「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

師走の遠野辺

2007-12-27 23:47:15 | 景色
 今年もあと数日。何とか、ブログを続けることができたことに感謝。

 変化のない日常・・・・今日の遠野。




 冷え込んだ朝は、よく晴れる。早池峰も拝むことができる。とは云え、明日はプラスの予想。




 附馬牛町安居台の白鳥も年越し準備。




 寒さを気にせずに済むのなら、いつまでも見ていたい。




 氷と化した足元の雪。早池峰神社周辺は、やはり寒い!




 今年亡くなった遠野の宮大工小泉棟梁の作。小出愛宕神社。




 流れる水が凍りつきそうな重端渓。




 笛吹口六角牛神社から見る六角牛山。

            年末から正月は雪の予想が出ている遠野。

傳勝寺 其の弐

2007-12-24 11:04:34 | 修験
  田中喜多美氏の「岩手山の信仰と修験」によると、
 
  
 慶長8年(1603)10月、盛岡城主南部利直より、繋温泉の湯別当安楽坊に手作地給与の黒印状が与えられ、2日後の10月20日に、滴石村西根、大宮社の岩鷲山禰宜に手作地44石5斗1升を祈念として与えられている。この文章が岩手山関係文書の最古のものだと云われる。

 岩手山は、南部領となってから岩鷲山と呼びぶようになり、山頂の祠の辺りを御殿として崇め、南方雫石口、東方厨川口、北方平舘口の三つの登山口から成っていた。この中のひとつである滴石口の禰宜だった家には、延享2年(1745)「神社仏閣由緒書上扣」があり、これには「神主を修験道に改めたのは6代宗覚院の時で、公儀より停止を仰せ付けられて改めた。」とある。寛永10年(1633)~20年頃、南部重直が藩内の改宗を強要した時期でもある。


(雪の岩手山)

 この神社の棟札には、享禄3年(1530)、「大宮社再興 大僧都 平政久 大工 出羽住人 聖 小工 丹後 越前」とあり、南部氏が滴石攻略以前のものである。同由緒書上には、田村将軍と野気王子の像が祀られていたとある。
 これらのことから、(源氏)南部氏以前は、平姓の人物がここを治めており、羽黒系の修験が関わりをもち、神職によって祭祀された神社であったことがわかる。では、この時の治世者は誰か?南部氏以前、この地には戸沢氏がおり、南部氏との抗争で破れた後、出羽へ行き、角館城主→新庄城主→子爵となったことが新井白石の書物で確認できるという。戸沢氏は平氏である。


(遠野鍋倉本丸を望む)

 南部利直の跡を継いだ南部山城守重直は、寛永10年(1633)に国元入りをする。その際に同行したのは、愛妾御勝殿と羽黒修験高海上人であった。御勝殿は京都の生まれで仏教に帰依された人物で、高海上人は羽黒派江戸十人衆のひとりと称された人物であり、岩鷲山の別当職と300石を口約されて付いて来たとされている。
 この高海上人は、繋温泉湯守別当を羽黒派の大勝寺開山に仕立て、その寺は以降羽黒派修験が世襲することになる。大勝寺100石、湯守別当13石を給与される。この寺は、慶応4年(1868)まで継承され、末寺のひとつに遠野横田村の傳勝寺がある。
 南部利直代には、本山派であったものが、重直代に羽黒派になり、領内では争論となったことが伝えられている。


(遠野三ヶ寺跡を望む)

 世に云う盛岡五山は、永福寺800石、聖寿寺500石、高源寺450石、報恩寺180石、東禅寺200石であり、流石に藩主お声掛かりの大勝寺といえども、300石の口約どおりにはならなかった。ちなみに、遠野妙泉寺は200石であり、いかに、早池峰山妙泉寺を重要視していたかがわかる。また、寛永20年頃の大勝寺4世養海上人は永福寺や出羽湯殿山大日坊で修行した人物でもあり、先の大宮社の宗覚院を盛んに羽黒派に引き入れようとした急先鋒でもある。


(鍋倉さんへの登城口)

