「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

諏訪神社

2007-01-30 23:07:25 | 神社
 松崎町光興寺2地割。遠野バイパスの猿ヶ石川に架かる光興寺橋の西側で、天神団地方面へ行く道沿いから確認できる社。(天神団地の天神の名前は由来は何なんだろう?天神様という社を確認していないのだが・・・)

 永久の変により、遠野地頭阿曽沼親綱が永久3年(1115)諏訪湖畔に在陣中、諏訪大明神の夢告により、蛇妖を退治し神剣を賜り、横田鎮護のために南方に祠を建立したのが始まりと伝えられる。その時、湖畔より持ち帰った数十本の五色の楓を祠周辺に植えたのだという。(まつざき歴史ものがたりより){永久の変は承久の変の間違いではないか?}
 →承久3年(1221)阿曾沼広綱の子親綱が地頭職となり、安芸国世能庄を与えられている。但し、安芸下向年代不明とのこと。また、安芸国、蓮華寺、鳥籠山城主阿曾沼光綱の祈願所となったのもこの頃という。(遠野と広島県安芸の他、長野県飯田もこの時代あたりに地頭職を得たのだろうか。)
 

  諏訪神社について岩手民間信仰辞典に次のようにある。
 長野県諏訪大社といえば、皆さんご存知のとおり。岩手県地方では、主として国土開発、農耕の神として信仰されている。北上市諏訪町の諏訪神社は、大同2年(807)坂上田村麻呂が東夷征討の折、信州諏訪の地から建御名方命を勧請下のが始まりと伝えられている。水にゆかりが深く、日常生活、産業の発展に御神徳があるという。この諏訪大明神の夢告によって、川岸剣舞が始まったという。一方、久慈市長内町の諏訪神社は、文治元年(1189)義経北行伝説にまつわる追討の将、畠山重忠の創始という。

 どちらも、伝説の域を脱しない。そのくらい古い時代からの神社だということかもしれない。遠野の諏訪神社の辺りは、バイパスが通るまでは、光興寺周辺の集落の端に位置し、人家の最後尾といった場所であった。かつては、興光寺館がそばにあったことから、それとの関係によるものなのかもしれないが、阿曽沼氏の守護神として信仰されてきたと言われている社である。

和野愛宕神社

2007-01-28 22:05:26 | 愛宕
 土淵町の小烏瀬川と厚楽川の中州附近が土淵町栃内字和野という。東は、デンデラ野へ、北は川井へ至る道の追分ともなる。この地域の北東に張り出た小高い山が愛宕山。この急崖を登ると山の名前どおりの愛宕神社がある。
 地元の郷土史関係書物でも、社を管理されている方にも、その創建は不明であるという。(南部氏の時代であれば、「○○氏の寄進により」という言われ方をするのだが)この社へ行く途中に巨岩の間から松が生えている「石割松」(個人的な呼び名)があり、その下の岩に、源義経の馬の足跡があると言われている。残念ながら、私には確認できなかった。続石と同様に、この山全体が岩だらけであることから、巨石信仰が早い時代からあったものと考えられているようだ。私もそう思う。
                     

 さて、この愛宕山の北側下方が寺沢と呼ばれる場所であり、古くから寺跡とされている。昭和53年に閉校した土淵小学校山口分校の閉校記念誌には、山口館とこの寺沢との関わり、同様に柏崎館と寺林との関わりについて失われた歴史があるのではという意味の文章がある。和野周辺では、愛宕山の小烏瀬川向かいに角城館があり、その山続きには後に光岸寺が開かれた。では、山口館側には寺は無かったのか?との疑問に対するひとつの見解として愛宕山・寺沢が候補となるのではないか?勿論、現在の光岸寺には比べるべき大きさではなく、七観音堂程度のものであるが。山口修理の存在がこの場所から消えた頃、小烏瀬川東側にあった様々な遺構も消し去られたのでは?(山口ではなく、沢村氏だったのかもしれないが)

