「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

桜 一輪

2010-04-29 13:39:34 | 景色

昨日のこと

連休前に片付けられそうな仕事を処理した帰り

 

雨の中、こちらに立ち寄る

 

咲きそうな気配?

 

天候不順の春

遠野を離れ無縁となった石碑も濡れる

 

夕方、釜石で上棟式をむかえたお宅から、折箱が届く・・・感謝

菓子ものを職場の同僚と分ける

 

近年は遠野でも折箱を付けての上棟式は行なわれることは少ない

 

この日、以前から観たいと思っていた写真集を山鳥さんから拝借

遠野に移り住んでいる女流写真家最初の作品

地元の人間にとって、決して正面から向き合えない遠野が写し出されているような気がする

大雨の昨夜、じっくりと観る

 

そして、今朝

 

善明寺の桜が一輪咲いた


ホッピー

2010-04-25 14:42:57 | 地域

今年正月、地元に潜む?高校時代の同級生達との新年会の席上

区切りの良い歳になったので、同級会を!

ということで

こちらの暖簾をくぐる

 

先に来ていた世話人代表とともに

 

とらねこさんが力説し、私も煽った、あの「ホッピー」を頂く

 

やっと飲めました!笑

 

都合のついたメンバーが揃ったところで

 

昭和○○年に遠野高校を卒業した同級生354人。そのうち5,6名は天上の人となり、地元に残るのは80名。

二十歳過ぎと、約10年前に同級会を開催して以来の企画

 

まずは、それぞれの近況から

 

杯がすすむ

 

薄くなったこと、染めていること、老眼のこと、爺さんになったこと、子育てが終わったこと、まだ脛が細るいっぽうであること、現役PTAであることなどなど、時にはこの世にいない友に涙しながら、今年のお盆に「あえりあ遠野」で開催することを決定

 

そして、やはり、歌合戦となり、とんでもない時間に帰宅

 

青空なのに、「まやまやず~」今日・・・・白岩公園の桜

 

早瀬川一揆案内板のしだれ桜


春と思えども

2010-04-24 14:13:49 | 景色

四月最後の土曜日

一日市では「うんなんさん」のお祭り

 

商店街の方々が、温かい汁物でおもてなしをしていた。

 

昨晩、またもや雪が降った遠野、朝には里は消えたが、まだ、冬の寒さのまま

 

お遍路さん?・・・・遠野七観音巡りツアー

 

春を感じたいと思いながら、なぜかしら、こちらまで

 

まだ雪が残る・・・・・ありえない風景

 

着実に春は

 

来ているようだ

 

ぶらんこでいっぷくするおじさん

服のモコモコ具合を観ると中にはきっとセーターを着ているのだろう

 

先日の「こがね」・・・・すっきりした青空はどこへいったのだろう


足洗川

2010-04-21 18:30:33 | 歴史

   天候不順の日々が続いているのが気になるところだが、宝暦5年(1755)の遠野の飢饉の様子を記した日記「凶作見聞集」には、「古説ニ亥ノ年正月朔日、亥の日なれば、其の年必凶作也と云へり。」とある。幸いにも今年の一月一日は虎年の未である。

 

さて、前述の見聞集には、他に次のような一文が記されている。

 

「五月朔日、横田村にて今日より段々田植あり。綾織村、植終りの田を足洗田と云、農家の詞也。」

 

田植えを終え足を洗い、植え終わった田を眺めた時のほっとした瞬間が感じられる呼び名である。

 

現在、足洗田という言葉を耳にすることは私自身はないが、この「」という言葉で、真っ先に浮かぶのは、土淵町の「足洗川」であろう。

 

 

かっぱ渕で有名な常堅寺脇を流れる小川である。かっぱの他、前九年の役(1085前後)で朝廷軍を指揮した源義家が、愛馬の足を洗ったという伝説が残る。

 

以前、この川の源流はどこかということでyamanekoさんがブログに載せていたのが、頭の片隅に残り私も足を運ぶ。

 

 

 小烏瀬川の本宿と須崎との間に分岐箇所がある。ここは、留場と言われる地域。以前、拙ブログに記した内容をおさらいしながら、現地を見ると、確かにどれもが、当てはまるような気がする。

 

(土手の野焼きが終り、春待つばかり)

 

足洗川は、小烏瀬川から常堅寺裏を通り、似田貝の東南で二つに分かれる。ひとつは五日市川に添って猿ヶ石川へ、もうひとつは似田貝の集落を通って小烏瀬川へ。

この川、川と呼ぶには、いささか小さい。子供の頃より、なぜ、これが川なのだろう?水路ではないのか?と思ったものである。

 

(留場の水門で水量は調整され、必要なぶんだけが流れる集落内)

 

ここで、かっぱ渕脇の常堅寺草創に目を移す。

 

 常堅寺は、一関市大東町大原の曹洞宗長泉寺の門葉表によると、同寺の末寺として文明18年(1486)に、また常堅寺の由緒世代書では、延徳2年(1490)に開かれたことになっている。その他、云い伝えとして安倍貞任の弟、北浦太郎家任が天台宗の寺として開基したのがそもそもの始まりとも。

 

 いずれが正しいのかは、さておき、なぜこの場所に寺院を建立したのであろう?

