり、遠方から多数参拝客が訪れたという。

 上記の佐々木一族は当時、山賊化していたもので、杉岡如意の話は寛永4年(1627)5月13日に小友村よりこの年の3月に遠野へ入部した八戸南部氏への訴えによるもの。杉岡氏がこの場面に登場するまでには数々の出来事を経ることになる。が、いずれにしても、彼が佐々木一族を説得したことは間違いない。寛永9年付けの佐々木一族4名連名の文が杉岡家に明治まで残されていたという。その文には、佐々木一族はその後、農業に専念する旨が記されている。
 
 上記は南部氏入部前後の話であるが、当時は既に小友は金山として知られていた地域で、伊達南部の境界争いが続いていた。(寛永19年に境界が定まる)奥州仕置によって遠野へ入ったといわれる人達がかなり居り、佐々木氏も同様なのであろう。そこで、疑問。菊池姓に次ぎ佐々木姓の方も遠野には多数いるわけで、そんなに沢山の人たちが皆移住してきたということなのだろうか?それとも、同姓別一族なのだろうか?小黒沢伊豆権現と来内伊豆権現は古い昔に権力争いをしたことがあるという。両者の間には火石金山があり、後にオソトキや長者伝説が生れる。

 小友の佐々木一族と青笹中妻の佐々木一族、小友の及川氏と中妻観音堂の及川氏。小黒沢と来内の伊豆権現。小友と上郷・青笹は、葛西氏を共通事項としてつながっているのではないか。そのつながりは本当に奥州仕置後なのか?頼朝の平泉征伐後からではないのか?遠野は、阿曾沼氏だけが統治していた地域ではなかったと思うのだが?
 
  今年9月からブログを始め、1週間に1回ぐらいのペースで進めるつもりでいましたが、気まま故、ハイペースになりました。12月まで続けてこれたことが自分自身でも驚きです。「遠野」というキーワードで沢山の方々がホームページなりブログで紹介していることもあり、重複した内容もありますが、新年を迎えても、今まで以上のことはできませんが、続けていければと思っています。
 
 良いお年を!

小友町 伊豆権現

2006-12-29 22:33:01 | その他
 小友町47地割字小黒沢にある伊豆権現。小友町勝跡志増補版には次のように記されている。
 創建は不明。伊豆走湯山関係の修験者がもたらしたものと言われる。(来内、駒木の伊豆権現と流れは一緒と思われる。)享保8年(1723)、寛政12年(1800)、安政5年(1858)に再興。棟札等によると歴代にわたり別当は平兵衛であり、別当小松家の屋号となっている。境内には市指定天然記念物イヌザクラと小黒号馬魂碑(大正元年刻建)がある。
 
 小黒号秘話として、文治5年(1189)源義経が衣川で没落の際、小黒号を放すと生れ里の小黒沢に帰ってきた。年老いて死んだ亡骸を当地に埋葬し、自然石の墓標を建てたが永い年月のうちに場所がわからなくなっていたが、明治23、4年頃畑で馬骨を発見し地域民が金を出し合い碑を建立した。
 
 境内案内板によると、義経が平泉館に身を寄せていた折に小友町小黒沢に黒鹿毛の名馬が生まれ産地に因んで小黒と名付け義経に献上した。しかし、文治年間、衣川の役にて義経没落に際し、小黒を故郷に帰した。村人達は小黒が老死したとき、丁重に埋葬し石塔を建て菩提を弔ったという。以下同じ。

 義経に関わる話は様々な伝説として語り継がれているが、その愛馬にまで諸説あるところが、いかにもである。また、走湯山については後年に郷土史家が付加えたものと推察する。境内案内板には、他に「遠野地方は古来名馬の産地として知られ」という一文があったが、古来とはいつ頃だったのだろう?安倍氏の時代からだったのだろうか?中でも小友町は馬産地とうよりは金山開発の地というイメージが強いのだが。それと、駒形神社等、馬の碑は多く存在するが牛については影が薄い。唯一、上郷町に丑神を祀る神社があるだけかもしれない。(牛と丑では違うか?笑)

上郷 駒形神社

2006-12-28 23:39:50 | 駒形
 上郷町の猫川に架かる赤橋から釜石につながる道路が現在工事中であるが、その橋の南側に駒形神社がある。その取付け道路の脇に取り残されたように、だいぶ疲れた様子の茅葺屋根が見える。源義経が兄頼朝から逃れたコースのひとつ(義経北行伝説)に遠野が含まれる。平泉を脱出した義経主従が、ここまで来た時、愛馬「小黒号」が死んだため、ここに祠を建てて祀ったという伝説の神社である。一行はこの後、慶雲寺隣の風呂家に寄って、お風呂に入るのである。
 
 駒形神社そして蒼前神社どちらも馬を祀る神社であるが、市内にあるものは、駒形神社と呼ばれている。附馬牛、松崎、上組町にもあるが、遠野では現在駒形神社と呼んでいるが、松崎・上組町のは、蒼前と呼んでいたようである。(個人的には南部氏縁の神社が蒼前で、それ以前のものが駒形という感覚をもっていたが、そうでもないような)

