「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

はかだち

2009-10-31 23:15:25 | 景色

早起きをした日の出勤前の遠野の風景から

人の姿もない頃合を見計らって

 

残念ながら、きゅうりを持っていなかったのでかっぱを見ることはできない

 

常堅寺山門から

 

早採り野菜の収穫

 

踊鹿の百専右衛門勧請稲荷

 

野田の稲荷

おそまつでした!

  


福泉寺と匠

2009-10-29 17:31:00 | 寺院

昨日、福泉寺にて遠野の匠「菊池恭二」氏からお話を伺う機会に恵まれる。

 

岩手県内からも社寺建築に興味のある方々が参加。

 

ご存知のとおり、気さくな人柄で、難しい話をわかり易く解説して頂く

 

左が福泉寺多宝塔、右二つが池上本門寺五重塔

 

 多宝塔は、氏が、奈良の薬師寺を手掛けていた日本を代表する西岡棟梁に師事していた25歳の時に依頼された作品。社寺建築の中でも、最も難しい建築物とされ、全国的にもその数は少ない。

 一方の五重塔は、H9~H13年にかけて、解体修理された江戸時代初期のもの。ちなみに日本一高層の五重塔は、京都東寺の五重塔で、約55m。

 五重塔の中心には芯柱があるのは、皆さんご存知のこととは思うが、その柱がてっぺんの相輪(そうりん)と呼ばれる屋根の上に立つ金属製の棟飾りまで延びていることを知っているだろうか?

 私?、もちろん、・・・・・

 五重塔の芯柱が各層の屋根を支えていて、その柱があるから地震に強いと思われているが、実は、その柱には、屋根を支える材料が一切つながっていないことを知っているだろうか?

 私?もちろん、・・・・・

 

 

大阪のこうちゃんと訪れた時には、満開間近だった紅葉もあと少しで終わりそう

 

五重塔には、芯柱が地面に接しているものと途中で止まって宙に浮いているものとがあることも

今回ご教示頂き、外観からは想像もできない内部構造の詳細を知る。

 

赤や黄色の絨毯が美しい福泉寺

 

池上本門寺の五重塔を担当したのは、幕府の御大工「鈴木近江守長次」27歳。

既に「とうが立った」私は、これから先、何を目指す?

 

君が見つめる先に明るい未来はあるか?

 

念ずれば叶う・・・・地元で頑張る若き?家大工さんが教えてくれた言葉

 

(とらねこさんの裏庭)

 

念じる前に、差し迫った仕事を片付けなければ・・・・・・・涙 


藤原春明

2009-10-26 17:50:27 | 神社

 

 あれやこれや仕事の期限に迫られる中、日曜の朝6時からの地区小学生の食育活動へ参加。地区内にお借りした畑のサツマイモの収穫作業。とは言っても、ウネ2列ほどのわずかな量ながら、大きなイモをめあてに子供達は必至だった。

 

この日も誰か高清水に昇っているだろうなあ・・・などと思いながら八幡・六角牛を望む

 

 そして、日曜にも関わらず出勤。午後に必要となる書類の整備。思ったより順調に進み、目途がたったところで、一点突破を試みる。

 

来内の伊豆神社の例祭

 

 ここは、その日にならないと例祭なのかどうか判断しかねる不思議な神社。また、どれだけの人が集まるかも年によって違う。10時を過ぎた頃から、ぽつりぽつりとお参りの方が訪れる。

 

地区内の役員の方々が揃うと大出早池峰神楽で神事が始まる。

 

 なんでも、大出早池峰神楽がここに呼ばれるようになったのは、昨年の1200年祭からのことだとか。この神社にある御神体としての獅子頭が、市指定文化財となっているが、神楽が行なわれなくなったのは、かなり昔のことのようである。

 

 昨年もとり上げた田植踊り・・・・田植踊りは小正月のみに行なわれた芸能で、八幡さまの祭りには出なかったため、住田町から伝えられた剣舞(古老曰く、ケンベイ)で、八幡さまに参加したのだという。遠野旧事記にあるように上郷には古くから剣舞が伊達領から伝えられていたが、長くは伝承されなかったようである。

 

前回気になっていたもの・・・及川藤原春明の書作の「伊豆権現」掲額

青笹町中妻にある観音堂(遠野遺産11号)にも記されている藤原春明銘

 

やっとわかりました!

