「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

御祝い 伝統をつなぐ

2019-01-27 22:35:43 | 民俗

今日は遠野市土淵町にある水光園で遠野郷神楽共演会でした・・・

が、残念ながら観ること叶わず

 

で、お伺いしたのは、こちら

 

岩手県知事認可の一級遠野かやぶき士第1号で、その道の卓越技能者表彰を受けた方と

同じ道を歩む若き一級遠野かやぶき士が青年卓越技能者表彰を、

さらに、もう一人は社寺建築部門で同じ表彰を受けたことから、その三人の祝賀会となりました。

いずれも、最先端の技術を追求する職種とは真逆の技術屋さんですが、

今後の日本には、欠かせない分野でその能力を発揮している方々になります。

 

大きな材木を相手にしている社寺建築の若者が使用しているカンナを見せて頂きました。

電子タバコの大きさと比較してわかるように、とても小さな道具です。

こんな道具も使いながら大きな神社仏閣の細かな細工をしていることに驚きです。

また、一方の茅葺のことですが、

市内にある茅葺屋根の建物には、津軽、石巻の茅葺職人が手がけたものもあり、技術交流が図られているようです。

そんな中、山形の職人さんの力を借りて民力で葺き替えをしようとしている家も出てきているとか。

社寺建築だけでなく茅葺もまた、広範囲な地域を相手に仕事をする時代になってきているようです。

 

祝辞に続き、披露されたのが御祝

「おいわい」ではなく、「ごいわい」と云います。

遠野市小友町に伝わる氷口(すがぐち)御祝

昔の結婚披露宴では「高砂や~」でお馴染みの謡が唄われるシーンが時代劇などで観られます。

それと同じような感じで謡い、

 

一曲終わるごとに盃に酒を入れ、それを飲み干すこと三度

 

後で、その唄本を撮影

 

筆者は小友町の人で、表紙には喜多流小謡集とありました。

氷口の謡は高安流の系統で明治20年生まれの柴又豊治という人が江刺から習い、

大正5年頃に広めたという話があるようです。

現在の歌詞は喜多流になったということでしょうか?

 

宴もたけなわ、恒例によりまして、大工さん達による「地固め節」

民謡「七之助節」が基唄で、工務店により若干、歌詞、合の手、リズムが異なります。

この唄も全従業員で唄うところは稀で、社長、棟梁だけしか唄えないところが多くなっており、

次世代への伝承が必要になっている気がします。

 

話はガラッと変わり、ブログに載せて欲しいと嘆願されたもの 笑

 

一本締めが多くなっている中、久しぶりの万歳三唱でお開き

 

開場内には、まだ手つかずのこんなものまで残っており、時間は3時

 

二次会の設定があり、会費要員になりました。

 

疲れを知らない昭和前期の方々が盛り上がっている中、

昨晩の飲み過ぎで、グラスを持つ気力に欠ける私は、途中退場となりました。笑

 


住田町水しぎ

2019-01-26 16:38:16 | 民俗

先週、父の二十七回忌でした。

 

亡くなった日は最低気温が-15℃以下の寒い朝で、家の水道が氷ったのが忘れられません。

その時の父の年齢だけは越えたいと思いながら過ごし、やっと今年同い年。

無病息災、今年はそれだけが願いです。笑

さて、話題はがらっと変わり、隣町の住田町の民俗関係から

 

時代はわかりませんが、昔、住田町世田米で、床下をねぐらにしていた乞食が、

火事に気付き、鍋釜を叩いて、いち早く知らせたお蔭で難を逃れたという話を基に始まった行事、

それが「水しぎ」だということです。

 

時々愛妻からの紹介もあり、先日のお昼時に車を走らせ、世田米まで行くと、旧役場の辺りでこの一団に遭遇。

テレビの取材陣も来ており、しばらく、追っかけです。

 

世田米の家々を二組に分かれて回っているとのことで、「みっさいな!みっさいな!」の掛け声で、

その家の庭や玄関の中まで入り、大黒舞風の曲に歌詞を変えた唄を唄いながら、

手に持った缶を棒で叩きながら、廻ります。

 

中にはご覧のような貼り紙をし、廻った後は、お茶、お酒を振る舞う家もあります。

 

一団が去ると、ご覧のような方が、愛宕神社のものと思われるお札を家の方に渡し、

いくらかの御華を頂くようでした。

 

一人の方が手にしていた幟がこれで、火伏の御利益のある愛宕神社の行事でもあるようです。

 

小学校では校舎の中も廻り、子供たちは大喜びでした!

