「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

胃の用心

2008-06-30 13:10:46 | 地域
 金曜日に、地区子供会の夜回りが行なわれた。

 

 例年は、夏・冬休みなどの長期休みの行事のひとつなのだが、昨年から地域の食育活動なるものが始まり、PTAにとっては活動がひとつ増えたことでこの時期に。

 

 この日も、サッカーのスポ少に通う子供達の練習終了を待って始める。ちなみにこのスポ少は先ごろ行なわれた県大会で準優勝。(将来の遠野サッカーを担う宝でもある)

 

 親も一緒に。

 「マッチ一本火事の元」のかけ声は今の子供たちも普通に言う。親たち曰く「うちの子供、マッチ使ったことないと思う」。
標語のように定着しているのだろう。

 標語と言えば、日曜日、我家の末娘が、市内某団体の環境標語のコンクルールで最優秀賞を頂いた。涙!

 

 ご褒美は、喜楽での食事。

 

 いかにも梅雨といった天気だったが、家族は晴ればれ。

 

 子供達のリクエストはチャーハン。

 

 嫁さんのラーメン。

 

 私の五右衛門。

 

 五右衛門は大盛。+餃子。

 

 土曜の山女&ジンギスカン、日曜の五右衛門。夜回りの時みつけたこの幟が妙に気になる。

ある会ダ!

2008-06-29 14:45:19 | その他
 健康診断から始まった土曜。

 

 これまでは、市内で行なう一斉検診を受診していたが、今年からは所属する保険組合ごとの受診に変わった。

 

 指定された時間に行くのでスムーズに進み、残り時間は仕事へ。

 そして・・・

 

 遠野ブレンドの集い。快く会場を提供してくれた宝飯爺さんが時間前からやまめを焼いていてくれた。

 

 宝飯爺さん、とらねこさんと乾杯の練習。

 

 釜石から参加してくれたHanaさん持参の海の幸をさばく宝飯爺さん。(続石に釣りっこをする人だけあって手際の良さに感心)

 

 ジンギスカンをつつきながら・・・・。私を含め、ここ一週間で何度目かのジンギスカンという人もいたが、本当に遠野の人がこれが好き!

 

 三々五々、加わる人がいる度に乾杯!

 

 乾杯する度に誰かがシャッターを♂

 

 参加してくれた方を写真で確認

 宝飯爺さん+奥さん+宝飯童子。宝飯爺さんのお向かいのペットクリニックの奥さん+ジュニア2。とらねこさん。romiさん。hanaさん。座敷親父さん。一如さん+ドロン如さん+如童子。chonchonさん。aboutさん。初参加のksuzさん。そして私。総勢17名。

 

 通いブロガー諸氏の健康も祈願して、また、乾杯!

 

 そうだ!タマ千代さんに電話してみよう!との一言から、みんなで声を聞く。(夜分すみませんでした!)

 

 それぞれが、それぞれの話題で盛り上がる。(子供達も負けていなかった。)

 

 きれいな写真を撮る方々は、カメラ談義。

 

 秋に第二回画像展をすることで、ある会ダ!の夜は更けた。そして、上早瀬橋を渡った者もいたとか・・・。

あっち、こっち

2008-06-24 18:13:52 | その他
 ここのところ、天気が悪かったり、あっちこっちの仕事やらで、落ち着いて更新できない。(まずは、言い訳から)皆さんのブログを見ていると似たような状況なのかなあと。

 

 それはそれとして、先日手に入れた本。遠野ブロガー諸氏が2月にお会いしたあの方が出されたもの。法隆寺・薬師寺の西岡棟梁へのお茶出し時代などのことも書いてあり、久しぶりによい刺激となった。お奨めの一冊。

 

 梅雨の晴れ間に、去年の暮れにできた八幡の市営住宅に寄る。地震の被害はないようだ。贅沢だとか、広いなどと巷では云われがちだが、国で定めている基準というものがあるようだ。

 

 家を建てる時、どれくらいの職種の人が関わるものなのだろう?

 ①基礎~重機を動かす人。鉄筋を組む人。型枠を組む人。コンクリートを作ってもって来る人。コンクリートを圧送するポンプ車を操作する人。コンクリートを打設する人。コンクリートの上を平に均す人。砂利を採る人。それを敷く人。土を掘り埋める人。
 ②軸組~木を山から伐採する人。製材する人。加工する人。建て方をする人。外壁を張る人。サッシを加工する人。取り付ける人。外壁に塗装する人。
 ③屋根~瓦又は鉄板を加工する人。取り付ける人。
 ④内部~床やボードを張る人。壁を塗る人。クロスを張る人。塗装をする人。障子を作る人。襖や障子紙を張る人。
 器具~電気配線をする人。その器具を取り付ける人。流しや手洗い器を取り付ける人。ユニットバスを組み立てる人。蛇口などの機器を取り付ける人。
 ⑤その他~それぞれの職種の監督をする人。各種工事の法定検査をする人。細かい備品を納入する人。庭屋さん。その他。

 これだけ沢山の職種の人が関わって、やっと、家になる。一般的には一生に一度の高額な買い物となるのだが、そのお金が、地元に還元されれば、経済効果は抜群なのだが、最近は、そうもいかない家が多いようだ。「みのもんた」さんの宣伝は強力だということなのだろう・・・・か?

