「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

日々雑感

2014-01-10 12:00:02 | 愛宕

今年最初の仕事は、昨年末で完了した物件の残務処理から

仕事はじめの日から二日目、やっと待っていた電話が入り、大船渡へ

 

現地での作業を終わり、お昼

御贔屓頂いている太公望社長のご案内で、知る人ぞ知るそば屋へ行くも、休み

 

次に向かった先は、「やきもも」

ではなく、「百樹屋」(ももきや)さん

こじんまりとした店内には、来店した多くの有名人の写真やサイン色紙

中でも目をひくのが、福山雅治さんのもの

 

ここの人気メニューはカレーうどん

半ライスもプラスしてメタボを気にしながら、一気に完食!

大変おいしゅうございました!

 

で、この日は、上の娘の誕生日

 

いつもと同じケーキ

昨年は、ろうそくの本数を聞かれ、適当に一袋ぶんだけを頼んだのだが、全く年齢と関係無し

今年は、私が頼んだわけでもないので、そのままお持ち帰り

結果、ろうそく無し

主役も今度の連休で、盛岡へ戻る

 

さて、年末の事

ゴンゲン様から情報を頂いていた棟札をあらためて拝見

 

正徳三年(1713)下宮守に愛宕神社を建立した時のもの

願主は周辺地域の人々、禰宜は明覚坊、導師は千手院宥栄

その他工事関係者とともに地元の松源寺の名前も見える

千手院は遠野大徳院本山派に属する修験者で、鱒沢村善行院の弟子として山伏となり、

その息子が宥栄となるようで、元禄16年に官名を得た千手院二代目

大徳院は本山派であるのに対し、善行院は羽黒派

千手院は羽黒派に弟子入りし、後に本山派になったものか・・・?

禰宜の明覚坊は、同じ下宮守で羽黒派である

 

正徳三年頃は、徳川家継の時代といってもピンとこないが、大奥の江島生島事件の頃

この正徳から享保の頃の遠野は、小友や上郷で金山が発見されている時代でもある

両川覚兵衛が神社・寺院に仏像等を寄進したのもこの頃の出来事

 

 


2012 綾織町山口愛宕神社例大祭

2012-08-25 22:14:37 | 愛宕

11時少し前、昨年空振りだった愛宕さんへ

 

例年、山谷川を挟んだ二つの地域の持ち回りで出発地が変わるようだが、

今年は山口中央公民館出発

ここは、明治12年に設置された綾織尋常高等小学校山口文教場跡地

 

祭列を組んだ一行は、国道396から見える鳥居を潜り

 

九十九折の坂道をえっちら、おっちら

 

そして、三周

 

石上神楽の打ち鳴らしにより神事

 

神楽もしし踊りも吹く、師匠も健在の様子

 

神事が終わると地元山口太神楽の奉納

 

ここを訪れるのは、この太神楽の様子が気になるが故

イベントを除き、ここでしか見られない郷土芸能

既に笛はカセットテープによる演奏となっている

 

石上神楽・・・・・砂子沢以外の子供達から応援を頂く

 

綾織唯一のしし踊り

 

9月9日に行われる綾織駒形神社の例祭を経て、遠野まつりへと突入

 

既に準備万端の様子

 

昨日に続いて夕方に雷鳴轟き、やがて、雨

そして、

仕事帰りの頃には、夕日

30℃超えが続く、8月

仕事をするなら、夜に限ると負け惜しみ 笑


2012 新里愛宕神社例祭

2012-07-24 19:40:57 | 愛宕

遠野なんだり・かんだりと云いつつ看板に偽りありで

いつも、あればり、こればりで申し訳ありません。

今回も、あれです!

 

下組町の西はずれに愛宕神社例祭の幟

愛宕神社~祭神伊邪那美命 天応元年(781)和気清麻呂が平安京鎮護の神として

愛当護大権現を勧請したのが基となり、後、愛宕大権現として諸国に広まる

日除けの神の他、塞の神・境の神として病疫除けとして、村の入口などに設ける

遠野物語拾遺64話には、この愛宕さんの話がとりあげられてる

 

24日の例祭の前日・・・・宵宮

下組町の真ん中にある建設会社の敷地に里宮として社が置かれ、

自治会の方々による出店やステージ発表で盛り上がる

 

残念ながら、郷土芸能の奉納は無いようで、雰囲気だけ味わい退散

 

例祭の日

 

宝暦12年(1762)に宇夫方広隆によって記された遠野旧事記には、次のようにある。

横田村(現在の遠野盆地中心部?)の愛宕は

遠野殿(八戸から南部氏が移封する前の統治者阿曽沼氏)時代の勧請

延宝2年(1674)大破していたお堂を修復

坂の石段は、正徳6年(1716)新町の両川覚兵衛の寄進

 

愛宕神社は、どういう訳か、いずれも急勾配となる山の上にある

 

息せき切って階段を上ると、次は坂道

この日は、草取りしている方々がいて、不安な思いをせずに登る

 

平らな境内では例祭の準備

 

遠野物語拾遺では、日除けとして六日町神明神社の大徳院という山伏が登場するが、

宝暦の頃、大徳院は熊野権現(どこにあったのか不明)と加茂神社(アクティ本店道路向かい)の別当で遠野の修験者の親分格の人物。

当時、その縁者は六日町神明神社とこの愛宕神社の別当として和光坊と名乗っており、遠野物語拾遺に集録される頃には、本家大徳院は遠野を離れており、和光坊系の方が後に大徳院を襲名したものと思う

 

後の大徳院が別当をしていた頃の元愛宕神社が隣接して祀られている境内

 

では、この立派な建物は?

