松崎町光興寺2地割。遠野バイパスの猿ヶ石川に架かる光興寺橋の西側で、天神団地方面へ行く道沿いから確認できる社。(天神団地の天神の名前は由来は何なんだろう?天神様という社を確認していないのだが・・・)
永久の変により、遠野地頭阿曽沼親綱が永久3年(1115)諏訪湖畔に在陣中、諏訪大明神の夢告により、蛇妖を退治し神剣を賜り、横田鎮護のために南方に祠を建立したのが始まりと伝えられる。その時、湖畔より持ち帰った数十本の五色の楓を祠周辺に植えたのだという。(まつざき歴史ものがたりより){永久の変は承久の変の間違いではないか?}
→承久3年(1221)阿曾沼広綱の子親綱が地頭職となり、安芸国世能庄を与えられている。但し、安芸下向年代不明とのこと。また、安芸国、蓮華寺、鳥籠山城主阿曾沼光綱の祈願所となったのもこの頃という。(遠野と広島県安芸の他、長野県飯田もこの時代あたりに地頭職を得たのだろうか。)
諏訪神社について岩手民間信仰辞典に次のようにある。
長野県諏訪大社といえば、皆さんご存知のとおり。岩手県地方では、主として国土開発、農耕の神として信仰されている。北上市諏訪町の諏訪神社は、大同2年(807)坂上田村麻呂が東夷征討の折、信州諏訪の地から建御名方命を勧請下のが始まりと伝えられている。水にゆかりが深く、日常生活、産業の発展に御神徳があるという。この諏訪大明神の夢告によって、川岸剣舞が始まったという。一方、久慈市長内町の諏訪神社は、文治元年(1189)義経北行伝説にまつわる追討の将、畠山重忠の創始という。
どちらも、伝説の域を脱しない。そのくらい古い時代からの神社だということかもしれない。遠野の諏訪神社の辺りは、バイパスが通るまでは、光興寺周辺の集落の端に位置し、人家の最後尾といった場所であった。かつては、興光寺館がそばにあったことから、それとの関係によるものなのかもしれないが、阿曽沼氏の守護神として信仰されてきたと言われている社である。
永久の変により、遠野地頭阿曽沼親綱が永久3年(1115)諏訪湖畔に在陣中、諏訪大明神の夢告により、蛇妖を退治し神剣を賜り、横田鎮護のために南方に祠を建立したのが始まりと伝えられる。その時、湖畔より持ち帰った数十本の五色の楓を祠周辺に植えたのだという。(まつざき歴史ものがたりより){永久の変は承久の変の間違いではないか?}
→承久3年(1221)阿曾沼広綱の子親綱が地頭職となり、安芸国世能庄を与えられている。但し、安芸下向年代不明とのこと。また、安芸国、蓮華寺、鳥籠山城主阿曾沼光綱の祈願所となったのもこの頃という。(遠野と広島県安芸の他、長野県飯田もこの時代あたりに地頭職を得たのだろうか。)
諏訪神社について岩手民間信仰辞典に次のようにある。
長野県諏訪大社といえば、皆さんご存知のとおり。岩手県地方では、主として国土開発、農耕の神として信仰されている。北上市諏訪町の諏訪神社は、大同2年(807)坂上田村麻呂が東夷征討の折、信州諏訪の地から建御名方命を勧請下のが始まりと伝えられている。水にゆかりが深く、日常生活、産業の発展に御神徳があるという。この諏訪大明神の夢告によって、川岸剣舞が始まったという。一方、久慈市長内町の諏訪神社は、文治元年(1189)義経北行伝説にまつわる追討の将、畠山重忠の創始という。
どちらも、伝説の域を脱しない。そのくらい古い時代からの神社だということかもしれない。遠野の諏訪神社の辺りは、バイパスが通るまでは、光興寺周辺の集落の端に位置し、人家の最後尾といった場所であった。かつては、興光寺館がそばにあったことから、それとの関係によるものなのかもしれないが、阿曽沼氏の守護神として信仰されてきたと言われている社である。