 

 青笹町中沢にある六神石神社を司っている千葉氏(市指定有形文化財となっている蚕祭文を所有している)が記した「六角牛山伏について」によると

 千葉氏の先祖、千葉豊後は42歳になるまで子供が無かったが、羽黒権現に請願して生まれたのが俗名武松こと連花坊清秀で、その後、連綿と続く修羽黒派験の家である。

 

その千葉氏の分家が、護法院こと藤原春明。護法院は後に坊名、両覚坊として続く。

 

伊豆権現と中妻観音堂の額は、この護法院が記したものである。

 

 ここで、新たに気になるのは、千葉氏の分家が藤原氏であること。その藤原氏は、東山沖田鳥海村川又城主及川長門守を祖としており、後に伊勢流神官として身を立てている。

 ということは、本家千葉氏もまた、東山周辺から移ってきたということなのだろうか?千葉氏も及川氏も奥州仕置によって滅びた一族であり、常堅寺に眠る大原氏も同様である。

 千葉氏連殊院は無禄の修験であったことが、両派初代由緒書上帳によって確認でき、愛宕を司っていたことになっている。中沢には、深山八幡の山上に愛宕神社があるが、ここのことではなかったのか?

 深山(新山)八幡は八戸信彦家臣中舘勘兵衛によって社領6斗を賜り、この地域の有力な修験として存在していたが、廃仏毀釈後、六神石神社が正式に登録されると、その様子は一変し、現在に至るのである。

青笹町中沢に登場する中舘氏も、伊豆権現と無縁ではない。

 

 この神社の外壁には、数々の工事関係によって寄附をした方々の名前が墨書されているが、その中に盛岡や埼玉在住の中舘氏の名前が見え、昨年、このことを例祭出席者にお伺いした際に、かつて、来内は、中舘氏の知行地のひとつだったと教えられていた。

 今回、この神社の総代のお一人とお話をする機会があり、そのことを訪ねると、この中舘氏は、元々は附馬牛に居た人たちであるとのこと。大萩の常福院には向い鶴紋の中舘氏が眠っているが、この関係者と思われる。遠野南部こと八戸弥六郎の家老格「中舘氏」とこれらの方々との関係はどうなのだろう?そして、どうして、附馬牛住となっていたのだろう?

 またまた、興味の種が増えた。

 

 そして、この日の午後一番

 

 蔵の道ギャラリーへ。週末遠野に現れた巴里帰りの玉千代さんの写真が採用されたポスターを拝見。キャッチコピーとともに眺めると、地元民には想像できない世界がそこには在った。「すばらしい!」

 

hanaさんのデジブックもそうであるが、遠野ブレンド諸氏がメジャーになる様を見ると、素直にうれしいものである。


遠野・風景

2009-10-23 19:57:20 | 景色

立ち寄った先で

 

野田の稲荷・・・・人さまが展望台にいる頃

 

薬師岳より流るる又一の滝を模した?

 

トオヌップに数ある社

 

シーズンオフ間近の曲がり家の秋

 

新屋敷丁の午後

 

常堅寺を望む夕暮れ

 

本日は、これまで!

明日は、末娘、小学校最後の学習発表会

晴れとの予報から、高清水展望台は暗いうちから混み合いそうな気配

わかっていても行けない、もどかしさはあるが、親の務め優先カナ・・・・

 


2009 重端渓

2009-10-20 23:51:27 | 景色

 今日の午後のこと。

小雨の中仕事で小出に向かったが、重端渓周辺がすごいことになっていた。

 

天気が悪く、画像では伝えられそうも無いが、山の彩がいっせいに変わっていた。

 

数日前より、どれもが濃い彩あい

 

やはり、実物とは彩が違う・・・・

 

むせ返るほど・・・・

 

これで、気温が下がり、青空が覗けば、間違いなく最高の状態

 

時間と機会のある方は、だまされたと思って?行って見ては?

 

用事が済んだ帰り、丸渕君を過ぎた辺りから、

 

また、虹

 

季節の変化も楽しみたいと思いながらも、仕事が立て込んできたこの時期、

120%で頑張るしかないか・・・・