「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

流れ

2008-03-29 17:02:37 | 景色
  久しぶりに鍋倉下の来内川へ。

 

 この川沿いの石畳?までは降りたことがなかったので、ある意味観光客気分?

 

 中の橋、お多賀橋、新橋が見える。

 

 そして、これ!どなたかは、マネキンと称していたが、私には、八軒丁のものもこれも、西洋のヨロイに見えてならない。

 このガチャポン、小学3年生まで住んでいた家では普通に使っていた。飲用水として。

 

 「ながれ」・・・・町場の商家には、敷地にこのような水の流れがあり、家庭用水として普通に使っていたそうだ(水車があったかは不明)が、早瀬川の堤防が築かれるにしたがって、水脈が変化し枯れたのだと聞いたことがある。この流れを移築してあるのが、水光園の庭園内にある。

 

 ヨロイを見ていて思い出したように、こちらへ・・・仲町のポスト。昔の商家の路地を通ってその先に見えるのは赤いポスト・・・・と勝手に背景を想像する。

 

 今朝は、だいぶ冷え込んだので、お六は雪化粧。今晩は、もしかして雪かな?

 桜が咲いている江戸辺りではお花見とのニュースだったが、東北の山奥ではいつのことやら。
 

小出

2008-03-28 14:33:16 | 景色
 春三月は分かれの季節。

 

 末娘が通う小学校でも、9名の先生方が、学校を去る。退職される方や、やっと家族揃って生活できる方、新婚で奥様の実家そばに行く方、隣りの小学校へ行く方など、人数のぶんだけそこには人間模様がある。こうして、先生を見送って7年目、別れは妙に悲しいものだといつもしんみりしてしまう。

 

 父兄の中にも今春で小学校PTAを卒業する方々が。前会長さんをはじめ、馴染みの方々が去る。


 お世話になった皆さんに感謝。そして、新天地でのご活躍をお祈り申し上げます。エールで送れなかったことが心残り。


 前振りとは全く関係なく、別話題。

 

 附馬牛町小出。MY小出といえば、この石碑群。「小出待華」と記された標柱がある。

 

 そして小出橋。

 

 この橋の向こうに見える茅葺屋根の建物も好きなもののひとつ。

 

 林道小出中滝線を行くと、山神。この社は、友人の大工さんが造ったもの。この辺りは、この林道開通によって、周辺の環境整備が進んでいる地域でもある。

 

 そして有名な重湍渓。廻りの緑はまだ少ないが、きれいな水はそのまま。いつかここで泳いでみたいと思って何年経つんだろう。(一人では熊が怖くて・・・)

 

 この林道の終点が、中滝。かつては、附馬牛の町からここまで来ると行き止まりといった感じで、隠れ里の雰囲気があった場所。

 

 この道路の終着点にある山神の社。和野と呼ばれる地域。この地名は附馬牛、綾織、土渕にもある。以前、見た土渕の山崎観音には現在の和野という字が上野と書かれていたことを思い出す。「うえの」→「うわの」→「うぁの」→「わの」なのだろうか?

 同じ場所へ行く場合でも、行きと帰りの道を帰ると様々なものが見える。

 もう一声!

 「井手」→「いで」→「いぇんで」→「えんで」→「飯豊」なんてね・・・。

黒石寺

2008-03-26 17:16:30 | 寺院
 観光ポスターで一躍有名になった蘇民祭の舞台がここ黒石寺。

 

 天平元年(729)、奈良法相宗薬師寺五代行基和尚が東奥に行化し、この地に至り一堂宇を造り、薬師如来像を一刀三礼のもとに手刻安置し、次年に寺を建立し、東光山薬師寺と号して開山。

 

 延暦21年(802)、坂上田村麻呂は、鎮守府胆沢城を築き、城内に鎮守府八幡宮神社、城輪に石手堰神社を官寺として建立、この薬師寺はその神宮寺的な存在となる。

 

 大同2年(807)、夷賊によって焼失。

 嘉祥2年(849)、慈覚大師円仁が堂背の大師山に至り、石窟に座禅し、行基菩薩の霊夢を感じ、薬師寺を石窟の蛇紋岩に見て黒石寺と、北の山中に妙見祠があることから山号を妙見山と号して再興。これにより全山天台宗とし、薬師如来を本尊とするが故に薬樹王院とも号した。

 

 平泉藤原氏三代帰依最も篤く、仏餉灯油の地を寄進される。
 
 天正年代(1573~92)、葛西氏より璽田(お墨付の田)を寄進され、伊達公もこれに習い、歴代藩公もしばしば妙見神と薬師如来参拝に訪れる。
 元禄2年(1670)、幕府が東叡山寛永寺を菩提寺としたことにより黒石寺もその直末に。幕府が亡び、明治3年(1870)、再び比叡山延暦寺の末寺となり今日に至る。
 また、旧正月7日夜半から8日早暁にかけて「黒石寺蘇民祭」が行なわれる。

 以上が、黒石寺の歴史である。

 そして

 

 獅子



 獅子・・・・二代目高橋勘次郎による彫刻。福泉寺本堂・常堅寺山門で1月に紹介した小原樗山の師匠である。

 

 ここで、思わぬ人物の名を目にするとは考えてもみなかった。

 

 こちらも。

 

 20年近くも前に一度訪れているところなのに、その時には、それほど歴史にも建物にも興味がなく、ただ、この茶色の建物の形が妙に頭に残ったのだが、今回は、得るもの多しの再訪となった。

 

 渋いものに目がいくようになってきたのは、年齢がそうさせているのかもしれない。

 