 岩手県民間信仰辞典には次のようにある。蒼前とは葦毛四白の馬の意味で、齢8歳に達すると白馬になるといい、霊異ある馬。かつて猿丸太夫と名のる祈祷師が正月中に家々を回り、厩で蒼前を祀って、勝善経を読んだという。この信仰圏が東日本に限るられていることから、日光二荒山の神人によって伝播されたのではと推定される。

 芸能集団、盛岡七軒丁の頭取「御駒太夫」も盛岡青物丁の蒼前神社別当であった。彼らは厩祀りを行なうことも仕事のひとつであり、八戸典屋頭も同様である。両者とも三戸南部の時代には成立していた職能集団であったものと推察されるが、遠野では、どうだったのだろう。「てんや与平次」も同様に厩祀りを行なったのであろうか。この駒形、遠野各村に在ってもおかしくない。先の書によると馬頭観音と駒形との厳密な区別はつかないとのこと。水沢駒形神社の奥宮には馬頭観音があるとのことなので、土淵町の山崎観音も同じグループに入るのか。

 この神社も境内を含め、もう少し手入れをしないと、あっという間に朽ちてしまう。管理者は誰なんだろう?

不思議な世界

2006-12-26 00:19:56 | 歴史
 先週末、かねてより予定していたネズミーランドへ行って来た。宿泊先の申込みが遅れたため都内の普通のホテルとなったが、お台場周辺に立ち寄ることができ、日テレやフジTV、ゆりかもめ、レンボーブリッジと子供達は満足した様子だった。私は、その疲れがまだ続いており、本調子とはいい難い。今年の正月、遠野高校サッカー部の応援に国立競技場に来て以来ということで、江戸で始まり江戸で締めくくる年となった。
 
 今回、丸の内やら最先端のTV局周辺を廻ってみていて、考えさせられることがあった。日本をある意味で先導しているこの人たちは、日本のどこをみて何を伝えようとしているんだろうかと。この国はどこへいこうとしているんだろうかと。
 
 本日の画像は、JR青笹駅から遠野方面へいく最初の踏切から見て南西の田んぼの中にある社(実際には踏切から赤瓦の大きな家の影になるが)。この社の持ち主と思われるのが隣接する丑館家。屋号「ぼー様」。丑館とは菊池成景の館といわれている。このぼー様の家は山伏をしていたと言われ、社はその関わりを示すものであろう。この家の苗字も遠野では1軒のみである。

 私から見る東京も不思議だが、最先端の方々から見る遠野も不思議なのだろう。柳田国男が見た時の遠野と、現在の都会人が見る遠野と、もしかして、そう差異はないのではと感じたりもする。スローライフIN遠野と声高に行政は音頭をとっているが、現状が、まさにスローライフそのもの。下手に、何か仕掛ける必要があるのだろうかと考えさせられたクリスマスともなった。

朝日神子

2006-12-21 23:06:46 | 物語
 地元の郷土史家菊池照雄氏が「山の怪異と伝承」という論文の中に次の話を載せている。

 上郷村の黄金口に長者の家があった。子供は大きくなり夫々独立したが、夫婦は女の子がほしくて3,4歳の子をもらい養女にする。10歳頃の時にこの子が神隠しにあう。この家では死んだものとあきらめ、さびしく暮らしていた。10年程年月がたったある日、美しい娘になりその子がひょっこり帰ってきた。この時には不思議な呪力を身につけ予言、宣託はおそろしく的中した。村人は朝日神子と名付け、精神的な支えにしていた。
 江戸時代、享和か寛政頃らしいが、大雨が降り続き、平野原・平倉の二つの集落のそばを流れていた早瀬川が氾濫し二つの集落が流失するほどの水かさが上がってきた。
 この神子は細越の岩舟とよばれる岩場にたすきの凛々しい姿で立ち呪文を唱えると水はみるみる引き、さらに流れも変わり、今のような水路になった。

 この伝承により明治15年、平野原・平倉の有志により朝日神子の碑が建てられた。画像がその碑でさる。(拙ブログ10/1の石碑群左端)

 この神子の育った平野原の留場(地元では「とば」と読む)という家は今でも栄えている。これには色々な異説があり犬亦家であるとも地元では言っている。

 さて、この文の中の留場であるが、照雄氏の文章では犬亦家と別の家と読み取れる文面となっているが、これが苗字なのか、屋号なのかはっきりしない。先日の上郷村教育誌では屋号「留場」は犬亦家となっているが、その他の家で同じ屋号の家があるのだろうか?ご存知の方は教えて頂きたい。少なくとも、上郷在住の留場を苗字としている方はいないようだ。
 もうひとつ、合併前のJA遠野で有線放送をやっていた時の電話帳をお持ちの方でお譲りできる方があればお知らせ願いたい。私のような者には、時として、とても貴重な資料となる。

 最後に、週末は、家の事情にてブログを見ることができませんので、悪しからず。