 

 ところで、先週末のこと。突然のお誘いが。お祭りハンターの私に誘惑の魔の手が。

 

 とあるアジトで、ジンギスカン!

 条件は自分の飲み物は自分で持ってくること。去年開催された時に私の携帯が紛失し(よくあることダベ!)、その携帯を持っていった方が今年も隣りに座り、その話題で多いに盛り上がる。

 
 さて、さて、今週末はどうなるやら・・・・。

 ●遠野ブロガーの集い~今年もやるのか写真展~ジンギスカン&ジャッコもあるよ!~初参加大歓迎~パートⅡ●

参加希望者はこちらをご覧下さい。

 

 しっかりとした青空が見たい。

 

鮎貝八坂神社 其の弐

2008-06-21 14:40:48 | 八坂
 どうしても、気になることがあり、図書館へ。

 

 明治初年の地図に、確かに本宿万左エ門があった。

 

 安永6年(1859)の御支配帳には、本宿覚内がいる。

 その後、南部藩参考緒家系図を確認すると、

 本宿氏(本姓鈴木)~本宿老之丞が天正年中に本宿館に住して本宿姓となり、その息子因幡家重(母は遠野孫三郎広郷の娘)は、家督を相続して叔父大槌孫八郎を後見として閉伊郡一円の目代となる。三代家冶の時、八戸弥六郎が遠野移封となり、盛岡南部に仕官する。

 これによって、本宿総領家は、遠野を離れる。

 二代因幡家重の二男、本宿助兵衛家秋は遠野にて浪人となるが、息子万左衛門家高は、八戸弥六郎の家臣となる。

 遠野旧事記によるところの、阿曽沼氏の家臣だったものの長男は遠野を離れるように云われ、老人や二男三男はそのまま残った。ということに合致する。

 そして、因幡の家系は、万左衛門→万兵衛→条右衛門と続き、子孫はそのまま八戸弥六郎家臣として続く。

 

 この鮎貝の地頭である本宿氏は、このような経緯で、遠野に名を残すに至る。

 

 最後に、これは社内に祀られる牛頭天王である。

 時代は不明であるが、古くから、鮎貝八坂神社にあるのだと云われる。

 応神天皇として建物を再興していながら、社内には、この木像があったことになり、この木像に因んで、明治に八坂神社として改名したというのが、結論なのかもしれない。
 但し、この木像の製作年代やいつからここにあったのかは解明されていない。 

鮎貝八坂神社

2008-06-19 18:28:07 | 地域
  お祭りハンター6月15日の午後の部

 ●鮎貝八坂神社●

 一般的に6月15日を例祭と定めている神社は、京都の八坂神社であり、素盞嗚尊を祭神と定めている。八坂神社は元々祇園社と呼ばれ、その祇園精舎の守護神は牛頭天王である。京都八坂神社も明治の神仏分離令以降に改名された名前である。これに因んで、当初牛頭天王を祀っていたお天王さんが明治になって八坂神社と改名した社が多く存在する。


 
 また、この日は八坂神社の他に愛知県津島神社に関連する神社でも例祭日となっているようで、岩手県立博物館編「岩手民間信仰辞典」には、遠野市小友町の津島神社では、天王さまをワラ馬に乗せて送ると記されている。(ところで、小友町の津島神社とはどこなのだろう?長野にある厳島神社のことなのだろうか?その存在を今だ知らず)



 そして、「岩手民間信仰辞典」で云うところのワラ馬の行事が現在、木版刷りの紙馬となっているとのことで、ここ鮎貝八坂神社にも奉納されていた。実は、このことを知ったのは、この日参加していた長野しし踊りの方がこの紙馬を見てポツリと云った「ここでもやっているのか・・・」の一言が元となった。この馬に乗るのはところによっては田の神の場合もあり、作柄を見て廻るのだという。豊作祈願の意味合いが濃いようだ。

 