 

足洗川と密接な関係があるように思えてならない。

 

小烏瀬川から水を引くことで、五日市川から水を得られない地域までが稲作可能となったのでは?その水路が通ったことで、似田貝には集落ができ、そして、新田開発に伴い神明神社を祀ったのであろう。幸いにも、似田貝は、阿曽沼氏の本拠地である元松崎へのルート沿いにある。

 

 

 開発指導者は、新しい水路の中間辺りに屋敷を構え、そばに菩提寺を建立した。それが今の常堅寺。その開発者は誰か?常堅寺のかっぱ渕脇にある阿部氏だったのではないだろうか?阿部氏の敷地は、鎌倉武士特有の周りに水掘をめぐらした造りであったことが知られており、安倍一族の末裔とも云われている。

 

 鎌倉武士(遠野の領主阿曽沼氏)と安倍一族では、時代的にも家系としても一致しないと思われるが、安倍一族の末裔が阿曽沼氏の家臣として地元採用されたと考えれば成立するのではないだろうか?

 または、鎌倉時代以前に最初の開発を行なっていたか。

 阿部氏は、この地域の肝煎格の家として江戸時代を生き貫くのであるが、開発者ゆえの優位性によって可能であったのでは。

 

  前々回の神明から、思うところを記したが、裏づけは得られていない。まだ、まだ、桜が咲く気配を感じない遠野。


2010 釜石本郷桜舞まつり

2010-04-18 14:44:00 | 郷土芸能

遠野では小雪混じりの雨が降る中、釜石にかかえる仕事先の進捗状況を確認するついでに、本郷へ。

遠野より寒いと感じる雨、桜はつぼみのまま。この花だけは満開。

ここは、二年前に嘉永の一揆の取材で来て以来となる。

 

お昼頃に会場入りすると、傘の花

(中止ではないかと思っていたので、ほっとした瞬間)

 

ステージには東前太神楽

この神楽は、江戸時代に釜石の富豪(盛岡南部藩の豪商の分家か?)村井家によって尾崎神社に奉納されたのが始まりとされる。

笛や太鼓のリズムは釜石地域に伝承される虎舞そのものだと感じる

 

次に愛宕青年会による八木節の予定であったが、時間に到着していないこともあり、「俺、寒い!」に耐えかね、車に避難。真冬の白鳥撮りまではいかないが、タイツにジーンズ、Yシャツ+セーター+薄いジャンパー+厚手の冬物ジャンパーを着ていたが、それでも寒い・・・・。

 

近所をぶらついていると、道路そばの山に神社

 

交通整理をしている方にお聞きすると、伊勢神社とのこと

 

桜舞太鼓の関係者が、天気を恨むでもなく、会場に集まった観客を気遣いながら、祭りを運営し続ける

遠野さくら祭りの立ち上げの頃を思い出す・・・・自分もこうだったと

 

午後最初の女性による紅太鼓に続き、「海峰会」の創作演舞

雨の中、真っ赤な傘が彩りを添える

 

箱崎虎舞・・・・竜虎の図

 

釜石を代表する芸能であるが、ここの虎舞はS46年頃から始められた新しい団体

 

「婿入り遠野人」と約束していた伊勢太神楽

伊達藩政時代以前から伊勢参りの代参として始められていたと云われる。

 

説明によると、どの時点かわからないが遠野から習ったというようなニアンスの表現があり、びっくり!

この近所の山にある、あの伊勢神社に関係する太神楽であろうか?

おかめがいるのは遠野と同じであるが、ここには「ささら棒」を持つ子供達が登場する。テンポも異なる。権現様の顔が大きいのは、綾織や達曽部と似ている。

 

おおとり

 

 

どんな太鼓なのか事前情報を仕入れていなかったので、写真はほとんどが手ぶれ(涙)

 

美人カメラウーマンの方々は、撮るのも忘れて「イケメン軍団」にうっとり見入る

 

始められて50年ほどになるとのことで、もう立派な郷土芸能

他の出演者や地域の方々も、見入る

 

そして、迫力あるバチさばき!

 

桜舞太鼓スタッフ一同の手作り感が、素直に伝わる良い祭りであった

次回には、桜満開の中、ビールでも飲みながら、ゆっくりと見物したいものである