 

明治の神仏分離令・山伏禁止令などにより、神と仏を一緒に祀ってはならぬということで

廃却か分離を迫られた時代

(この時代には神職による神楽禁止令もあったという)

ということで、この拝殿は、綾織町の胡四王権現社殿であったものだと聞く

その胡四王は現在、同町の駒形神社に一緒に祀られている)

廃藩置県以降の町村制により、横田村から綾織村に編入になったことから、

同じ村のこちらへ移設したのかもしれない

 

その頃の建物事情を知る方

 

役員が揃ったところで、予定時間より早いが神事

綾織町出身で宮城の神社にお勤めだとお聞きした宮司さん

 

神仏分離令により、愛宕神社から新町にある常福寺へ移された延命菩薩像

享保時代、新町通りの常福寺側全てが敷地だったといわれる両川覚兵衛が奉納建立したもの

愛宕神社の境内に行くと、この菩薩様がどこにあったのだろうと思う私だが、

愛宕橋が見える石段中腹にある平らな部分では?と想像たくましくして退散


2010 綾織町山口愛宕神社例大祭

2010-08-24 22:28:07 | 愛宕

この情報は、二日町の人高橋君より聞きたり。高橋君は話し上手にはあらざれども誠実なる人なり。

 

ということで、こちらへ

 

国道下の農道から見るターゲット周辺の景色は新鮮そのもの

 

午前中の例祭は、午前10時を目安に行動することが多いが、こちらへ到着すると11時あたりから始まると教えられる。

 

「年寄りは早ぐ登れねがら・・・・」と家を出た後、この鳥居でまず休憩

 

一足先に神社まで登り参拝を済ませても時間が余り、周辺を行ったり来たり

 

そして、注連縄飾りに集まった地域の「若げ~したズ(若い人達)」の車に乗せて頂き、行列に合流

 

ここでは数箇所に分かれた地域が持ち回りで祭りの取りまとめ役を

務めているのだということで、今年は、田屋の大杉近隣の方々が務める。

 

行列は二日町駅踏切から北へ続く道を、国道沿いの石屋さん前を通らず、細い旧道を神社までまっすぐ登る。

 

国道そばの鳥居をくぐると、愛宕神社のご多分に漏れず、急な山道を登る、登る。

 

そして、例の如く神社の廻り三周

 

神事が始まる頃、先に鳥居でお会いした二人が祭りの始まりに笑顔で応える

 

一方、行列からここまで休まず歩いてきた「若げした~ズ」はご覧のとおり

 

神事が終わるあたりに、神楽奉納

今年は、石上神楽ではなく、鷹鳥屋神楽

なんでも石上神楽の胴元?が調子を悪くしているとか

 

地元、山口大神楽

 

少数精鋭で頑張る

 

そして綾織しし踊り

 

しし踊りの後、子供神輿が奉納され、下山となる。

 

この後、楽しいご苦労会が待っていると思うと、下る足の速さは子供も大人も同じであった。

 

どんどはれ!

 


細越愛宕神社

2010-01-25 23:34:58 | 愛宕

 新しい釜石道を通って、平倉から釜石に向うと右手の小高い場所に神社が見える。今は、早瀬川と平行して通るこの道路によって、住宅の点在する集落からは見えなくなってしまった。

その場所へ行くには、佐野踏切を渡って右折し線路なりに戻るか、

この写真の位置を徒歩で越えると最短?

 

それにしてもわかり難いが、やがて、この跨道橋を通ればすぐ。

とは云え、ここに至るまで、誰も通った形跡のない雪道を歩いたのだが。

 

 

今回はタオル君2号を道連れ

 

年取り前に、注連縄が飾られたようだ

 

建物の入口は常に開けっ放しで、神棚のみが置かれている。

(この両引き戸は、建物が若干傾いているために、動かないのだが)

 

 この北側、早瀬川の向こうには、オシラサマの標柱のあるかつての大蔵坊の家があるのだが、延享2年(1745)の修験由緒書上には、細越村愛宕別当大蔵坊由緒として五代目までが掲載され、本尊は木像将軍地蔵であり、宝永7年(1710)に2尺四面のお堂が再興されていることが確認できる。

 

 また、いつもの御領分社堂(宝暦13年(1763))には、

愛宕社 二間四面五尺間かやぶき 別当大蔵院とある

 

 

 ここも、前回の愛宕さん同様に、荒廃が進んでいる

 

主人のいない建物が行き交う車を見つめる

 

交通量の多くなってきている釜石

 

しばらくぶりで、50羽ほどの白鳥を見る

近所に住むおばあさんが

「この前、ツガイの向き合う写真を撮りに来ていた人がいたが、ダメだったようだ!」

と教えてくれた。遠野ブレンド関係者だったのだろうか?