お祭りハンター6月15日の午後の部
●鮎貝八坂神社●
一般的に6月15日を例祭と定めている神社は、京都の八坂神社であり、素盞嗚尊を祭神と定めている。八坂神社は元々祇園社と呼ばれ、その祇園精舎の守護神は牛頭天王である。京都八坂神社も明治の神仏分離令以降に改名された名前である。これに因んで、当初牛頭天王を祀っていたお天王さんが明治になって八坂神社と改名した社が多く存在する。
また、この日は八坂神社の他に愛知県津島神社に関連する神社でも例祭日となっているようで、岩手県立博物館編「岩手民間信仰辞典」には、遠野市小友町の津島神社では、天王さまをワラ馬に乗せて送ると記されている。(ところで、小友町の津島神社とはどこなのだろう?長野にある厳島神社のことなのだろうか?その存在を今だ知らず)
そして、「岩手民間信仰辞典」で云うところのワラ馬の行事が現在、木版刷りの紙馬となっているとのことで、ここ鮎貝八坂神社にも奉納されていた。実は、このことを知ったのは、この日参加していた長野しし踊りの方がこの紙馬を見てポツリと云った「ここでもやっているのか・・・」の一言が元となった。この馬に乗るのはところによっては田の神の場合もあり、作柄を見て廻るのだという。豊作祈願の意味合いが濃いようだ。
さて、本題に戻り、
この鮎貝八坂神社を記したものに、前々回も記したように「小友勝蹟志」とHP「遠野の神々」があり、両方をまとめると、
○鮎貝志摩守が気仙攻めの際に旗竿に境内の杉を使う
○享保5年(1720)創建
○元文5年(1741)牛頭天王を祀る
○天明年中(1781~1789)素盞嗚尊を祀る
○嘉永元年(1848)応神天皇を祀る
ということになるのだが、これを見た時、どうしても納得のいかないことが何箇所かあり、今回その疑問を解消するヒント探しの祭り見学となった。
祭りは、近くにある消防コミニティーに関係者が集いお昼を食べ、それから始まる。
午前中に地区内を巡回していた子供神輿をはじめ、鮎貝神楽、そして長野しし踊りが行列に参加する。猿田彦(巌龍神社では天狗と呼ばれている)を先頭に地域の重鎮が参列。
神社までの道を神楽の調べを奏でながら。
境内では、地元の小学生がお出迎え。
鳥居前で踊る長野しし踊り。
神社の周りを例によって三周した後、神事を行なう。
長野しし踊りも鳥居ほめに続き、本殿へと向う。
威勢のいい太鼓にあわせ、奉納の踊り。
しし踊りの太鼓の音にも動じない子。もしかして、生まれた時から聞きなれた音なのかもしれない。
静かになった本殿には別当さんと地元重鎮がおり、午前中に撮影済みの札を再度確認させて頂く。実は、この別当さんは私の同級生で、お互いにそれと知りながら、話をする機会を窺っていた。
社内に納められている御札は、9枚。そのうち2枚は解読不明。そして、1枚はこの神社とは別のものと思われる稲荷さんのもの。
文政元年(1818)再興稲荷明神寶殿 願主 地頭 本宿万左衛門
別当 ○之助 遷宮導師 源龍院
減龍院は岩龍山大聖寺(現在の巌龍神社)を司る羽黒派の修験者である。
江戸時代のこの地域を治めていたのは、本宿(もとしゅく)氏であることがわかる。本宿氏については
こちらを参照。南部直栄以降にいた本宿姓の人物となると、本家筋、総領の人物ではなく、それに連なる家柄で、直栄以降に家臣に列せられたものと思われるが、土渕ではなく、小友だということに興味をおぼえる。
わき道にそれたが、八坂関連の御札に戻ると、年代順に
○元文5年(1741)再興応神天皇寶殿 願主 本宿萬兵衛家高
本宿条右衛門家正
遷宮導師 善応寺宥筍
○文政4年(1821)再興応神天皇拝殿 別当三之助
遷宮導師 源龍院本教
○寛政12年(1800)再興応神天皇拝殿 願主 地頭 本宿萬左衛門
別当 五兵衛 遷宮導師 源龍院本考
○明治9年(1876) 奉斎八坂神社神素盞嗚尊
今般皇大神御舎寺新米作工諸社止改正
祠掌 館林貫三
○明治40年(1907)八坂神社屋根修復拝殿新築 社掌 山名海見
○昭和23年(1948)八坂神社修繕 多田市三郎
享保創建の確証を得ることはできなかったが、少なくとも元文5年の時点で、再興となっていることから、それ以前の創建と考えられる。また、この再興に際して導師を勤めているのが善応寺住職であることから、重々しく再興された神社であると想像される。それも応神天皇を祀る神社として。
宝暦10年(1760)編纂の「御領分社堂」には、応神天皇名の小友村の神社はなく、八幡宮・八幡社・牛頭天皇の3社が俗別当のいないお堂として掲載されているが、この書が編纂される前に応神天皇として再興されていることから、当初は八幡さまではなかったのかとの疑問が残る。
そして、神仏分離令によって、明治9年、祭神を素盞嗚尊に改めたとはっきり記されており、その時からここが八坂神社となったのである。この時の祠掌館林貫三氏は、遠野郷八幡宮の祠掌でもあった。その後の明治40年の札にある山名海見(わたみ)は館林氏と同様に遠野郷八幡宮の社司。
応神天皇が八坂神社へ至る経緯は以上となる。また、鮎貝志摩守の旗竿の伝承については、気仙に攻め込んだという話しの筋からすると本来は気仙から遠野へ奪還のために攻め込んだということが事実に近く、後で、創られたか、話しの途中が抜けた伝承として残っているものと考えられる。
それとも、阿曽沼の時代には牛頭天皇を祀っていて、それを「お天王さん」と呼ばれていたものを南部氏の時代に「応神天皇」に祭神を換えて祀り直したのだろうか?どちらも「てんのう」さんだからと。
境内での祭りが終わった後、神楽は続けて「角かけ」をしていた。