 また、地形から見て、象坪山周辺に何かしらの遺構が発見されずに残されているのではないかとの見解があることを記しておく。「だんのはな」の山の先(北西)には、熊野堂があったとされ、(確認していないがあるという)愛宕神社と熊野堂から望む先には 象坪山がある。この山に関わる遺構として、四戸長作の屋敷跡が山の東側にあったとされているが場所はわからない。この和野は私の父の生家のある場所であり、象坪山、愛宕山、だんのはなを何度となく見てきたわけだが、象坪山の東側には現在、住居はないが、子供心に、この日当たりの良い東面に家がないのが不思議に思っていた。(生活用水が無かったからかもしれないが)

中下熊野神社

2007-01-27 00:12:41 | 熊野
  玉千代さんに教えて頂いた遠野物語119の「けんだん」について

 獅子踊り(遠野物語ではこの字を使用)の歌詞の中に次のように載せてある。
   
             ●けんだんほめ●
 一 まゐり来てこのけんだん様を見申せや、御町間中にはたを立前
 一 まいは立前油町
 一 けんだん殿は二かい座敷に昼寝すて、銭を枕に金の手遊
 一 参り来てこの御札を見申せば、おすがいろぢきあるまじき札
 一 高き処は城と申し、ひくき処は城下と申す也
              
                 (地元の私にも理解できない言葉がある。)
 
 まずは、「検断」であるが、藩政時代の遠野六町(六日町、新町、一日市町、穀町、裏町、小友町)には、その自治、収税、検察の権限を持った役職があり、それを検断役所といった。(注釈遠野物語より)

 この歌詞はどこのしし踊りのものなのだろう。佐々木喜善との関係から土淵関係のしし踊りのものなのであろうか?それとも早池峰系のものか?少なくとも柳田が筆写した明治40年頃には、既に100年あまり以前のものだと記述している。(地元遠野では、この歌詞について、どこのものだという話を聞いたことが無い)

 駒木鹿子踊り保存会に伝承されている「鹿踊濫觴巻」には

           ●検断へ歌●
  参り来而是レノ御役所見申セ哉 國ヲ治メル掟御札
  我々ハ今日古里ヲ立チ出テデ 今来而御禮申ス那リ 続く
 
 以上のように歌詞は違うが検断を対象にしたものがある。しかし、「青笹しし踊り」をまとめた本には検断についての歌詞はない。また、綾織や小友系のものも同様。残りの上郷・土淵・早池峰系については活字として世に出ていないので不明である。
 郷土芸能の伝承は口伝えによることが多く、本来の言葉の意味に関わりなく、「訛り」もそのまま伝承される。今回の検断についても、明治後期においては、江戸時代の歌詞が口伝えによって、まだ、伝承されていたであろうことから、地域に関わり無く、広く、検断をモチーフにしたものがあったのかもしれない。

 本日の画像は、そんな「しし踊り」の中でも、現在、わりと勢力的に伝承活動をしている青笹町中下の熊野神社である。
 青笹しし踊り保存会は昭和39年に糠前しし踊り、中下しし踊り、中沢しし踊りが統合してできたもので、(青笹町に、しし踊りが一団体しかないのは、このためである)当時の中下しし踊りの幕には、熊野山という文字が入っており、この神社に由来するしし踊りであることがわかる。

太神楽・鹿踊

2007-01-24 22:16:22 | 郷土芸能
 ここ数日、自分のブログ編集の為のログインができなくなっていたが、問題が解決し、ホッとしている。画像は、茅葺き屋根で有名な、皆さんよくご存知の青笹町中沢のお堂(荒神様)の南東にある社。お堂とSMCの工場との間,道路沿いの林の中にある。今まで何度となく通っている道なのに、こんな社があることに気がつかなかった。最近建替えたばかりの様子。木々の葉がない今の季節だからこその発見。(知らなかったのは、もしかして、私だけ・・・)今でも、こうして信仰している人々がいることに「遠野」を感じる。仕事柄、遠野中を駆け回ることが多いが、未だに名も知らない社がいたるところにある。神々の里とはよく言ったものだ。チェック済みだけで、150社を越えるが、それには、個人住宅敷地内の稲荷様は含まれない。また、宮守ぶんも含まれていない。

