先日、遠野ブレンド歴史民族班のaboutさんの案内で、とら猫さんと共に、土渕町の阿修羅堂まで。既に、お二人は関連記事を載せていますので、こちらとこちらをご覧下さい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/d2/81911061d465568d349b838fb8169b0d.jpg)
と云うことで、なるべくダブらない内容で。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/a4/dacf3818ecc3f5bcba6227719c50509b.jpg)
(表)
持国天 広目天
大守公御武運長久慮
奉修復阿修羅寶殿一宇遷宮成就慮 天下泰平国家安全
五穀成就満民興楽
増長天 多門天
(裏)
當社者号阿修羅堂従往古鎮座シ玉フ寶殿年舊(フルク)及破壊再興修復然所
當三四代大守利雄卿降尊命 不限當社 新治内遷遠近破壊之祠堂再興或修復被迫廻賢慮
抑堂塔建立之功徳 而説文明也 夫神者一而無形慮霊誠有信感 諸社瑞離則厳浄佛土諸神之本地
都鄗是以下可至情誠也 此故神佛者如興水汲催応現神感大守公厚徳仰彌高故風雨以時五穀成就国家豊饒念中祈願決定圓満 云云
明和三年丙戌年 林鐘吉祥曜
檀主 八戸彌六郎義顔
惣総奉行 坂牛新五左衛 佐賜
御用懸寺社奉行用書 石川門治郎 昌秀
遠野懸合 川原木 小兵衛 綱保
所代官 米内弥太夫 吉福
及川五右衛門 恒節
遷宮導師 花厳院 敬白
中舘●四郎政武 武運長久祈慮
別当 千助
村肝煎 興兵衛
屋根方 平十郎
読み取れる棟札のうちで年代が最も古いものには上記のように記されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/41/08cd111062f04e6017cdcb852800ea89.jpg)
既にここに登場する武士についての考察はとら猫さんがされているので、その他について記したい。
棟札にある文のうち太字の部分はこの阿修羅堂独自の部分で、他は定型文らしきもの。
定型らしきとは、どういうことかというと宮本文書にある明和3年の早池峯山新山宮修復の棟札と太字以外は全く同じであることによる。
この社は、早池峯山新山宮と同じ年に修復されたのである。それも、盛岡藩との関わりによって。この明和3年(1766)は、遠野と稗貫の両妙泉寺が本末争いをしていた時期でもある。この明和年号は、石上神社に奉納されている三社大明神の太鼓、青笹町中沢の荒神さま、笹谷観音堂、達曽部の駒形神社石碑などに確認でき、おそらく藩内で大なり小なりの社寺が修復されたのであろう。
追加
この定型文は、よく調べると、遠野七観音の山谷・松崎・笹谷観音堂にも存在している。
また、この阿修羅堂は、宝暦10年(1760)編の「御領分社堂」に土淵村 阿修羅観音堂 俗別当千助と載っており、明和の棟札と合致する。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/52/c0f39ab5a1531e097e73e85ce4aca83a.jpg)
遠野物語15には「オクナイサマを祭れば幸多し。土淵村大字柏崎の長者阿部氏、村にては田圃の家と云ふ。・・・・」とあり、注釈遠野物語では、田圃の家という屋号の家は、田中家で、この家にはオクナイサマもオシラサマもなく、遠野物語に出てくる代掻きを手伝ったオクナイサマは同じ地区の安部家のものだと記されている。阿修羅堂別当家は「阿部」姓であり、「アンベ」と「アベ」と読みは違うが、安倍貞任の古い時代から開けた地域との伝承もあり、どちらの家にもオクナイサマがあることに偶然ではない何かを感じる。
また、「土渕教育 百年の流れ」には、「水内には、阿修羅王社があるが年代も不明で、この信仰はインドの民間信仰にまつわるものであり、善神・悪神に因んだものであり、地域開発と併せ悪神を追祓う善神を呼び寄せるという信仰の中での神で、当時の社会開発の名残を物語っている」とある。
この別当家には、ひとつの言い伝えとして、小友町長野の西来院の和尚が常堅寺を開く時に一緒に来た11人の一人がこの家の先祖であり、元からこの地域にいたのではないという話が残っている。これは何を意味するのであろうか?この家は幕末、遠野の鍋倉城のいずれかの門を守る役を担っていたとも云われ、純粋な農民だったとも思われない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/f9/93b30b854a3912aba416c5c79166f9ca.jpg)
