「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

一山伏の話

2008-05-21 12:58:19 | 修験
この話は、史実と想像が混在した寝物語ゆえ、おおらかな気持ちで流して頂きたい。
  

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 秀吉による奥州仕置の時代、北川三右衛門なるひとりの人物があった。時は、文禄4年(1595年)、秀吉から会津を賜った蒲生氏郷が死去し、慶長3年(1598)嫡男秀行は秀吉の命で宇都宮に移され減封されるが、慶長5年(1600)関が原の戦いの功によって家康から60万石を与えられ、会津に戻る。寛永4年(1627)三代蒲生忠郷が死去し、三代忠知は伊予松山藩に移封となる。
 
 三右衛門は、この氏郷に仕官していたのだが松山へ同行すること叶わず、寛永4年に浪人となる。江戸に出た三右衛門は同じ蒲生氏縁の儀俄六郎左衛門が盛岡南部氏に仕官することを知り、同様に身を立てる。会津から江戸へ、そして、はるか盛岡へ。


-別系1-

 秀吉の奥州仕置の時代、北川三右衛門なるひとりの人物があった。会津の蒲生氏郷に仕えていたが、訳あって浪人となり、遠野へ下る。時の遠野は、南部氏と伊達氏の覇権のはざ間にあり、無法地帯と化していた。阿曽沼の臣で家督を継ぐ立場にあった者達は処払いを命じられた後のことで、五日市を治めていた立花縫の直系の人々は既にこの地にはなく、わずかに、似田貝の集落があるだけであった。
 この五日市に、北川家の守り本尊である不動尊を持参した三右衛門は、三閉伊一揆の三浦命助と同様に山伏として、、五日市の一角に住むことになる。人々は、宗教行事を司る三右衛門を次第に認め、土淵周辺の村々にあるお堂を霞とする本格的な修験者への道を進む。しかし、仕官の夢は捨てないまま。
 そして寛永4年、八戸から南部直栄が領地換えになるや、盛岡から派遣されていた城代やその家臣から得ていた情報を基に、盛岡南部氏に仕官する。





   -2-

 盛岡での三右衛門は、忠勤に励み、町奉行等を歴任していた儀俄六郎左衛門の娘と結婚し、300石を有するまでになる。妻との間には、文助という子供を授かる。
 しかし、文助に家督を譲るにはあまりにも幼く、寺西市右衛門の息子、新左衛門勝秀を養子として迎え、家名を存続させる。それは南部重直公の治世(1632~1664)のこと。



-3- 

 2代目新左衛門は、御者頭(足軽頭)を勤め、寛文元年(1661)には、50石加増され350石となり、元禄には財政トップの御勘定頭に昇る。この頃までの南部藩の年貢高は、検見役が領内の作況を見分して歩附(税率)を決める検身制をとっていた。この制度では雪が被っても検見が終了するまで刈り取りが許されず、巡回する役人の経費はそれぞれの村の負担となっていたのである。それを、行信公の時代に、概歩制(ならしぶ)に切り替えた。これは、代官立会のもとに村の肝煎りなど村方役人が自己査定の上に年貢率を決め、各種弊害も取り除こうとしたもので、北川新左衛門らによる政策でもあった。
 新制度へ切り替えた年は、どうにか豊作となったものの、その翌年から凶作が続き、藩をあげての倹約政策を実施している中、書類も無しに御蔵米の出し入れや木材の伐採などを行なっていたことが発覚し、年貢制度の切り替えに加担した人々と共に罪にとわれ、八戸彦市(八戸九太夫とも)に御預けとなる。時に元禄16年(1703)。この後、禄を召し上げられ、遠野へ配流となる。




   -4-
 
 息子を伴って遠野へ来た新左衛門は、はじめ城下の遠野南部重臣の家での生活であったが、沢里氏や飛内氏が代官を務める土淵に移り、家族は農業を営みながらの生活となる。これは藩の御勘定頭を勤めたほどの人物で、政権争いとしての一面による失脚でもあった故の処置である。
 とは言え、家臣としての資格停止中で公に行動できない北川家は、守り本尊であるお不動様を持っていたこともあり、土淵の開発を進めるにあたっては、修験者としての役割を併せ持ちながら、村の人々と交わっていった。




