「遠野」なんだり・かんだり

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唯是-小原-両川

2009-06-12 22:47:47 | 歴史
拙ブログ4月9日編にて、「小原相改 唯是仁左衛門」をとり上げたのだが、どうも泥沼にはまったようだ。遠野における江戸時代の豪商両川屋は、本姓を「小原」といい、同姓の「小原」から「唯是」となるのだが、小原と両川の関係がどうにもわからない。

  

吉田政吉著「新遠野物語」によると、豪商両川氏が表舞台に登場するのは、元禄末期(1700年頃)で、覚兵衛を代々襲名し、享保年間(1716~1735)がその最盛期だったと云われる。元は侍で秋田浪人とも羽州浪人とも云われ、いつの頃にか遠野に来て、海岸との商売取引をはじめとした五十集物を扱った支那との貿易、呉服、雑貨、米穀、金山、材木等、多角経営をしていたと伝えられる。正徳4年(1714)菩提寺である常福寺に観音・勢至菩薩立像を建立寄進。享保年中(1716~1735)には、下組町西はずれの愛宕神社に延命菩薩坐像を寄進(明治に常福寺に移転)。享保10年(1725)大慈寺に釈迦如来坐像を、また、元文4年(1739)六日町伊勢両宮社・松尾神社を建立、宝暦3年(1753)常福寺の本尊の中に厨子を寄進。というように現在、遠野市の文化財に認定されている多くの宗教遺産を寄進した人物でもある。

 

 (常福寺境内、延命菩薩坐像)

 彼と同様に元侍だったと伝えられる人たちが野に下ったのは秀吉の奥州仕置以後で、遠野においては葛西系家臣だったと伝えられる例が多い。それらの人たちが商売人として頭角を現し始めるのは、仕置から120年もの歳月を経た後のことであり、その間に4、5代は代替わりしたのだろう。
 その両川氏が享保の最盛期を過ごしていた直後に遭遇したのが、宝暦の飢饉(1755~1758)。これによって次第に商売は衰退し、赤羽根屋・村兵といった新たな商人が遠野の町に台頭してくる。明治6年に両川一族の棟梁格であった家(聖光幼稚園付近)の火災により、財産を失った本家筋は遠野から消える。

 
 (移築後の村兵屋敷)

 江戸時代の富裕商人は独自に新田開発をし、それを遠野南部では献上と称して公田とさせることで収益を上げ、代償として士分に取り立てていたようだ。しかし、安政時代(1854~1859)の盛岡藩による検地によってそれも思うようにならなくなる。(この時代の両川氏は52石3斗2升5合)商人達へは、飢饉や幕府からの要請によって様々が献上金が課せられていたようだが、それに応えられた商人も大したものである。現在であれば、公共団体への企業献金や故郷納税などといったところか。ただ、今は、献金したからといって公務員になれるわけではない。
 士分に取り立てられた商人は苗字帯刀が許されたものの、そのまま商売をすることができ、その一族から士分になるものも出たようだ。赤羽根屋こと菅沼氏、村兵(近江屋)こと村上氏などは、どちらも葛西浪人として知られている。
 大飢饉の宝暦5年に、遠野南部公より借上銭を命じられるとともに、毎日雑穀飯を翌年まで提供することで、小原覚兵衛(両川)、小原仁左衛門、村上六郎兵衛は盛岡遠野屋敷に呼ばれ、小原覚兵衛、村上六郎兵衛は諸士格になり、小原仁左衛門は10石2人扶持から45石2人扶持となる。(山奈宗眞文書とのこと)

 
 (両川本家の墓所~一番大きな墓石は遠野南部氏の殿様と同じ大きさであるとのこと)

 ここで、気になるのは、両川氏は本姓小原であると云われ、秋田とも羽州浪人とも伝えられるのだが、宝暦5年に両川覚兵衛が諸士格になる時には、すでに小原仁左衛門は10石2人扶持の家臣であったということにについて。
 この時点で商人である両川覚兵衛並びに村兵と同格の財力を有する家臣として登場しており、果たして小原仁左衛門は何者なのだろう?両川家では代々「覚兵衛」を襲名していたというが、仁左衛門は先代「覚兵衛」の本名で、若隠居後に本名にて武士となったのか?それとも、元は同じ本姓小原である両川氏であったものが、仁左衛門家は早くに分かれて成功を収め家臣格となり、後に覚兵衛家が隆盛し、宝暦5年に諸士格となったのか?はたまた、先に遠野に移り住んでいた両川屋に草鞋を脱いだ小原氏が財力を蓄えると共に先に遠野南部氏に仕官し、両川屋を本家として、一族が次第に流入してきたものか?想像は膨らむ一方である。

 