(別当家の戸袋:青笹の名工米沢忠治の作)
常堅寺と西来院との関わりを少し記すと、常堅寺は、安倍一族の菩提寺として初めは天台宗の寺院として開かれ、後の文明18年(1486)今の大東町大原の長泉寺の末寺として太聞秀宗和尚によって開かれた曹洞宗のお寺である。ここは葛西遺臣大原新右衛門の菩提寺でもある。一説には、延徳2年(1490)に小友町長野の西来院住職機外慶俊によって開かれたとの伝承もある。別当家の伝承でいう11人の一人という話は、この延徳2年のことを指すものと思われる。但し、常堅寺の本寺である長泉寺の門葉表には文明18年に末寺となり、常堅寺の末寺として天文18年(1549)に西来院が開かれたと記されていることから文明2年説が正しいのであろう。
西来院は葛西系江刺氏家臣であった平清水氏が開基したとも云われ、慶長17年(1612)に平清水氏は土渕を含む1千石を領しており、その時期のことが、西来院から常堅寺へ来たという同伴11人の話として残っているのではなかろうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/93/6e0b499bddf3c5ce845acfbe0005cf90.jpg)
(阿修羅堂の後ろにある羅び美津篝神社:菊池恭二作)
もうひとつ
木喰上人・・・・享保3年(1718)山梨県身延町に生まれ、22歳で出家。56歳から廻国を始め文化7年(1810)93歳で生涯を終える。
この木喰上人については、北海道から四国まで伝承が残されているが、遠野にもそれがある。木下達文著「木食白道」にその詳細が記されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/d0/3db496105bc0a56a9d529498e5e70a51.jpg)
木喰上人が記した「御宿帳」には弟子白道と共に、安永7年(1778)4月に平泉から三戸へ向う途中に遠野を訪れたのが最初で、北海道へ渡り、その帰りの安永9年に再び立ち寄っている。
安永9年7月5,6日 アヤオリ セイハチ
7月7,8日 カシワザキムラ モンナイ
木下氏は、遠野物語拾遺に着目し、
拾遺127
綾織村では昔一人の旅僧がやって来て、物も食わず便所にも行かず、ただ一心に仏の御姿を彫刻していた。それがいかにも優れた木像だったので、村の人が頼みにゆくといつの間にか去って行く方が知れなかったという話が伝わっている。あるいは木食上人などではなかったかと思う。
拾遺52
また、同村柏崎の阿修羅社の三面の仏像は、御丈五尺もある大きな像であるが、この像をやっぱり近くの子供らが持ち出して、阪下の沼に浮かべて船にして遊んでいたのを、近くの先九郎どんの祖父が見て叱ると、かえって阿修羅様に祟られて、巫女を頼んで侘びをしてもらった。
安永9年7月の上人の足取りとこの二つの話が気になり、両地域を歩くが、綾織については、話の元となった場所は特定できず、柏崎の阿修羅堂については、この木像を確認している。彼は、この像が弟子白道との共同制作であった可能性が高いとしている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/90/ab4ec5a3518f1149816c3575e780ac86.jpg)
(別当家で守るもうひとつの神社:愛宕大権現)
安永のこの時代は、御領分社堂ができた時代と同年代であることから、綾織村と土淵村について、調べたがセイハチとモンナイについて俗別当名としての記述はなかった。両者ともお堂を持っていた人たちだったのかどうかは、不明のままである。木食僧には、円空が有名であるが、この木喰上人と白道も覚えておかなければならない人たちである。そして、遠野のどこかに彼らが造った仏像が静かに安置されているのかもしれない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/66/0447d461ef1f332664bfc67cd098453c.jpg)
(愛宕さんの隣にあるお稲荷さん)
