「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

程洞稲荷神社

2007-07-12 12:39:44 | 稲荷
  ●程洞稲荷神社●
 去る7月8日(日)、遠野市遠野町程洞にあるこの神社の例大祭に行った。愛宕神社は綾織町新里に、卯子酉神社は程洞と、その所在地が微妙に異なる。入口前には案内板があり、宮氏縁の神社であることが記されている。


 11時から始まることを事前に入手していたが、既に道路に人影もなく、十台前後の車が。一人で登るしかない。急な山道を汗をかき、息を切って登ると大工町「太神楽」の人達に出会う。



10分以上もかけて登ると、稲荷大明神の幟が見え始め、やがて本殿。その手前、左側には金華山の石碑がある。



 この季節故に、あたり一面が緑に覆われている。最後の石段を登ると平場の境内へとたどり着く。



 若干、神事には時間があるため、内部を見せて頂く。名梨さんのお仕事前に権現様を確認。



神事



 本殿の扉も開いている。



 妻面からの様子。熊除けのために、金網が張ってある。



 本殿は、流れ造り(本家、賀茂神社に由来)で彫刻もあり、しっかりした造り。宮大工の手によるものと推察。いつ再建された建物かは不明。



 順序は前後するが、神事前に太神楽の奉納。この太神楽が毎年奉納されている訳でもないとのこと。何年か前には附馬牛の小倉神楽が奉納されていたとか。
 
 社殿の裏側に廻ると、山宝神が祀られている。



 今回の収穫のひとつ。もうひとつあるという神様を名梨さん他数名の方々と見学に向かう。



 とても一人では行けそうもない山の中へ。案内人がいてこそたどり着くことができる神様。「高早大明神」。華厳院縁の方のお宅には、この高早大明神に関係する古文書があるという話を名梨さんからお聞きする。どのようなイワレがあるものなのか興味を覚える。



 稲荷大明神銘のある鳥居の先には、「高早大明神」



 巨岩を御神体としている様子。また、辺りには、沢水があることから、ここを水源として祀ったことも考えられる。程洞稲荷本殿の下段にも手水鉢が置かれ、涼をとることができる。



 この神社でもうひとつ興味深いこと。熊野那智大社の御神符。奉納者は、程洞稲荷創建に関わる宮氏。
 登り口の案内板には明和2年(1365)と記されているが、明和2年は1765年、1365年なら南朝の正平20年となる。おそらく、明和2年のほうが正解なのだろうが。この明和2年、笹谷観音や平倉観音が修復、再建された頃で、宇夫方広隆が遠野旧事記を書いた7年後のこと。
 何故に、伏見稲荷ではなく熊野なの?宮氏と熊野との関わりは?

 さて、この宮氏。この宮氏関連の詳細はこちら
 宮氏は倉堀姓だった?そして、阿曽沼最後の領主広長の弟が改姓して倉堀氏になった?阿曽沼氏は、その有力家臣や南部氏によって遠野を追われ、その家臣団は、遠野から出ていくように云われ、次々と去って行った。残ったのは、老人など出るに出られない事情のある人達だったと理解している。にも関わらず、時の領主の弟が南部氏の配下となるとは・・・。
 
 空想:阿曽沼一族は、家臣団のみならず、兄弟も意見がわかれ、兄に従った者が遠野から追放されたのだろうか?それとも、宮氏は弟ではなかったのか?

 倉堀氏が氏神としたのが倉堀神社で、これが有名な卯子酉神社となる。



 遠野物語拾遺に登場する宮氏と倉堀氏の話の舞台のひとつがこの場所になり、この卯子酉さんの後方、山中にあるのが程洞さん。どちらも同一一族にまつわる神社ということか?今の私にはすっきりした形で理解できない。

 いつもの参考図書には、横田村、程洞稲荷、善行院。とある。(倉堀神社及び卯子酉さんについては記述なし)江戸時代の弘化・嘉永年間(1840、50年代)には、鱒沢の羽黒派頭巾頭である善行院の霞場だったことがわかる。鱒沢は、阿曽沼広長追放急先鋒だった左馬之助広勝の本拠地でその鱒沢氏の菩提寺を預かっていたのが善行院。左馬之助は阿曽沼広長の叔父だったといわれる。(遠野最大のクーデターを起こしたのは小友金山縁の人々で、小友・鱒沢・綾織の連合軍。阿曽沼氏はこれらの地域を掌握できていなかったのではないだろうか?少なくとも秀氏以降は。)
 やはり、空想に近い状況だったのだろうか?