 常福寺にある両川家の家紋は子持ち亀甲に左二つ巴であるようだが、小原家は以前にも記したように丸に四つ石紋と異なる。小原改め唯是氏は小原氏と同紋である。両川氏は仁左衛門とは異なる小原一族なのだろうか?ただ、武家には元来、表と裏の紋があったことから、その関連はどうなのだろう?以前、東和町の安俵小原一族の菩提寺を訪ねたたことを記したが、藤紋、蔦紋、二つ引両紋と藤原姓・清和源氏姓などの紋となっており、江戸時代に源氏系に改めたとの言い伝え通りの結果となっている。(ちなみに小原樗山家は蔦紋)

 

 小原姓を名乗る盛岡南部家臣を調べると、遠野市立図書館所蔵の南部緒家系図には、小原寛平家と小原良円家があり、前者は花巻給人で1599~1632頃に仕官した和賀郡出身の人物、丸内陰蔦紋。後者は1702~1707頃に御使給仕として召出され、後、御鍼医。四石紋。どちらも花巻に関係した人物である。また、ホームページ「近世こもんじょ館」には、小原春治家があり、こちらも花巻関連の人物。この末裔は、赤羽根番所番人、大槌山奉行を勤めており、遠野とのつながりが感じられる。さらに、小原助司家があり、1725~1752頃に仕官。ここの当主は、代々覚兵衛を名乗る。気がつかれたと思うが、小原覚兵衛→両川覚兵衛・・・面白い組み合わせである。覚兵衛といえば、東和町史には、江戸時代の造り酒屋としてその家の詳細は不明としながら「覚兵衛」なる名前の店があったことが記されている。

 

 最盛期には、遠野から京都まで支店があったと伝説に残る両川屋、現在も遠野、大迫、盛岡にこの姓を見ることができる。

 

 その両川本家のそばには、小原相改「唯是」家の墓所があり、この両者が関連がないようには思えず、両川氏-小原氏-唯是氏は、三家が一体となって菩提寺につくしてきたであろう歴史を感じることができる。

 先が見えないこの関係を頭の片隅に残しつつ、とりあえずの区切りとする。

 覚

小原相改 唯是仁左衛門
右之通家名被
成下候間相改可申末家逸作ハ
小原為名乗候様被仰出


十一月八日
一 本高九拾四石六斗三升

一 八拾壱石八斗壱合
  現米并悪地之分遺地
  新地五拾五石三斗七升  百姓小高別紙有
  都合百五拾石

右者去々年卯ノ秋凶作
ニ付諸民為救之用金申付
候之処時変之通用存金
小原逸作江分地之儀申上
自分共ニ遺志を継申上
候ニ付父祖与段々之以
功逸作江分地願之通
申付候依而百石之軍役
可相勤者也

天明五年
八月朔日 但馬(怡顔)
 


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6 コメント

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はまつた (一如)
2009-06-13 21:50:50
嵌りましたか(笑
オイラも表に出ない歴史に嵌っております(笑
進みません
こうして辻褄を合わせ検証していくのに、沢山のマイナーな書物を開かなくてはいけませんね。
それと、地域の読み物。
意外と地域で出しているものにもヒントがあるようで、それを探すのにも嵌っています(笑

笛吹さんの行動がワタグジの原動力になっています。
ふ え ふ き~~~
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家系 (笛吹)
2009-06-14 21:24:34
  一如さんへ
 今回の三氏については、部外者の私には、これ以上の成果は望めそうもなく、その家系に連なる方々へ委ねたいと思います。
 今回も図書館へ足を運び感じたのですが、遠野史に関わる書物の一覧表があれば便利なのにと。
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両川姓 (アチ)
2016-06-18 21:40:54
自分のルーツを探していたら、このブログにたどり着きましたので、コメント残させていただきます。
私の旧姓も両川です。
釜石市出身なのですが、遠野の両川姓と繋がりがありそうですね。
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両川 (笛吹)
2016-06-18 22:33:28
アチさんへ
コメントありがとうございます。
アチさんは釜石の両川さんとのことですが、ルーツを探す手立ては、
親または祖父の遺産相続(土地・建物の権利関係)の際に、
司法書士さんや土地家屋調査士さんが作成した権利関係書類に、
ルーツに関係する書類が一緒に添付されている例があります。
もし、調べられた折に、遠野に関係ある際は、その旨、また、コメント頂ければ幸いです。
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Unknown (両川)
2017-07-13 08:54:15
はじめまして。
自分の祖先の事が気になり調べていたら
このブログにたどり着きコメント致しました。
覚兵衛はわたしのひいおじいちゃんの名前です。
その写真のお墓もわたしの実家のお墓です。
祖先の事を何も知らなかったので
興味深く読ませていただきました。
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両川 (笛吹)
2017-07-13 09:33:04
両川さんへ
これらに記している両川関連は、図書館等にある郷土資料をこまめに見ると載っているものばかりです。
自分の先祖が資料等に出てくるというのは、なんと素敵なことではないでしょうか。

いつの日にか遠野を離れている同族の方々の中から、
ご自分のルーツを訪ねられる方も出てくるのではと想像しています。
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