愛宕さんには、明和9年と享保の棟札があったが、この愛宕神社について御領分社堂を確認したが、不明である。
いずれにしても、ひとつの家でお稲荷さんの他に二社を守ることに感心した次第。
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と云うことで、なるべくダブらない内容で。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/a4/dacf3818ecc3f5bcba6227719c50509b.jpg)
(表)
持国天 広目天
大守公御武運長久慮
奉修復阿修羅寶殿一宇遷宮成就慮 天下泰平国家安全
五穀成就満民興楽
増長天 多門天
(裏)
當社者号阿修羅堂従往古鎮座シ玉フ寶殿年舊(フルク)及破壊再興修復然所
當三四代大守利雄卿降尊命 不限當社 新治内遷遠近破壊之祠堂再興或修復被迫廻賢慮
抑堂塔建立之功徳 而説文明也 夫神者一而無形慮霊誠有信感 諸社瑞離則厳浄佛土諸神之本地
都鄗是以下可至情誠也 此故神佛者如興水汲催応現神感大守公厚徳仰彌高故風雨以時五穀成就国家豊饒念中祈願決定圓満 云云
明和三年丙戌年 林鐘吉祥曜
檀主 八戸彌六郎義顔
惣総奉行 坂牛新五左衛 佐賜
御用懸寺社奉行用書 石川門治郎 昌秀
遠野懸合 川原木 小兵衛 綱保
所代官 米内弥太夫 吉福
及川五右衛門 恒節
遷宮導師 花厳院 敬白
中舘●四郎政武 武運長久祈慮
別当 千助
村肝煎 興兵衛
屋根方 平十郎
読み取れる棟札のうちで年代が最も古いものには上記のように記されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/41/08cd111062f04e6017cdcb852800ea89.jpg)
既にここに登場する武士についての考察はとら猫さんがされているので、その他について記したい。
棟札にある文のうち太字の部分はこの阿修羅堂独自の部分で、他は定型文らしきもの。
定型らしきとは、どういうことかというと宮本文書にある明和3年の早池峯山新山宮修復の棟札と太字以外は全く同じであることによる。
この社は、早池峯山新山宮と同じ年に修復されたのである。それも、盛岡藩との関わりによって。この明和3年(1766)は、遠野と稗貫の両妙泉寺が本末争いをしていた時期でもある。この明和年号は、石上神社に奉納されている三社大明神の太鼓、青笹町中沢の荒神さま、笹谷観音堂、達曽部の駒形神社石碑などに確認でき、おそらく藩内で大なり小なりの社寺が修復されたのであろう。
追加
この定型文は、よく調べると、遠野七観音の山谷・松崎・笹谷観音堂にも存在している。
また、この阿修羅堂は、宝暦10年(1760)編の「御領分社堂」に土淵村 阿修羅観音堂 俗別当千助と載っており、明和の棟札と合致する。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/52/c0f39ab5a1531e097e73e85ce4aca83a.jpg)
遠野物語15には「オクナイサマを祭れば幸多し。土淵村大字柏崎の長者阿部氏、村にては田圃の家と云ふ。・・・・」とあり、注釈遠野物語では、田圃の家という屋号の家は、田中家で、この家にはオクナイサマもオシラサマもなく、遠野物語に出てくる代掻きを手伝ったオクナイサマは同じ地区の安部家のものだと記されている。阿修羅堂別当家は「阿部」姓であり、「アンベ」と「アベ」と読みは違うが、安倍貞任の古い時代から開けた地域との伝承もあり、どちらの家にもオクナイサマがあることに偶然ではない何かを感じる。
また、「土渕教育 百年の流れ」には、「水内には、阿修羅王社があるが年代も不明で、この信仰はインドの民間信仰にまつわるものであり、善神・悪神に因んだものであり、地域開発と併せ悪神を追祓う善神を呼び寄せるという信仰の中での神で、当時の社会開発の名残を物語っている」とある。
この別当家には、ひとつの言い伝えとして、小友町長野の西来院の和尚が常堅寺を開く時に一緒に来た11人の一人がこの家の先祖であり、元からこの地域にいたのではないという話が残っている。これは何を意味するのであろうか?この家は幕末、遠野の鍋倉城のいずれかの門を守る役を担っていたとも云われ、純粋な農民だったとも思われない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/f9/93b30b854a3912aba416c5c79166f9ca.jpg)
