「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

2009 冬 お堂巡り 弐

2009-01-31 16:46:35 | 観音
 同行した若い衆に聞くと、七観音に行ったことがない人がほとんどということで、時間の許す範囲で、移動する。

 

 とは云いながら、上郷町平倉観音から小友町山谷観音へ。

 

 「ゆうくん」のブログに刺激されて、遠野の東端から南西端まで、遠野バイパスを経由。

 なんとも、遠回り。

 上郷に比べて雪があった。(今日は、雪降りなので、景色は一変しているのだが)

 

 今回は、観音堂のみならず、廃仏稀釈後に建てられた隣りの八幡様も見学。

 

 冬晴れの小友をあとにする。

山崎観音

2008-02-19 17:36:17 | 観音
  先頃、遠野ブロガー諸氏参加による冬の遠野探訪第二節が行なわれた。場所は、遠野七観音のひとつ、土渕町の山崎観音。今回も、地元の地の利を活かしてaboutさん(人呼んで:タヲル君・・・本人の了解は得ていないが・・・いいよね)に段取りをして頂き、観音堂の別当さん立会いのもとでの見学となった。



 どこの観音堂も同じなのだが、春からは、ここにも熊が出没するので、この時期でないと。



 観音信仰が盛んになったのはいつ頃のことかはわからないが、ここ南部の地では、永正9年(1512)に奥州糠部三十三所巡礼が観光上人という方によって設定されたのが、始まりであるとか。

 観音信仰は仏教の盛んな地域で特に人気がある仏で、一心に観音様の御名を唱えるとお祈りする方にふさわしい姿で現れ、その人を救うと云われる。



 三十三観音は、その観音様の変化した姿で、その中の七つが代表的な観音様であるとか。(聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、不空羂索観音、准胝観音)

 遠野の七観音はどうだろう。十一面観音は4箇所、千手観音が1箇所、勢至観音が1箇所、馬頭観音が1箇所となっている。



 ここ山崎観音の本尊は馬頭観音である。寛政13年(1801)に松田理右衛門らによって、七観音に奉納された由緒書「栃内観世音菩薩来由」によると、大同2年(807)に大月山栃内寺として草創され、嘉祥4年(851)慈覚大師が一本の木から七体の観音像を彫刻したもののひとつが安置されたのが、ここであると云う。しかしながら、いつの間にか本尊もお堂も無くなり、おそらく、ここがお堂のあった場所であろうという現在地に百姓らがお堂を建立したのが、元禄14年(1701)のこと。「江戸城内の松の廊下で赤穂藩主浅野長矩が高家肝煎吉良義央に切りつけた」同じ年。



 この元禄14年に畠山京命作の聖観音菩薩・薬師如来・虚空菩薩の三枚の板絵が目内六右衛門によって奉納されていることから、百姓らがお堂を建てた時には、この絵が本尊の代わりとして奉られたものと思われる。(畠山氏と目内氏がどのような人物であったのか不明)
 その後、廻国の仏師の進めで村内の奥さん方が助成をして建立したのが、白い色をした馬頭観音坐像である。享保5年(1720)。この像の建立には、地元の修験正福院のお内儀の名前もありながら、導師を勤めたのは、良厳院照栄となっている。良厳院は宮代の元八幡宮と現在の八幡宮を司っていた人物であるが、何ゆえ、ここの導師となったのか興味のあるところでもある。


(再建助成の記録額の代官名)

 写真には古すぎて文字が写らなかったが、享保17年の御詠歌が奉納されており、そこに六番栃内寺と読み取れていることから、この頃には、七観音信仰が成立していたことがわかる。(寛保8年(1796)田名部海辺三十三番札所でも御詠歌が使用されているようである)

 安永2年(1773)現在、本尊として中心に安置している馬頭観音が新たに建立され、導師は五日市の喜楽院と地元の正福院。但し、作者及び願主は不明。
 それから27年後の寛政12年(1800)に現在の建物が、御代官(飛内氏、小沼氏)の助成を頂いて再建される。



 享保5年に建立されている馬頭観音があるにも関わらず、安永2年に新たな観音様を建立し、観音堂を再建した翌年の寛政13年に先の松田理右衛門らの七観音由来額が奉納されていることから、額の奉納に合わせて様々な動きがあったものではないかと考えられる。



 これらの出来事から現在まで、修復をしながら維持している観音堂であるが、この建物内に納められているもので、よく云われのわからない物のひとつが、オカクラ様。



 皆で触って真っ黒になっていたものを拭いたら、きれいになったと別当のおばあさんが笑いながら言っていた。


(観音堂そばの稲荷さん)

 その他にも、享保14年の虚空菩薩堂・阿弥陀堂・薬師堂の建立棟札や、明和9年の瀧不動堂の棟札、安永8年の神楽宝殿の棟札、文化元年の不動明王造立銘札、文政5年不動尊開眼銘札、文政6年牛頭天王宝殿棟札、弘化4年不動堂再興棟札と近隣にあったであろう様々なお堂の札が、本尊脇に納められていたはず。(全ては時間の都合で確認できなかったので、それはまたの機会に)



 寄り道




 不明札の中にあった不動明王と関連あるかは調べていないが、新田川向かい沼袋にあるお不動さん。



 この地域にはお不動さんが三箇所あり、このいずれかに関係あるものと思われる。また、瀧不動は、琴畑のものか?

