「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

畑中氏と大徳院

2008-03-20 23:36:34 | 修験
  ●盛岡藩雑書●

明暦2年(1656)1月14日小雪暮より雨
 八戸御蔵、承応3年分御勘定目録、明暦元年7月4日付、右御勘定衆上ル、
 有米119石6斗5舛、籾489石4斗4舛4夕、大豆296石7斗8舛2号8夕、
 粟5斗8舛、御蔵奉行高橋孫兵衛、畑中久右衛門

寛文3年(1663)1月29日 曇
 江戸両御屋敷御役人之内、三月朔日替候衆今日申渡候事。
上御台所新渡戸左五衛門代ニ達曾部茂右衛門、
下御台所米内孫右衛門代ニ岩根又兵衛、同川井運助代ニ畑中久右衛門、
御中屋敷御台所田頭多左衛門代ニ渋民大兵衛、
御菜園奉行沼里十兵衛代ニ下斗米平右衛門、
御肴奉行石亀権左衛門代ニ本宿弥平衛、
右六人当月半時分 爰元発足罷上候様ニ今申渡之。

 という一節がある。

 この中で、遠野・宮守に関わりありそうな人物は、達曾部氏、畑中氏、本宿氏。 中でも、畑中氏と本宿氏については、天正18年(1590)秀吉の奥州仕置によって旧葛西領から遠野に仕官してきた者達と思われる。また、大阪夏の陣(1615)にて北十左衛門が豊臣方に組して罰せられた時、同じように罰せられた遠野の平清水氏は上記3人と同様に、江戸藩邸勤務であった。
 何故に、この時代、三戸本藩縁故の者ではなく、遠野縁の人達が江戸勤務となりえたのか興味深い。

 


  ●参考諸家系図●

 畑中氏 本名菊池 (断絶) 姓「平」或「藤原」 紋鷹羽本揃

 菊池采女 先祖菊池何某ヨリ代々陸奥気仙郡菊田村ニ住ス。采女菊田ニ死ス。
この采女の娘は、大槌孫八郎家政の三男を養子として嫁ぐ。菊池治郎介と称し、天正18年流浪シテ閉伊郡ニ来テ遠野ニ住ス。遠野孫三郎廣郷ノ家臣トナル(一説ではこの時初めて遠野へ来る)畑中館ニ住シテ氏トス。慶長5年(1600)利直公ニ召抱ヘラレ畑中ニ百石一円を賜フ。
 其の後、内膳、久左衛門、傳十郎と続き、傳十郎の時、八戸弥六郎遠野移封により盛岡へ移る。志和郡飯岡村ニ新田16石を賜フ。以前のものと合わせて60石。その次が畑中久右衛門。その後の3代にて断絶。

 この人が、上記の雑記に登場する人物ということになる。




  ●両派由緒書上帳●

 大徳院

 初代祝部~慶安年中(1648~1651)まで祝部といい、伊勢・熊野・加茂三社の別当。熊野・加茂両社へ95石、伊勢へ30石、遠野領主阿波守寄進。これまで俗形で畑中にて年行事を勤める。南部氏が盛岡築城に当って祝部は、畑中久右衛門と称して南部氏に仕官盛岡に移住。
 二代大徳院清慶~祝部従弟。俗名与右衛門と称し祝部の坊跡をたて本寺に登る。寛文13年(1673)3月没。
 三代大徳院慶言~清慶の実子。慶言若年につき同行和光院名代で上京年行事相続。慶言貞享4年(1687)8月上京し大徳院慶言と官名。病身で隠居の所、享保3年(1718)正月10日没。
 四代大徳院慶辨~慶言実子。正徳3年(1713)7月上京し年行事継目。享保16年(1731)正月26日加茂社へ6斗5升八戸弥六郎信有寄附。同年5月26日没。男子なく女子に聟養子とる。
 五代大徳院慶明~六日町金剛院孫の玉之助、慶辨の聟養子となる。延享元年(1744)5月27日上京年行事継目相続。




  ●大徳院について森毅氏の考察●

 大徳院の先代は領主阿波守の代から伊勢・熊野・加茂三社の別当を司り、遠野畑中に居住して慶安期が過ぎて大徳院を名乗ったものである。系譜初代の祝部以前については「書上帳」には「年代遠く由緒相知不申」とか「其以前は一切不存候」とあって不明であるものの、二代清慶の代に年行事職を宛行われたことが知られ、それは承応(1652)から寛文(1673)年間のことと推察される。また、寛永17年(1640)8月11日の施主源直栄による加茂大明神の棟札と寛文13年(1637)9月29日の熊野大権現棟札に大徳院名が記されている。

(ちなみに、大徳院と遠野羽黒派修験者との霞場・檀那場争いは、四代大徳院慶辨の時代のことであり、八幡別当良厳院とも熾烈な論争を繰り広げている。)

 


  ●御領分社堂●宝暦10年(1760)編

 一、遠野権現 二間四面萱葺き 別当 大徳院
 一、賀茂明神 五尺四方板葺き
        縁起御座候、社領6斗5升八戸弥六郎寄附
 一、稲荷大明神 一間四面板葺き
 一、松尾明神 一間半四面萱葺き
 一、三日月堂 二尺四方板葺き

 とあり、三代大徳院慶言に同行した和光院は、上記の書では神明宮の別当和光坊と載ってあり、その直系先祖と推察される。




  ●遠野物語拾遺第64話●

 愛宕様は火防の神様だそうで、その氏子であった下通町辺では、5,60年の間火事というものを知らなかった。ある時、某家で失火があった時、同所神明の大徳院の和尚が出て来て、手桶お水を小さな杓で汲んで掛け、町内の者が駆けつけた時にはすでに火が消えていた。翌朝火元の家の者大徳院に来たり。昨夜は和尚さんのお陰で大事に至らず、まことにありがたいと礼を述べると、寺では誰一人そんな事は知らなかった。それで、愛宕様が和尚の姿になって、助けに来て下さったということがわかったそうな。

 
 3代目大徳院以後に和光院・金剛院が大徳院と関係をもつようになり、大徳院の名前を利用して遠野の修験者に大きな影響を与えたものと推測できるが、遠野郷八幡宮創建八百年誌によると、明治の早い時期に大徳院は遠野を去り、系譜その他は伝わっていないとある。また、江戸末期の大徳院は六日町神明社の境内の別当寺に住んでいたというが、拾遺によって証明される。

 ちなみに加茂神社は、大徳院以前は若宮八幡・本宮八幡・諏訪明神の別当であった良厳院が司っていたものと伝えられる。


 

   ●まつざき歴史がたりに「大徳院土蔵床下の銭」●

 昭和9年に松崎3区の共同作業所を高場に建設するに際し、畑中の菊池何某氏の土蔵を移築。その解体作業中に床下から百文づつワラに通した一文銭がカマスで二つ発見され、その古銭を売って建設資金の足しにした。昔、この菊池何某氏の家は代々大徳院といって遠野地方きっての修験者であった。とある。

 まつざき歴史がたりに登場する畑中の菊池何某氏とは現在のどのお宅を指すのか、私の最大の関心事である。


 畑中氏は、後年、故あって家名断絶となっており、家臣から浪人となり、その後、帰農したのではないかと考えられる。

 以前、一如さんが盛岡の遠野大権現をエントリーしていたのだが、それが、明治期に遠野を離れた最後の大徳院か、畑中氏に関わるものではないかと密かに考えている。遠野権現を司っていたのは、畑中氏=大徳院以外に今のところ考えられないのだが。


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