(別当家の戸袋:青笹の名工米沢忠治の作)
常堅寺と西来院との関わりを少し記すと、常堅寺は、安倍一族の菩提寺として初めは天台宗の寺院として開かれ、後の文明18年(1486)今の大東町大原の長泉寺の末寺として太聞秀宗和尚によって開かれた曹洞宗のお寺である。ここは葛西遺臣大原新右衛門の菩提寺でもある。一説には、延徳2年(1490)に小友町長野の西来院住職機外慶俊によって開かれたとの伝承もある。別当家の伝承でいう11人の一人という話は、この延徳2年のことを指すものと思われる。但し、常堅寺の本寺である長泉寺の門葉表には文明18年に末寺となり、常堅寺の末寺として天文18年(1549)に西来院が開かれたと記されていることから文明2年説が正しいのであろう。
西来院は葛西系江刺氏家臣であった平清水氏が開基したとも云われ、慶長17年(1612)に平清水氏は土渕を含む1千石を領しており、その時期のことが、西来院から常堅寺へ来たという同伴11人の話として残っているのではなかろうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/93/6e0b499bddf3c5ce845acfbe0005cf90.jpg)
(阿修羅堂の後ろにある羅び美津篝神社:菊池恭二作)
もうひとつ
木喰上人・・・・享保3年(1718)山梨県身延町に生まれ、22歳で出家。56歳から廻国を始め文化7年(1810)93歳で生涯を終える。
この木喰上人については、北海道から四国まで伝承が残されているが、遠野にもそれがある。木下達文著「木食白道」にその詳細が記されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/d0/3db496105bc0a56a9d529498e5e70a51.jpg)
木喰上人が記した「御宿帳」には弟子白道と共に、安永7年(1778)4月に平泉から三戸へ向う途中に遠野を訪れたのが最初で、北海道へ渡り、その帰りの安永9年に再び立ち寄っている。
安永9年7月5,6日 アヤオリ セイハチ
7月7,8日 カシワザキムラ モンナイ
木下氏は、遠野物語拾遺に着目し、
拾遺127
綾織村では昔一人の旅僧がやって来て、物も食わず便所にも行かず、ただ一心に仏の御姿を彫刻していた。それがいかにも優れた木像だったので、村の人が頼みにゆくといつの間にか去って行く方が知れなかったという話が伝わっている。あるいは木食上人などではなかったかと思う。
拾遺52
また、同村柏崎の阿修羅社の三面の仏像は、御丈五尺もある大きな像であるが、この像をやっぱり近くの子供らが持ち出して、阪下の沼に浮かべて船にして遊んでいたのを、近くの先九郎どんの祖父が見て叱ると、かえって阿修羅様に祟られて、巫女を頼んで侘びをしてもらった。
安永9年7月の上人の足取りとこの二つの話が気になり、両地域を歩くが、綾織については、話の元となった場所は特定できず、柏崎の阿修羅堂については、この木像を確認している。彼は、この像が弟子白道との共同制作であった可能性が高いとしている。
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(別当家で守るもうひとつの神社:愛宕大権現)
安永のこの時代は、御領分社堂ができた時代と同年代であることから、綾織村と土淵村について、調べたがセイハチとモンナイについて俗別当名としての記述はなかった。両者ともお堂を持っていた人たちだったのかどうかは、不明のままである。木食僧には、円空が有名であるが、この木喰上人と白道も覚えておかなければならない人たちである。そして、遠野のどこかに彼らが造った仏像が静かに安置されているのかもしれない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/66/0447d461ef1f332664bfc67cd098453c.jpg)
(愛宕さんの隣にあるお稲荷さん)
愛宕さんには、明和9年と享保の棟札があったが、この愛宕神社について御領分社堂を確認したが、不明である。
いずれにしても、ひとつの家でお稲荷さんの他に二社を守ることに感心した次第。