先頃、遠野ブロガー諸氏参加による冬の遠野探訪第二節が行なわれた。場所は、遠野七観音のひとつ、土渕町の山崎観音。今回も、地元の地の利を活かしてaboutさん(人呼んで:タヲル君・・・本人の了解は得ていないが・・・いいよね)に段取りをして頂き、観音堂の別当さん立会いのもとでの見学となった。
どこの観音堂も同じなのだが、春からは、ここにも熊が出没するので、この時期でないと。
観音信仰が盛んになったのはいつ頃のことかはわからないが、ここ南部の地では、永正9年(1512)に奥州糠部三十三所巡礼が観光上人という方によって設定されたのが、始まりであるとか。
観音信仰は仏教の盛んな地域で特に人気がある仏で、一心に観音様の御名を唱えるとお祈りする方にふさわしい姿で現れ、その人を救うと云われる。
三十三観音は、その観音様の変化した姿で、その中の七つが代表的な観音様であるとか。(聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、不空羂索観音、准胝観音)
遠野の七観音はどうだろう。十一面観音は4箇所、千手観音が1箇所、勢至観音が1箇所、馬頭観音が1箇所となっている。
ここ山崎観音の本尊は馬頭観音である。寛政13年(1801)に松田理右衛門らによって、七観音に奉納された由緒書「栃内観世音菩薩来由」によると、大同2年(807)に大月山栃内寺として草創され、嘉祥4年(851)慈覚大師が一本の木から七体の観音像を彫刻したもののひとつが安置されたのが、ここであると云う。しかしながら、いつの間にか本尊もお堂も無くなり、おそらく、ここがお堂のあった場所であろうという現在地に百姓らがお堂を建立したのが、元禄14年(1701)のこと。「江戸城内の松の廊下で赤穂藩主浅野長矩が高家肝煎吉良義央に切りつけた」同じ年。
この元禄14年に畠山京命作の聖観音菩薩・薬師如来・虚空菩薩の三枚の板絵が目内六右衛門によって奉納されていることから、百姓らがお堂を建てた時には、この絵が本尊の代わりとして奉られたものと思われる。(畠山氏と目内氏がどのような人物であったのか不明)
その後、廻国の仏師の進めで村内の奥さん方が助成をして建立したのが、白い色をした馬頭観音坐像である。享保5年(1720)。この像の建立には、地元の修験正福院のお内儀の名前もありながら、導師を勤めたのは、良厳院照栄となっている。良厳院は宮代の元八幡宮と現在の八幡宮を司っていた人物であるが、何ゆえ、ここの導師となったのか興味のあるところでもある。
(再建助成の記録額の代官名)
写真には古すぎて文字が写らなかったが、享保17年の御詠歌が奉納されており、そこに六番栃内寺と読み取れていることから、この頃には、七観音信仰が成立していたことがわかる。(寛保8年(1796)田名部海辺三十三番札所でも御詠歌が使用されているようである)
安永2年(1773)現在、本尊として中心に安置している馬頭観音が新たに建立され、導師は五日市の喜楽院と地元の正福院。但し、作者及び願主は不明。
それから27年後の寛政12年(1800)に現在の建物が、御代官(飛内氏、小沼氏)の助成を頂いて再建される。
享保5年に建立されている馬頭観音があるにも関わらず、安永2年に新たな観音様を建立し、観音堂を再建した翌年の寛政13年に先の松田理右衛門らの七観音由来額が奉納されていることから、額の奉納に合わせて様々な動きがあったものではないかと考えられる。
これらの出来事から現在まで、修復をしながら維持している観音堂であるが、この建物内に納められているもので、よく云われのわからない物のひとつが、オカクラ様。
皆で触って真っ黒になっていたものを拭いたら、きれいになったと別当のおばあさんが笑いながら言っていた。
(観音堂そばの稲荷さん)
その他にも、享保14年の虚空菩薩堂・阿弥陀堂・薬師堂の建立棟札や、明和9年の瀧不動堂の棟札、安永8年の神楽宝殿の棟札、文化元年の不動明王造立銘札、文政5年不動尊開眼銘札、文政6年牛頭天王宝殿棟札、弘化4年不動堂再興棟札と近隣にあったであろう様々なお堂の札が、本尊脇に納められていたはず。(全ては時間の都合で確認できなかったので、それはまたの機会に)
寄り道
不明札の中にあった不動明王と関連あるかは調べていないが、新田川向かい沼袋にあるお不動さん。
この地域にはお不動さんが三箇所あり、このいずれかに関係あるものと思われる。また、瀧不動は、琴畑のものか?
さて、この山崎観音堂が本尊馬頭観音と称されるようになったのは、享保からと云われているが、宝暦の「御領分社堂」には観音とのみ記されている。初期の三枚の絵は聖観音・薬師・虚空菩薩であり、これが現在のお堂に最初からあったものかは実際のところ不明である。
聖観音は観音様の筆頭、薬師は山口に薬師堂があり、虚空菩薩は運萬堂を指す。薬師も運萬(うんなんさん)も、ここ土渕で名前が登場するのは宝暦以降のことである。そして、寶領のある山際には、かつてお寺があったとされる場所が2箇所あり、それらとこの山崎観音堂再建との関わりも今となっては不明である。
●おまけ●
遠野ブロガー新年交流会での1コマ。ウラワン王子とえんで大王、そして宮洞将軍、萌え萌えの図。遅まきながら。