 

また、住田町役場や消防署も廻ります。

 

日本一の気仙杉の町を目指している住田町らしく、庁舎も消防署も木造です。

遠野でも、しばらく前までは、多少費用は余計に掛かりますが、様々な建物の木造化が進められていました。

近年は、トーンダウンしているような気がします・・・

 

この後のスケジュールをお聞きすると、おやつの時間辺りに世田米の中心部にある

古民家を改修した交流施設に集まるとのことで、一時、水しぎの皆さんとはお別れ。

本当は、風があまりにも冷たく、遠野人でも耐えがたいほどで、一時避難です。

避難先は、交流施設内にある蔵。

写真家田頭真理子氏の水しぎ写真展が開催されていました。

中に入ると暖かいお茶を頂き、田頭さん本人と思われる方もいらっしゃいましたが、

口下手なので話はできませんでした。汗

 

スケジュールどおりに集まってきた水しぎ参加者

この水しぎをする方たちは「水しぎっぺ」と呼ぶようで、この後はコンテスト。

 

奇抜な衣装や顔には化粧と、其々が工夫を凝らしての参加で、ちょっと見た目は男女の区別ができません。

 

参加者の中には、この日、朝一番の新幹線で東京から来た数名の方もあり、PRタイムの後は、

家々を回る時と同じように、「みっさいな!みっさいな!」

 

水しぎっぺの優勝者はこの方

看護関係の仕事をしているようでした。

 

最後は記念撮影をして、この後、また、町内を廻って歩くとのこと。

遠野より寒く感じた私は、ここで撤収。

水しぎ、昔は今回のような化粧等では無く、下帯に、おそらくボロの着物、もしくは藁を身にまとい、

顔には墨を塗って歩いていたのだろうと想像しながらの帰途でした。

 

 

 


行けないはずのどんと祭

2019-01-15 21:19:29 | 民俗

今日は遠野郷八幡宮で3時から年越祭で、その後、どんと祭。

予定では3時から本業関係の案件があり、いわゆる、どんど焼き後半にしか行けないだろうと思っていました。

ところが、

3時からの案件が時間前に済んでしまったので、緊急出動!車に、しめ飾りや古いお札も積んでいたので直行です。

 

どんと祭の準備をしていた氏子の方々から、遅かったなと冷やかされながら拝殿へ

 

八幡神楽さんが、権現様を遊ばせるグッド・タイミングで滑り込みセーフ!

先日の春祈祷といい、このどんと祭といい、今年の幸先は良いようです。笑

 

火伏せの意味合いを持つ権現舞で、火を食い消します。

綾内もこちらも同じ時期に同じような意味合いで権現様が登場することから、ルーツは同じなのでしょう。

 

こちらも、同じように頭をカミカミ

違う点は遠野山伏系神楽では下舞いがカットされているところでしょうか。

 

法螺貝神楽の異名で知られる八幡神楽、拝殿で行われる年越祭の始まりにも吹いたはずですが、

それには間に合わなかったので、どんと祭始まりのシーンで一枚。

 

どんと祭の神事が始まるのを待っている方々は、火の側に自然に集っていましたが、

今年は、ほとんど雪が無い小正月です。(今現在、外は雨)

平成最後、新元号元年は、どんな年になるのか想像もできません。

 

どんと祭神事、瀬尾律姫の名が出てくる祝詞奏上です。

 

点火した後、権現様がその廻りを一周し、

 

列をつくって順番待ちの方々の頭をカミカミ、

 

その後、急いで、孫の手も借りて神社が準備していたお餅を頂き、竹串に差し、火にかざします。

 

昨年から幸運続きの遠野おぢさんから、俺のも一枚撮って!と催促され、

 

私も無病息災を願って、炙り、食す。

 

1時間余りの滞在で、帰りに大判焼きを買ったら、タコ焼き1パックをおまけで頂き、

気を良くして帰途。 これで仕事にも弾みがつくというものです! 笑

 

 

 

 

 

 


北上市綾内 春祈祷 其の参

2019-01-15 10:05:19 | 郷土芸能

春祈祷、わかっているようで、よくわからない言葉だと今更ながらに・・・。

ネットで見ると新年に神社や個人の家等で神職が商売繁盛・家内安全等を祈念することの他、

権現様の獅子が新年に家々を巡回することも春祈祷のひとつのようです。

今年は13日に行っていた綾内周辺ですが、もしかして小正月行事として行なわれていたのかもしれません。

この小正月、遠野では明治時代には田植踊りが盛んに行なわれていたようです。

遠野と云えども、それは「昔、あったずもな、今は無いんだど」の世界です。

さて、春祈祷も最後となります。

 

日もだいぶ西に傾いてきました。

万延元年建立の早池峰大権現の石碑も赤くなっています。

江戸時代後期、桜田門外の変が起こった年ですが、この地域の北側にある山を越えれば南部領。

ここにも早池峰信仰があったことがわかります。

 