 岩手県は、源氏一族以前より、天台信仰が布教されてきたのが、平泉藤原氏の代には白山や出羽三山信仰も広まり、戦国時代までに仏教各宗派が成立する。また、南部氏は日蓮宗創立に深い関わりをもつ一族であったが、陸奥に定着するに至り、その時代〃の宗教を取り入れながら命脈を保ち、本山派修験の元に治世を行なってきた。今回のように一時的には、派黒派の勢力が盛り返した時期もあったということになる。
 県内でも、羽黒派と本山派が勢力争いをした時期があり、遠野においても、本山派大徳院と羽黒派慈聖院・善行院が対立した歴史がある。また、早池峰山妙泉寺の本末争いにおける神職と修験僧との関係も、岩手山の宗覚院と大勝寺との関係も類似している。


(雪の薬師)


  最後に、遠野の大日さんについて

 遠野南部直栄が善応寺の快盛和尚に、出羽湯殿山へのご祈祷を仰せ付けたところ、願いが叶ったので、寛永21年(1644)10月に湯殿山への社領として20石を善応寺に寄進し、毎年代参させる。貞享2年(1685)遠野南部義長が、大日如来の社を造営し、代参を止める。また、遠野南部義論の代に拝殿を造り、元禄初期より、3月6日からの3日間祭りを行なった。しかし、義論亡き後は中断し、利戯代の宝永3年(1706)から毎年3月15日を祭日と定める。そして、明治の神仏分離令により、大日堂は日枝神社として改め、旧6月1日を祭日とする。


(雪の大日さん)

 

 寛永年間の盛岡南部氏による改宗政策の時期に、ここ遠野では、それに呼応するように、善応寺を介して湯殿山の参詣が行なわれ、その結果として、現在の大日さんが残る。
 この政策の当初は、傳勝寺が遠野の羽黒政策を担っていたのであろうが、阿曽沼関係一族によって長く治められてきた土地柄から、南部氏の一声で全てが収まる地域ではなく、阿曽沼氏縁の社寺を活かしながら、統治した様子を垣間見ることができる。

  ●おまけ●


(雪の中村のお堂)


(とらねこ氏と八戸藤九郎さんとの中沢館跡探訪)


(嫁さんの仕事の都合により一足早い我が家のクリスマス)

傳勝寺のこと 其の一

2007-12-22 22:52:20 | 修験
 むがす、むがす、あったずもな~。遠野に傳勝寺(でんしょうじ)というお寺さんがあったんだど。

 八戸から南部氏が村替えとなりやって来た以降のことを調べていると目にするお寺さん。今は無いのでピンとこないのであるが、頭の片隅に残っている名前である。


(鍋倉山からの町の風景)

 遠野旧事記の訳本「やさしい遠野旧事記」には、次のように載っている。
 
  岩玉山 伝勝寺 盛岡大勝寺末寺  
 寛永の頃、占いが良く当たる僧がいて、ある時、鷹狩りに行ってその鷹の行方がわからなくなった時、その居場所を当てる事が出来、御褒美として遠野領主南部直栄様は20石寄付しようとしたところ、強く断ったと云われる。僧は、本来、仏のご加護によって民からのお恵みで暮らすのが筋で、これが出来るのも殿様からのご恩によるもので、これ以上のことは寺として犯してならないからだと理由を述べている。(いかにも、僧の鏡とも思える発言である。)


(明治初年の坂ノ下附近)

 この寺は、鍋倉城の坂ノ下にあったと云われ、宝暦13年(1763)著の「遠野古事記」には、元傳勝寺のあったところが、小向六郎左衛門の屋敷だと記されている。その時点で、この寺は無くなったか、移転したのだと思われるのだが、その後の傳勝寺に関する記述は見たことが無い。

 明治初年の地図には確かに坂ノ下の屋敷に小向姓が見えることから、ここが傳勝寺の屋敷跡なのかもしれない。


(昭和10年頃の坂ノ下=現在の市民センター周辺)

 鍋倉山側が小学校で、小向氏の屋敷があった場所は、畑になっており、現在の市民センターと来内川との間にある道路はまだ無い。勿論、お多賀橋も無い。


(本日の来内川周辺の様子)

