天候不順の日々が続いているのが気になるところだが、宝暦5年(1755)の遠野の飢饉の様子を記した日記「凶作見聞集」には、「古説ニ亥ノ年正月朔日、亥の日なれば、其の年必凶作也と云へり。」とある。幸いにも今年の一月一日は虎年の未である。
さて、前述の見聞集には、他に次のような一文が記されている。
「五月朔日、横田村にて今日より段々田植あり。綾織村、植終りの田を足洗田と云、農家の詞也。」
田植えを終え足を洗い、植え終わった田を眺めた時のほっとした瞬間が感じられる呼び名である。
現在、足洗田という言葉を耳にすることは私自身はないが、この「」という言葉で、真っ先に浮かぶのは、土淵町の「足洗川」であろう。
かっぱ渕で有名な常堅寺脇を流れる小川である。かっぱの他、前九年の役(1085前後)で朝廷軍を指揮した源義家が、愛馬の足を洗ったという伝説が残る。
以前、この川の源流はどこかということでyamanekoさんがブログに載せていたのが、頭の片隅に残り私も足を運ぶ。
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小烏瀬川の本宿と須崎との間に分岐箇所がある。ここは、留場と言われる地域。以前、拙ブログに記した内容をおさらいしながら、現地を見ると、確かにどれもが、当てはまるような気がする。
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(土手の野焼きが終り、春待つばかり)
足洗川は、小烏瀬川から常堅寺裏を通り、似田貝の東南で二つに分かれる。ひとつは五日市川に添って猿ヶ石川へ、もうひとつは似田貝の集落を通って小烏瀬川へ。
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この川、川と呼ぶには、いささか小さい。子供の頃より、なぜ、これが川なのだろう?水路ではないのか?と思ったものである。
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(留場の水門で水量は調整され、必要なぶんだけが流れる集落内)
ここで、かっぱ渕脇の常堅寺草創に目を移す。
常堅寺は、一関市大東町大原の曹洞宗長泉寺の門葉表によると、同寺の末寺として文明18年(1486)に、また常堅寺の由緒世代書では、延徳2年(1490)に開かれたことになっている。その他、云い伝えとして安倍貞任の弟、北浦太郎家任が天台宗の寺として開基したのがそもそもの始まりとも。
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いずれが正しいのかは、さておき、なぜこの場所に寺院を建立したのであろう?
足洗川と密接な関係があるように思えてならない。
小烏瀬川から水を引くことで、五日市川から水を得られない地域までが稲作可能となったのでは?その水路が通ったことで、似田貝には集落ができ、そして、新田開発に伴い神明神社を祀ったのであろう。幸いにも、似田貝は、阿曽沼氏の本拠地である元松崎へのルート沿いにある。
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開発指導者は、新しい水路の中間辺りに屋敷を構え、そばに菩提寺を建立した。それが今の常堅寺。その開発者は誰か?常堅寺のかっぱ渕脇にある阿部氏だったのではないだろうか?阿部氏の敷地は、鎌倉武士特有の周りに水掘をめぐらした造りであったことが知られており、安倍一族の末裔とも云われている。
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鎌倉武士(遠野の領主阿曽沼氏)と安倍一族では、時代的にも家系としても一致しないと思われるが、安倍一族の末裔が阿曽沼氏の家臣として地元採用されたと考えれば成立するのではないだろうか?
または、鎌倉時代以前に最初の開発を行なっていたか。
阿部氏は、この地域の肝煎格の家として江戸時代を生き貫くのであるが、開発者ゆえの優位性によって可能であったのでは。
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前々回の神明から、思うところを記したが、裏づけは得られていない。まだ、まだ、桜が咲く気配を感じない遠野。