  さて、本題に戻り、

 この鮎貝八坂神社を記したものに、前々回も記したように「小友勝蹟志」とHP「遠野の神々」があり、両方をまとめると、
 
 ○鮎貝志摩守が気仙攻めの際に旗竿に境内の杉を使う
 ○享保5年(1720)創建
 ○元文5年(1741)牛頭天王を祀る
 ○天明年中(1781~1789)素盞嗚尊を祀る
 ○嘉永元年(1848)応神天皇を祀る

 ということになるのだが、これを見た時、どうしても納得のいかないことが何箇所かあり、今回その疑問を解消するヒント探しの祭り見学となった。

 

 祭りは、近くにある消防コミニティーに関係者が集いお昼を食べ、それから始まる。

 

 午前中に地区内を巡回していた子供神輿をはじめ、鮎貝神楽、そして長野しし踊りが行列に参加する。猿田彦(巌龍神社では天狗と呼ばれている)を先頭に地域の重鎮が参列。

 

 神社までの道を神楽の調べを奏でながら。

   

 境内では、地元の小学生がお出迎え。



鳥居前で踊る長野しし踊り。 

 

 神社の周りを例によって三周した後、神事を行なう。

 
 
 長野しし踊りも鳥居ほめに続き、本殿へと向う。

 

 威勢のいい太鼓にあわせ、奉納の踊り。

 

 しし踊りの太鼓の音にも動じない子。もしかして、生まれた時から聞きなれた音なのかもしれない。

 
 静かになった本殿には別当さんと地元重鎮がおり、午前中に撮影済みの札を再度確認させて頂く。実は、この別当さんは私の同級生で、お互いにそれと知りながら、話をする機会を窺っていた。

 

 社内に納められている御札は、9枚。そのうち2枚は解読不明。そして、1枚はこの神社とは別のものと思われる稲荷さんのもの。

 文政元年(1818)再興稲荷明神寶殿 願主 地頭 本宿万左衛門 
         別当 ○之助 遷宮導師 源龍院

 減龍院は岩龍山大聖寺(現在の巌龍神社)を司る羽黒派の修験者である。

 江戸時代のこの地域を治めていたのは、本宿(もとしゅく)氏であることがわかる。本宿氏についてはこちらを参照。南部直栄以降にいた本宿姓の人物となると、本家筋、総領の人物ではなく、それに連なる家柄で、直栄以降に家臣に列せられたものと思われるが、土渕ではなく、小友だということに興味をおぼえる。

 

 わき道にそれたが、八坂関連の御札に戻ると、年代順に

 ○元文5年(1741)再興応神天皇寶殿 願主 本宿萬兵衛家高 
                      本宿条右衛門家正
          遷宮導師 善応寺宥筍

 ○文政4年(1821)再興応神天皇拝殿 別当三之助
          遷宮導師 源龍院本教

 ○寛政12年(1800)再興応神天皇拝殿 願主 地頭 本宿萬左衛門
           別当 五兵衛 遷宮導師 源龍院本考

 ○明治9年(1876) 奉斎八坂神社神素盞嗚尊 
           今般皇大神御舎寺新米作工諸社止改正
           祠掌 館林貫三

 ○明治40年(1907)八坂神社屋根修復拝殿新築 社掌 山名海見

 ○昭和23年(1948)八坂神社修繕 多田市三郎

 享保創建の確証を得ることはできなかったが、少なくとも元文5年の時点で、再興となっていることから、それ以前の創建と考えられる。また、この再興に際して導師を勤めているのが善応寺住職であることから、重々しく再興された神社であると想像される。それも応神天皇を祀る神社として。

 宝暦10年(1760)編纂の「御領分社堂」には、応神天皇名の小友村の神社はなく、八幡宮・八幡社・牛頭天皇の3社が俗別当のいないお堂として掲載されているが、この書が編纂される前に応神天皇として再興されていることから、当初は八幡さまではなかったのかとの疑問が残る。

 そして、神仏分離令によって、明治9年、祭神を素盞嗚尊に改めたとはっきり記されており、その時からここが八坂神社となったのである。この時の祠掌館林貫三氏は、遠野郷八幡宮の祠掌でもあった。その後の明治40年の札にある山名海見(わたみ)は館林氏と同様に遠野郷八幡宮の社司。

 応神天皇が八坂神社へ至る経緯は以上となる。また、鮎貝志摩守の旗竿の伝承については、気仙に攻め込んだという話しの筋からすると本来は気仙から遠野へ奪還のために攻め込んだということが事実に近く、後で、創られたか、話しの途中が抜けた伝承として残っているものと考えられる。

 それとも、阿曽沼の時代には牛頭天皇を祀っていて、それを「お天王さん」と呼ばれていたものを南部氏の時代に「応神天皇」に祭神を換えて祀り直したのだろうか?どちらも「てんのう」さんだからと。  

 

 境内での祭りが終わった後、神楽は続けて「角かけ」をしていた。