 この地域だけでも、明治から現在までの間に、かなりの変遷があったことが、地図からもよくわかる。

 傳勝寺については、後日また。



阿曽沼氏と住田町満蔵寺

2007-12-17 23:44:45 | 歴史
 岩手県気仙郡住田町の中心部にある世田米。ここに曹洞宗の寺がある。瑞川山満蔵寺。



 立派な山門があり、元治元年(1864)の再建。棟梁は、気仙大工の松田氏。



 山門両脇には、阿吽の仁王像。↓「あ~」



↓「う~ん」



 この寺は、もとは清水沢の榎木坂にあり、元禄7年(1694)に現在地に移転し、文化11年(1814)には本堂や庫裏などを焼失。



 
 明応8年(1499)薄衣(現一関市川崎町)に、大原、世田米、鱒沢の連合軍500騎が攻め入る。その時の世田米城主は、世田米伊豆守とあり、大原千葉伯キ守の弟。北に南朝、西に葛西、江刺、南に浜田千葉(陸前高田)、東に閉伊氏と豪族に囲まれ、阿曽沼及び世田米一族は領民を守るため常にいずれかの領主と同盟関係を結ばなければならかった。



 戦国時代末期、阿曽沼、世田米にとっては存亡をかけた時期。世田米城主は阿曽沼甲斐守信康、葛西家臣となっている。
 
 天正16年浜田の乱があり、浜田安房守広綱は葛西本家に反抗し、敗戦。そのおり、世田米城主は、浜田氏には加勢せず。それについて、世田米は千葉安房の一族なれど、遠野阿曽沼との関係はより深いものがあり、遠野阿曽沼広郷の長子、広長の正妻は世田米城主(信康)の娘であったことがその理由だと述べられている。(これは、世田米阿曽沼氏も遠野阿曽沼氏も葛西家臣で、同族への配慮があったものと推察)
 
 また、阿曽沼信康の長子、中務重範は上原館の城主で、その位牌は杉月山新城院にあったものを廃寺により、この瑞川山満蔵寺にて安置している。この寺は、阿曽沼中務重範の開基とされている。

 

 気仙大工の作品として、大船渡市の長安寺山門とともに語られる満蔵寺山門であるが、ここが、阿曽沼氏に縁のあるお寺だったことを知ったのは、最近のこと。

 ところで、阿曽沼甲斐守信康とは、遠野阿曽沼氏とそもそもどのような関係にあった人物なのだろう?阿曽沼氏の一族宮氏は気仙口から鮭に乗って遠野へ来たという伝承が残っていることも気にかかる。


 








東北民謡の父と田植踊り

2007-12-13 21:35:26 | 郷土芸能
  ●武田忠一郎●
 遠祖は甲斐国より出て、南部氏一族九戸家の客分となる。功ありて軽米郡に移り、小軽米を名のる。紆余曲折ありて、小軽米源太左衛門信義は武田家遠野初代となる。宝暦13年(1763)~天保3年(1832)のこと。
 八代軍右衛門信将(小源太と称す)の代にて明治維新となり、帰農。武田に改姓。慶応4年の時点では、25石と他に御切米片馬ぶん。(維新時にどこに住んでいたのか知りたくも、不明)
 忠一郎は十代直二郎の子として、明治25年遠野町石倉に生まれる。子供の頃より音楽が好きで神楽や田植踊りの笛が好きで、後に東北各地にあった童謡や民謡を訪ね歩き、採譜したものがNHK東北民謡集としてまとめられる。また、東北各地の小唄や校歌の作曲も手掛ける。(県立遠野農業高等学校校歌の作曲、県立遠野高等学校校歌の編曲、遠野小唄の作曲など)故に、東北民謡の父と称される。福島県出身の民謡歌手原田直之氏の奥さんは武田氏の娘さんである。