 さて、この山崎観音堂が本尊馬頭観音と称されるようになったのは、享保からと云われているが、宝暦の「御領分社堂」には観音とのみ記されている。初期の三枚の絵は聖観音・薬師・虚空菩薩であり、これが現在のお堂に最初からあったものかは実際のところ不明である。
 聖観音は観音様の筆頭、薬師は山口に薬師堂があり、虚空菩薩は運萬堂を指す。薬師も運萬(うんなんさん)も、ここ土渕で名前が登場するのは宝暦以降のことである。そして、寶領のある山際には、かつてお寺があったとされる場所が2箇所あり、それらとこの山崎観音堂再建との関わりも今となっては不明である。

 ●おまけ●



 遠野ブロガー新年交流会での1コマ。ウラワン王子とえんで大王、そして宮洞将軍、萌え萌えの図。遅まきながら。
 






 

遠野七観音の〆

2006-10-27 01:14:35 | 観音
此処の所、七観音をおってきたが、私なりに年表等を見ていて気づいたこと。古くから慈覚大師に関わる伝説が遠野の寺社にもあり、それらが存亡を繰り返しながら細々と生きながらえていた。しかし、寛永4年(1627)八戸直栄が遠野へ入部以後、何らかの要因によって、焼失されることになり、享保年中(1715)以降に、七観音信仰が起こる。(これは八戸から同道した東善寺が関係していると考えられる)その後、延享元年(1744)頃に、寺社奉行によって、由緒の提出を求められ、同じような由緒書を提出。寛政13年(1801)松田理右衛門らによって由緒や御詠歌を記した額が奉納されたことで、一層、信仰が深まったものと推察される。特にも、元禄から享保年中は、小友や上郷で新たな金山が見つかった時期で、寺社が再建されたり、仏像が安置されたり、しし踊りが盛んになったりと隆盛期だったと思われる。以上が七観音時代の経過となる。(画像は山谷観音にあったノボリだ。夢・宝さがしとある。正に、私にとって歴史ロマンは夢・宝さがしだ。)

遠野七観音巡りの終わりに

2006-10-25 23:21:14 | 観音
観音堂には掲載のようなスタンプがそれぞれ準備されており、自由に使うことができる(但し、御堂が開いている場合)。その他には、御札もあり、志にて頂くことができる。今回の七観音巡りツアーに参加したことで、幸運にも上記の特典を得ることができた。観音遥拝日は、功徳日といって毎月一回ずつあり、その日のうちにお参りをすると50回から3000回もお参りしたことになり、功徳があるという。特に7月10日(陰暦)にお参りすれば、46000日お参りしたくらいのありがたさがあるという。・・とツアーの資料には記されていた。ちなみに現在の太陽暦でいうと8月10日が観音様のご縁日だが、宮守観音のみは8月24日とのこと。
今から15年も前の正月に職場のボス以下職員一同で七観音巡りをしたことがあるが、私以外の人達が風邪をひいてしまい、とんだ正月休みになったことがある。
(観音様だって正月休みの期間だったようだ)。今回は、無事巡ることができ、お願いもし、説明も聞くことができ、最高のツアーとなった。皆さんも、いつか行ってみてください。ご利益があったかどうかは、そのうちに・・・。

遠野七観音七番笹谷観音

2006-10-24 23:52:18 | 観音
とうとう最後の笹谷観音(附馬牛観音 附馬牛山長洞寺)本尊勢至観音立像
「長洞や ささべの里の松風に 萬の罪も 消え失せるかな」
他の観音堂と同様に寛政13年(1801)松田理右衛門らの由緒額には他と同様に大同2年の創建、慈覚大師作の観音の一尊であると記されている。また、近年悔やむべきは、素木の本尊に誤って漆箔を加え古作を損なったとある。(変な話)
伝説として、附馬牛の沢の口には「七井戸」があって七体の仏像をそこで清めた話や、ここで仏像を刻んだ一本の松の木を切り倒した梢が届いた所が松崎という話もある。また、この御堂は長洞という所にあったので長洞寺と称したという説もあるという。(長洞とは上郷の長洞ではないのか?)
ここの境内は他6箇所に比べ、あまりにも狭い。また、御堂も小さい。これも七観音合わせの為の作為を感じる。(あくまでも個人の見解)続きは後日。