 このきれいな川を上っていくと、茅葺屋根で有名な正法寺へと行く。その奥が大原氏の根拠地。

 奈良・平安からの歴史を重ねている地域を辿ると、なぜ、なぜ、と思いながら、これらの地域は北上川を下って平泉・石巻へ、そして太平洋から鎌倉、そして奈良・京の都までつながっているのだと往時を偲ぶ。

中尊寺

2008-03-24 19:44:52 | 寺院
 家族にカデデもらって(仲間に入れて頂いて)、中尊寺へ。

 

 女の中に男が一人という状態なので、最近は全員で出かけることが少なくなってきたのだが、嫁さんの提案で、ここに来ることになった。彼女なりに、私に気をつかってここを選択したのだろう。と書きながら、独身時代、嫁さんとのデートでは、こんな感じの地味な場所に行ったことを思い出す。

 

 世界遺産登録に向けて頑張っている平泉ということもあってか、画像にはあまり人は入れていないが、早朝から結構な人数が参拝していた。

 

 若い時には、あまり意識しなかったが、あらためて中尊寺を眺める。そう、これが、あの中尊寺。頼朝によって滅ぼされた藤原氏の時代からの名刹。(建物は再建)

 

 武蔵坊弁慶を祀る弁慶堂。

  
 
 広い境内には、この阿弥陀堂のような小さなお堂が点在しており、京都を彷彿させる。


 

 そして、最近、自販機周辺を木質化して景観に配慮したと報道された実物を見学。売っていたのは、ビンに入ったコーラと小岩井牛乳で、どちらも県内産。当然、家族で、味見をする。(映っているのは、他の人)

 

 中尊寺といえば、金色堂。まばゆいばかりに光り輝くといったイメージがあるのだが、実物は、そういうものではない。現在の京都の金閣寺が輝いているのは、改修工事によって金箔の張替えを行なっているからで、それ以前のものを見た人はあまり感動しなかったのと同じようなもの。一般の見学者がそれほど感動した様子がないのは、これと同じことなのだろう。私自身は、平安時代に総金箔張りのお堂がこの陸奥に建ってあったということだけでも、すばらしいと思っているのだが。天治元年(1124)の造立で、中尊寺創建当初の唯一の遺構。

 

 ここで、うれしい発見は、唯一貼り出されていたポスターが遠野だったこと。それも、黄金文化の平泉に対して農山村文化の代表として、茅葺の水車小屋&御婆さん(おんばさん)

 

 松尾芭蕉も訪れていることを忘れてはならない。(西行も)

 

 元々、金色堂を入れていた鞘堂には、藤原秀衡、義経、弁慶の八百年忌供養塔が建つ。

 

 この境内で一番興味深いのは、白山神社。一般的には、伊達公によって再建された茅葺屋根の能楽殿が有名。(個人で楽しむ用途以外での撮影は許されていない)

 私が、郷土の歴史に興味をもった頃、当然の如く、頼朝の奥州征伐にも目がいき、その時読んだ本に、中尊寺のある平泉は、白山縁の平泉寺との関わりから、地名となったのではないかと記されていた。また、その証拠のひとつが、中尊寺鎮守としての白山神社であると。

 遠野周辺にも、平安時代創建を謳う神社に白山があることと中尊寺との関わり、ひいては藤原氏との関係を想像してしまう。

 

 じっくり見学するには、まる一日必要な寺院群であり、紹介したい建物などは撮影禁止であったりと良さを伝えることは難しいが、陸奥の歴史は、平泉なしには語れないこともあり、いずれ、じっくりと見学したいと、またまた、思った次第である。

 10時には、多くの県外ナンバーの車やら、中国?台湾?のツアー客やらで賑わっており、岩手観光の中心地だと実感したところでもある。

 補足:

 私以外の家族は、神社仏閣に興味があるわけでもなく、まして、歴史には・・・・当然、お目当ては、観光地で売っているお土産品であり、食べ物。そして、親父のご機嫌をとった後は、平泉から北上・花巻とショッピングセンター巡りとなったのである。・・・涙・・・・感謝?!
 

遠野守大権現

2008-03-22 22:22:55 | 神社
   行って来た!

 午前中事務所に顔を出し、午後は仕事と考えていたがどうにも気になって、衝動的に車を走らせる。詳細な場所の確認もせずに、現地周辺に着く。しかし、ここと思った場所には、別な社があり、しばし、うろつく。

 

 独自には発見できず、畑仕事をしていたご婦人に尋ねる。
「遠野大権現」という神社はどこでしょうか?」
「今来た道を戻って左に行くとすぐだよ。」
「ところで、おたくさんは、どこから来たのス?」
「遠野から来ました。」
「はあ、先だっても、誰か見にきたんだドモ・・・・」
「遠野で神社関係を調べている人たちの間で、話題になってまして・・・・」
「はあ、そうですか・・・」
 
 

 思ったより、立派。

 

 この神社がある場所が元々の山の地盤で、周囲は宅地化されている。

 

 本来は、R396から、この道を上がって参拝したのだろうか?



 懐かしい物にあったような気がする。

 

 まさに、「遠野守大権現」

 

 しばらく、周辺を歩いてみるが、遠くまで広がるりんご畑にちらほらと人が見えるだけで。



 ここは、山の斜面をりんご畑にしている果樹農家が多い地域であるが、かなりの勢いで宅地化が進んでいるようだ。

 りんご農家・・・・遠野守大権現・・・・個人的予想の「点と線」

 次回訪ねるときは、別当さんにお話を伺いたいと思う。それにしても、先日、訪ねてきたのは誰なんだろう?それも気になる。

 

 戻って地図を見るときちんと載ってあった。