 以上が、概略プロフィール



  遠野物語研究所の佐藤誠輔著「武田忠一郎小伝」の中にはある一節に、明治後半から大正期の遠野の小正月の様子が載せられている。 

 ●旧正月になると遠野の町には、近在の村から田植踊りの一団がやってきた。紅白のタスキを十字に掛けて赤、黄、青の踊り衣装の若者や少女達は、手に手に唐団扇をかざし、小太鼓を抱え、十数名から時には百名を超える行列をつくって町中を練り歩いた。商家の門口に来ると太夫の「ご門ほめ」が唄われる。
  
  これは殿のご門の上に鶴と亀はひとつがい
  羽根を鳴らし 嘴を揃えて ご盛大と挙げてさやじる

 すると庭先に早乙女、中太鼓などの踊子達が、庭打込みの円陣をつくる。

  東西南北 若水かわっておめでたい
  この家に内宮、外宮、末社の福の神を迎え
  ご祝儀の御田植えを始めますぞ

 前口上が述べられ、庭田植えの演目が披露される。
旦那、太郎、野平、早助、藤三郎、徳左衛門、やん十郎などの主役達が、一年の耕作を演じていく。

 この一部は、市内の郷土芸能競演会や保育所の園児による催しで見られるだけで、遠野祭りでは、ほんの一部の演目が行なわれるのみとなっているのだが、本来は、通しで行なう芸能であった。



 ●菅江真澄●
 江戸時代に東北や北海道アイヌの風俗をまとめた人物。その中に天明大飢饉の3年後にかかれた岩手県胆沢町の滞在記「かすむこまがた」には次のようにある。

 正月18日(小正月) 田植躍というもの来る。笛吹き鼓を打ち鳴らし、また、銭太鼓とて檜曲に糸を十文字にひき渡し、その糸に銭を貫いて是をふり、紅布半纏したるは奴田植といい、青笹着て女の様しては早乙女田植えと云えり。
 やん十郎という男、竿鳴子を杖につき出て開口せり。それが詞に「えんぶりずりの藤九郎が参りた。大旦那のお田植えだと御意なさるる事だ。
 前田千苅リ、後田千刈、合せて二千刈あるほどの田也。馬にとりてやどれやどれ、大黒、小黒、大夫黒、柑子栗毛に鴨糟毛、躍り入んで曳込んで、煉れ煉れねっぱりと、平耕代、早乙女にとりては誰れ誰れ、太郎がカカに次郎がカカ、橋の下のずいなしがカカ、七月姙身(ナナツキコバラ)で、腹産(コバラ)では悪阻(ツハク)とも、植えてくれまいではあるまいか、さをとめども」と云い終えて、踊るは、みな、田をかいならし田ううるさまの手つき也。
 「うえれば腰がやめさふら、御暇申すぞ田ノ神」と返し返し唄い踊る。そが中に、瓠(ナリヒサゴ)を割りて目鼻を入れて白粉塗りて仮面として、是をがふりたる男も出まじり戯れて躍り、此事はつれば酒飲せ、ものくはせて、銭米扇など折敷にのせて、今日の祝言とて田植踊等にくれけり。



 現代文には訳す能力はないが、口上に違いはあっても、似たような踊りだったのではないかと想像される。また、遠野では藤三郎で胆沢では藤九郎となっている。同じ菅江の秋田や青森での田植躍りでも、藤九郎であることから、本来は藤九郎だったのだろう。八戸のえんぶりに出てくる藤九郎も、この田植躍りが原型ではないかと云われている。
さらに同じ菅江の「奥のてぶり」では、寛政6年(1794)の正月、田名部でのえんぶりでは「えんぶりするをここにて藤九郎といい、仙台にてはやん十郎という」とあることから、岩手の田植躍りは、その中間地域として、藤九郎もやん十郎も、装いの男女の違いも、両地域の影響を受けて引き継がれてきたものなのだろう。

 また、「田植躍り」と似たような芸能に「春田打ち」というものがあり、これについても菅江は文章を残している。これも江戸時代の遠野で演じられていた記録があるが、いずれ。



 安心していると突然やってくる雪。今朝はかなり寒かったので、もしやと思っていたら、どか雪となった。明朝は雪かきが必要かもしれない。