「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

傳勝寺 其の弐

2007-12-24 11:04:34 | 修験
  田中喜多美氏の「岩手山の信仰と修験」によると、
 
  
 慶長8年(1603)10月、盛岡城主南部利直より、繋温泉の湯別当安楽坊に手作地給与の黒印状が与えられ、2日後の10月20日に、滴石村西根、大宮社の岩鷲山禰宜に手作地44石5斗1升を祈念として与えられている。この文章が岩手山関係文書の最古のものだと云われる。

 岩手山は、南部領となってから岩鷲山と呼びぶようになり、山頂の祠の辺りを御殿として崇め、南方雫石口、東方厨川口、北方平舘口の三つの登山口から成っていた。この中のひとつである滴石口の禰宜だった家には、延享2年(1745)「神社仏閣由緒書上扣」があり、これには「神主を修験道に改めたのは6代宗覚院の時で、公儀より停止を仰せ付けられて改めた。」とある。寛永10年(1633)~20年頃、南部重直が藩内の改宗を強要した時期でもある。


(雪の岩手山)

 この神社の棟札には、享禄3年(1530)、「大宮社再興 大僧都 平政久 大工 出羽住人 聖 小工 丹後 越前」とあり、南部氏が滴石攻略以前のものである。同由緒書上には、田村将軍と野気王子の像が祀られていたとある。
 これらのことから、(源氏)南部氏以前は、平姓の人物がここを治めており、羽黒系の修験が関わりをもち、神職によって祭祀された神社であったことがわかる。では、この時の治世者は誰か?南部氏以前、この地には戸沢氏がおり、南部氏との抗争で破れた後、出羽へ行き、角館城主→新庄城主→子爵となったことが新井白石の書物で確認できるという。戸沢氏は平氏である。


(遠野鍋倉本丸を望む)

 南部利直の跡を継いだ南部山城守重直は、寛永10年(1633)に国元入りをする。その際に同行したのは、愛妾御勝殿と羽黒修験高海上人であった。御勝殿は京都の生まれで仏教に帰依された人物で、高海上人は羽黒派江戸十人衆のひとりと称された人物であり、岩鷲山の別当職と300石を口約されて付いて来たとされている。
 この高海上人は、繋温泉湯守別当を羽黒派の大勝寺開山に仕立て、その寺は以降羽黒派修験が世襲することになる。大勝寺100石、湯守別当13石を給与される。この寺は、慶応4年(1868)まで継承され、末寺のひとつに遠野横田村の傳勝寺がある。
 南部利直代には、本山派であったものが、重直代に羽黒派になり、領内では争論となったことが伝えられている。


(遠野三ヶ寺跡を望む)

 世に云う盛岡五山は、永福寺800石、聖寿寺500石、高源寺450石、報恩寺180石、東禅寺200石であり、流石に藩主お声掛かりの大勝寺といえども、300石の口約どおりにはならなかった。ちなみに、遠野妙泉寺は200石であり、いかに、早池峰山妙泉寺を重要視していたかがわかる。また、寛永20年頃の大勝寺4世養海上人は永福寺や出羽湯殿山大日坊で修行した人物でもあり、先の大宮社の宗覚院を盛んに羽黒派に引き入れようとした急先鋒でもある。


(鍋倉さんへの登城口)

 岩手県は、源氏一族以前より、天台信仰が布教されてきたのが、平泉藤原氏の代には白山や出羽三山信仰も広まり、戦国時代までに仏教各宗派が成立する。また、南部氏は日蓮宗創立に深い関わりをもつ一族であったが、陸奥に定着するに至り、その時代〃の宗教を取り入れながら命脈を保ち、本山派修験の元に治世を行なってきた。今回のように一時的には、派黒派の勢力が盛り返した時期もあったということになる。
 県内でも、羽黒派と本山派が勢力争いをした時期があり、遠野においても、本山派大徳院と羽黒派慈聖院・善行院が対立した歴史がある。また、早池峰山妙泉寺の本末争いにおける神職と修験僧との関係も、岩手山の宗覚院と大勝寺との関係も類似している。


(雪の薬師)


  最後に、遠野の大日さんについて

 遠野南部直栄が善応寺の快盛和尚に、出羽湯殿山へのご祈祷を仰せ付けたところ、願いが叶ったので、寛永21年(1644)10月に湯殿山への社領として20石を善応寺に寄進し、毎年代参させる。貞享2年(1685)遠野南部義長が、大日如来の社を造営し、代参を止める。また、遠野南部義論の代に拝殿を造り、元禄初期より、3月6日からの3日間祭りを行なった。しかし、義論亡き後は中断し、利戯代の宝永3年(1706)から毎年3月15日を祭日と定める。そして、明治の神仏分離令により、大日堂は日枝神社として改め、旧6月1日を祭日とする。


(雪の大日さん)

 

 寛永年間の盛岡南部氏による改宗政策の時期に、ここ遠野では、それに呼応するように、善応寺を介して湯殿山の参詣が行なわれ、その結果として、現在の大日さんが残る。
 この政策の当初は、傳勝寺が遠野の羽黒政策を担っていたのであろうが、阿曽沼関係一族によって長く治められてきた土地柄から、南部氏の一声で全てが収まる地域ではなく、阿曽沼氏縁の社寺を活かしながら、統治した様子を垣間見ることができる。

  ●おまけ●


(雪の中村のお堂)


(とらねこ氏と八戸藤九郎さんとの中沢館跡探訪)


(嫁さんの仕事の都合により一足早い我が家のクリスマス)


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4 コメント

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豪勢 (とらねこ)
2007-12-24 14:51:40
気合がはいっている料理の数々・・・笑・・・蟹をみただけで妙に高級に感じてしまうのは私だけでしょうか?・・・笑


本文のその弐の方は、また跡で・・・・汗
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カニ (笛吹童子)
2007-12-24 22:44:53
  とらねこさんへ:
 はい!カニを写したいだけでした。笑
館探訪、御苦労様でした。最初の花館がきつかっただけに、今回は、もうひとついけそうな耐力的余力を感じました。次回もよろしく!
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カニは余分でしょう(^-^)/ (えんでじょうんず)
2007-12-24 23:06:45
こっちも、ごっつおーだぁ~
ごっくん!!!
手巻き寿司がこちらのポイントかな?
でも手前のタラバが・・・・・・・う”~~~~~
うまそうでござんす(-_☆)
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メイン (笛吹童子)
2007-12-25 13:11:46
  えんでじょうんずさんへ:
 しかし良く見てるねえ~。
イヴ前日とあって、ケーキは食べたものの、もも肉は、イヴ当日となりました。結果、クリスマスを2度やったことになります。・・・ならないか?・・・・アルコールとつまみになるものがあれば、私はいつもクリスマス気分?→あんた、いつまで、飲んでるの!
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