権現様の祈祷は続きます。

 

早くしないと日が暮れてしまいます。

 

例年と比べようがないぐらい、雪が少ない今年の1月、それでも日当たりの悪い場所は、それなりです。

 

3時頃には、このお宅が最後なので、そこまで見ていったら如何ですかと云われて、既に4時過ぎ

 

祈祷して歩く最後の家での権現舞

 

舞いの後は、例によって少しだけ御馳走になるようなので、

 

その間に家の方から変った物を見せて頂きました。

沢水?湧水?を家の中にひいて利用していました。知恵ですねえ~

 

二班に分かれていた神楽の皆さんはこの後、地域の集会所に戻って最後の権現舞をするということで、

待っていましたが、なかなか立たないこの班の皆さんを置いて、

 

集会所に向うと、もう一組がちょうど山の神への打ち鳴らしをするところでした。

暗くて車のヘッドライトでの撮影ですが、向いている先に山の神が祀ってあり、

集会所の東側には綾内神楽の幕にある秋葉神社があるようでした。

 

二班の神楽が揃ったところで、神おろし

 

全員で拝礼し、

 

下舞いの後に二組の権現舞

 

成立時期が異なる神楽が、この地域にあると教えられたとおり、舞にも若干の違いがあるようです。

 

最後は集まっていた皆さんで胎内くぐりをし、

 

頭をカミカミして頂いて

この日頂いた御礼の金額を集計し、直会をして終わりとなるようでした。

まだ、いいじゃないですか!と云われそうでしたので、近くにいた人に御礼の挨拶をして撤収です。

あらためまして、綾内周辺の皆さんには感謝です!


北上市綾内春祈 祷其の弐

2019-01-14 17:01:29 | 郷土芸能

今朝の遠野は、雪は降らねど寒さ増すで、最低気温が-10℃以下だったようです。

昨日開催された市内の成人式及び消防出初式のためか、昨夜は賑わっていた町中も、今日は静寂。

仕事も休んでいるところが多いのかもしれません。

さて、前回に引き続き、北上市口内町綾内地域周辺の春祈祷のその後です。

 

綾内がどの辺かと云うと、釜石自動車道江刺田瀬インターを降りて国道107号線を北上市内へと進むと

最初に信号のあるまとまった集落のあるところが江刺梁川、そのまま北上方面へと進み、

右手に萬蔵寺の看板が見える辺りが口内町で、お寺さんを過ぎた処が今回の春祈祷の場所です。

地図で地名を見ると宝積、綾内、新田、長洞になるようです。

この地域の北側にある山を越えると東和町駒籠、下浮田に行くようですが、途中から砂利道とのこと。

細い川の両側に田畑があり、その背後は山で、数百メートル隔てて家々が散居しています。

 

宿と称して神楽の祈祷を受け入れる家の多くは、天照皇大神の掛け軸、ロウソク、米、酒、

若干の供物、御礼と水の入ったバケツが用意されています。

 

どの宿でも最初に下舞いを舞い、その後、祈祷権現舞となるようですが、

目がいったのは、普段使いのバケツと水で、まさに火防の意味合い濃厚といった感じです。

 

戸袋に違い鷹の羽紋があるこの家、以前の持ち主は「きくち」さんだったようですが、

現在は関東から移住してきた方が住んでおり、対面してびっくり!知り合いでした。笑

 

この辺りの家は玄関が広い土間になっているところが多く、遠野の家とは趣が異なります。

 

天井が無いので権現様も頭をぶつけません。笑

 

玄関からの明かりで太鼓の皮が透け、びっしり文字が記されているのが見えました。

金銭に関する言葉があるようで、この太鼓を作る際に寄付をした方々の名前が書かれているのかもしれません。

 

途中でみかけた石碑群 馬頭観音は嘉永元年

 

こちらは大きな家です。

 

内部は柱や梁をそのまま使い、現代風にリフォームしたようですが、やはり玄関は広くとってあります。

最初は冗談で神楽の為に、このようにしているのかと思いましたが、

何軒も見るうちに、本当にそうなのではないかと思うようになりました。笑

 

権現様に頭を噛んでもらうのは見かけますが、この辺りでは帽子も噛んでもらっていました。

この日居合わせなかった家族の健康を祈祷して頂く意味合いかな?と、勝手に思った次第。

 

祈祷が終わると、若干の飲食が振る舞われ、部外の私が頂くわけにも行かないので、

その都度、外へ出て散策していましたが、ここでは神楽の皆さんにも勧められ、御馳走になりました。

これで途中で帰る訳にも行かなくなりそうな気配です。笑