 神事終了後の直会は、下組町の消防・コミニティーセンターにて行なわれ、部外者の私は、太神楽見たさに同行。稲荷さんの鳥居と熊野さんのやたがらすをモチーフとした半纏を観ながら、空想にふける。

 日曜日から今日までの天気と同様にすっきりしない気分のままでとりあえず書き込む。ひとつ、ひとつに興味深々の私には、あまりにも収穫の多い程洞参詣であった。

 


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32 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
八咫ガラス (名梨)
2007-07-13 20:03:07
 先日はご苦労様でした。
 言い伝えによると、八咫カラスが熊野に行く途中ここ程洞に降り立ち水を飲んで飛び去った場所なそうで、稲荷社なのに社紋に「八咫ガラス」の使用が認められているそうです。
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八咫カラス (笛吹童子)
2007-07-13 22:03:55
  名梨さん:
 先日は、ありがとうございました。なかなか、文章がまとまらず時間ばかりが過ぎました。八咫カラスの話、面白いですね。元は熊野さんだった社が、当時、盛んに建立された稲荷さんに変貌をとげたりして・・・・。江戸時代後期のこの神社に関わる棟札などがあればよいのですが。
 また、突然、どこかの例祭に出没するかもしれませんが、よろしくお願いします。笑!
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謎の鳥居! (タマ千代)
2007-07-13 22:45:38
程洞神社の山道、草茫々の急斜面という印象が今でも残っています。
行ったのは一度だけでしたが、藪藪がちょっと・・・
今は違う意味で警戒した方がいい場所かなっ・・・と。

んでは、高早大明神~はそこから遠からずってとこですね。
でも、あの界隈の鬱蒼とした森を思い出すと、確かに一人で行くのは躊躇します。
それにしても、ドナタカの写真では鳥居が妙~にちっさく見えてフシギだった・・・・


大作、おちかれさまでしたー

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遠い遠い (笛吹童子)
2007-07-13 23:47:38
  タマ千代さん:
 高早大明神は、近くはないですよ~。二人でもいけません。もう一度と云われても、行く自信なし。
 高早の文字~高清水・早池峰を想像するも根拠なし。涙!
 今週は、どうも、もやっとした文面で・・・。
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古文書 (名梨 再)
2007-07-14 06:37:20
 おはようございます。
 例の古文書、数年前デジッていたものを昨晩やっと見つけましたのでお見せいたします。暇を見て出はってらっしゃい。
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古文書 (笛吹童子)
2007-07-14 17:24:43
  名梨さん:
 時間をみつけて伺います。よろしくお願いします。
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ちょっとだけ (とらねこ)
2007-07-14 20:09:30
程洞館関連のリンクすみませんです。

色々と不完全燃焼的な思いもあるようですね。
宮氏と程洞稲荷やら倉堀社、さらに阿曾沼氏に連なる謎の部分、当方もいささか腑に落ちない点もありますが故宮康氏の30年にわたる研究成果もあることから、まずはこの路線継承でいけたらと思います。

腑に落ちない点、宮氏の菩提寺は常○寺、八戸氏の遠野入部と共にやって来た寺ですが、過去帳に何故に慶長年間に亡くなられた方が書かれているのか、江戸期の子孫が書き足したは考えられるも、何かの作為もありそうな・・・・?
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そこ! (笛吹童子)
2007-07-15 12:06:30
  とらねこさん:
 そうなんですよ!とらねこさん。何かひっかかる。
遠野町1地割の小字名が倉掘なようですが、なぜ、ここを1番にしたのかも気になっています。倉堀姓は、遠野の地名から発生したもので、宮姓は、ここに移動してきた人の姓だったと想像しているのですが、どこにでもあるように同姓2家が同一期に並び建つということもありえますしね。
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八咫烏 (一如)
2007-07-16 07:14:46
 おはようございます。
8日、程洞稲荷の縁日情報を入手していましたが、自分は行けず
「ふ~~ん」って思ってました。それが、このようにUPされて、大感動でしゅ(感)

 稲荷社ということしか知らず、今回八咫烏の額をみて、びっくり
なして? なして? という疑問と、知りたい知りたいが湧いてきます。
 そして、高早大明神。名梨さんとこで気になっていた鳥居と巨石
水辺ということから、弁才天、水神、竜神などが浮かびますが
「高早」という名も気になりますねぇ…
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深み (笛吹童子)
2007-07-16 09:32:46
  一如さん:
 例祭取材が、ひょんなことから深みにはまっています。おぼれそうなので、ちょっと、一休み?
 
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