  ●検断勤方記●
 江戸時代に遠野南部の検断職の方が書いた職務上の日記なのだが、拾い読みをして目についたことがある。

  神明八幡御祭禮江太神楽相勤候事附り鹿踊之事
 
 神明神輿五町巡行の始まりは宝暦4年(1754)で、3年に一度の巡行で安永4年(1775)までは続けられたが、其の後は、取りやめとなっていた。其の後の飢饉を経て、天明7年(1787)7月には再開し、その行列には、猿田彦、太神楽、花舁、木馬乗、権現舞、神輿、鹿踊等が出てた。・・・

 明和3年(1766)7月の神明の例祭に太神楽をやるように言い、大変な思いをしてお金を準備した。また、9月の八幡様の例祭へは、7月のとおり太神楽、小踊、木馬、花舁が出るので世話をするように申付けた。
   
 前々から上三町(一日市、石町、裏町)の内、太神楽の心得のある者は、若者達にも稽古をするように勤めなさいと言っていたが、遊芸のことなので、若者の為にはならなかった。寛政3年(1791)の年は、裏町の店屋(てんや)与平冶に申付けていたところ、盛岡・花巻の店屋(てんや)共が来て太神楽を演じたのでとても良かった。ただ、子供達の小踊りが無いのが淋しいと感じたので、寛政6年の巡行には、一日市の傳兵衛に申付けて、子供達の小躍等もさせるようになった。
 
 新町、六日町には鹿踊りが古い時代にはあった。町方に鹿踊りの心得のある者がいて興行したが、今は、数ヶ所の村方から踊りの道具を借りたいと願い出る者がいて貸していたが、古くなってきたので新しく上様に下さる様にお願いした。後の者は其々が用意するように申し付けた。・・・

         一部の拾い書きではあるが、遠野祭りの起源に迫る内容である。

この中で注目すべき点として、
 
  1.小踊とは遠野旧事記に出てくるきつねの格好をした児踊りのことではないかと思われること。
  2.鹿踊りが「町方」でも行なわれていて、装束を「在方」に貸していたこと。
  3.南部ばやしが成立していないこと。
  4.太神楽に典屋が関与していたこと。また、典屋と同業の者が、花巻にも居たこと。

 おまけ~この本に、上郷の宮沢家で私塾を開いた水越丹左衛門と同じ苗字の方が載っていた。

 

地之神八幡神社

2007-01-21 10:44:40 | 八幡
 青笹町糠前36地割。河内川沿い、白岩鉄工所の北側川向。

 遠野に8つある八幡(その8つがどれなのか特定できないが)のひとつで先の大戦では、出征前の祈願の方々が訪れたところ。現在の社は昭和13年に建立。この社が再建されたばかりの頃は、地元の青年団によって宵宮が行なわれていた。この社の管理をされているのは、屋号を「別当どん」と称する方である。神社の別名「天照皇大神宮」。

 ここの御神体は「蛇」であるという。(私の天敵)川筋にあることから、蛇が多く生息する場所なのだろう。
 
 蛇といえば、「宝領権現」の御神体。

 「ホウリョウ権現も遠野郷には多く候 此神の神体は蛇にて候 或は此神の権現は蛇体なりとも申候にや ホウリョウの社には必ず藤を裁ゑあり候 これは藤の他の木に絡りたる様が蛇に似たる故と存じ候 里人は此社の附近にては決して蛇を殺さぬやうと相戒めをり候 ホーリヤウ神は土淵村だけにても四ヶ所ばかり有之候 又明神と言ふ社も此地方にては蛇を神使として居るものの如く申しをり候」:石上問答より


 蛇つながりのホウリョウ神だが、土淵にも4ヶ所あるというが、どこなのか私は知らない。また、この社がいつから祀られ、何故廃れたのかも。県内には、同じ読みをする場所があるが、その発生については不明。ちなみに、広辞苑によると、際限、襟の様式、堂上家の家領以外の知行、草などが蔓延する場所、仏像の寸法。などとある。古日本語(アイヌ語)から来た読みなのだろうか?