  -別系4-

 寛永4年に父三右衛門がこの地を離れて76年もの月日が流れ、新左衛門も50代半ばとなっていた。父親がその時残した家族は、今や、五日市喜楽院と栃内長圓坊の二系になり、土淵にしっかり根をはり、地域開発の指導者として自立していたのである。遠野南部重臣の元に身を寄せながら、盛岡の情勢を把握し、親族とも交わりながら地域開発の相談にも応じるといった生活が続いていく。




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 南部利幹の時代となり、宝永6年(1709)、徳川綱吉の逝去による大赦によって、罪を解かれた新左衛門は、61歳になっていたが、5人扶持にて盛岡へ召し出され、翌年には現米60石を加増され、合わせて90石となる。そしてその禄を隠居料として賜りながら、またもや、お叱りを蒙り、内堀帯刀への御預かりとなり、配所にて亡くなる。71歳。亡くなった翌年、罪を免れる。
 若い頃から、藩の中枢にいた人物でありながら、奔放な性格が災いして、折角の藩の好意を無にした感は拭えないが、これが新左衛門なのである。




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 新左衛門亡き後、養父の実子であり、新左衛門の義弟である文助が家督を継ぐのだが、享保の早くに亡くなる。文助には嫡子なく、断絶。また、異母兄弟の良助は、父新左衛門が罪に問われた時に、母方の相坂氏へ預けられていたのだが、享保9年(1724)に亡くなり、この系統も断絶する。




   -7-

 新左衛門は、当初、野田氏の娘を妻としていたが、幼子を残して先立たれ、この子は、遠野配流の際に、遠野に残し、後妻である相坂氏の娘との間に出来た良助は嫁方の相坂氏御預りと、家族が分かれていたのであるが、新左衛門亡き後、異母兄弟も亡くなった遠野の遺児は、半農の修験者として、土淵に行き続けることになる。




  -別系7-

 盛岡に移った北川一族は断絶し、遠野には喜楽院、正福院の家が続くことになったのである。




 参考資料:土淵教育百年の流れ、参考諸家系図、盛岡タイムスWeb News


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6 コメント

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本気に・・・汗 (とらねこ)
2008-05-21 16:07:18
おおらかな気持ちでじっくり読ませていただきましたが、一度では理解できず二度目となると、なんだか本気に考えるようになったりして・・・・汗

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もっとおおらかに! (笛吹童子)
2008-05-21 17:59:49
  とらねこさんへ:
 追い続けてもそこには、厚い壁があり、なかなか登りきって、その先を目指せないでいます。
 しっかり調べ上げてから、まとめようとも考えましたが、そのうちに興味が薄くなったり、忘れたりするので、見切り発車ということで・・・・。本当は断片的に記した文はもっとあるのですが、これ以上長くなると、飽きられるので(笑)
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読み物 (about)
2008-05-22 09:12:19
おはようございます。
興味深い内容ですね。
全部読みたいです、原稿はいつ上がるんですか?
どこから出版予定ですか?自費出版ですか?(笑)
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限り無し (笛吹童子)
2008-05-22 18:29:23
  aboutさんへ:
 遠野にあるぶんの資料では、どうにもならず。単語ひとつをキーワードに探した結果、確信を得るには至りませんでしたが、断片的に遠野との繋がりを見つけることができました。
 ひとりを追い続けると、寝れなくなって仕事に差し障るので、また、ゆっくりと外堀を埋めて生きたい思います。
 それまでは、aboutさんの想像にお任せします。
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不動尊 (一如)
2008-05-23 12:25:59
知りたいことのひとつでしたので、びっくりしたり感激したりして読みました。

文殊さまと呼ばれる倭文神社、不動尊
そちらの流れも知りたいと思ってます。

「正福院」の文字が刻まれた墓所は、先日UPのくまどの側にありました。
大きな墓石でした。
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墓石 (笛吹童子)
2008-05-23 13:15:37
  一如さんへ:
 北川氏三右衛門の家系についてと仕事の状況は系図にあるとおりですが、修験との関わりについては、想像ですよ!今のところ。
 桜咲く山の麓の墓石は、元々の墓地ですが、現在は光岸寺に移され、墓石のみが残されています。
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