「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

阿修羅堂

2009-02-28 16:27:00 | 神社
 先日、遠野ブレンド歴史民族班のaboutさんの案内で、とら猫さんと共に、土渕町の阿修羅堂まで。既に、お二人は関連記事を載せていますので、こちらこちらをご覧下さい。

 

 と云うことで、なるべくダブらない内容で。

 


(表)
持国天  広目天
                   大守公御武運長久慮
奉修復阿修羅寶殿一宇遷宮成就慮  天下泰平国家安全
                   五穀成就満民興楽
増長天  多門天

(裏)
當社者号阿修羅堂従往古鎮座シ玉フ寶殿年舊(フルク)及破壊再興修復然所
當三四代大守利雄卿降尊命 不限當社 新治内遷遠近破壊之祠堂再興或修復被迫廻賢慮
抑堂塔建立之功徳 而説文明也 夫神者一而無形慮霊誠有信感 諸社瑞離則厳浄佛土諸神之本地
都鄗是以下可至情誠也 此故神佛者如興水汲催応現神感大守公厚徳仰彌高故風雨以時五穀成就国家豊饒念中祈願決定圓満 云云

明和三年丙戌年 林鐘吉祥曜 
檀主 八戸彌六郎義顔
惣総奉行 坂牛新五左衛 佐賜
御用懸寺社奉行用書 石川門治郎 昌秀
遠野懸合 川原木 小兵衛 綱保
所代官 米内弥太夫 吉福
     及川五右衛門 恒節
遷宮導師 花厳院 敬白

中舘●四郎政武 武運長久祈慮
別当 千助
村肝煎 興兵衛
屋根方 平十郎


読み取れる棟札のうちで年代が最も古いものには上記のように記されている。

 

 既にここに登場する武士についての考察はとら猫さんがされているので、その他について記したい。

棟札にある文のうち太字の部分はこの阿修羅堂独自の部分で、他は定型文らしきもの。

定型らしきとは、どういうことかというと宮本文書にある明和3年の早池峯山新山宮修復の棟札と太字以外は全く同じであることによる。
この社は、早池峯山新山宮と同じ年に修復されたのである。それも、盛岡藩との関わりによって。この明和3年(1766)は、遠野と稗貫の両妙泉寺が本末争いをしていた時期でもある。この明和年号は、石上神社に奉納されている三社大明神の太鼓、青笹町中沢の荒神さま、笹谷観音堂、達曽部の駒形神社石碑などに確認でき、おそらく藩内で大なり小なりの社寺が修復されたのであろう。

 追加 
 この定型文は、よく調べると、遠野七観音の山谷・松崎・笹谷観音堂にも存在している。

 また、この阿修羅堂は、宝暦10年(1760)編の「御領分社堂」に土淵村 阿修羅観音堂 俗別当千助と載っており、明和の棟札と合致する。

 

遠野物語15には「オクナイサマを祭れば幸多し。土淵村大字柏崎の長者阿部氏、村にては田圃の家と云ふ。・・・・」とあり、注釈遠野物語では、田圃の家という屋号の家は、田中家で、この家にはオクナイサマもオシラサマもなく、遠野物語に出てくる代掻きを手伝ったオクナイサマは同じ地区の安部家のものだと記されている。阿修羅堂別当家は「阿部」姓であり、「アンベ」と「アベ」と読みは違うが、安倍貞任の古い時代から開けた地域との伝承もあり、どちらの家にもオクナイサマがあることに偶然ではない何かを感じる。
 また、「土渕教育 百年の流れ」には、「水内には、阿修羅王社があるが年代も不明で、この信仰はインドの民間信仰にまつわるものであり、善神・悪神に因んだものであり、地域開発と併せ悪神を追祓う善神を呼び寄せるという信仰の中での神で、当時の社会開発の名残を物語っている」とある。
この別当家には、ひとつの言い伝えとして、小友町長野の西来院の和尚が常堅寺を開く時に一緒に来た11人の一人がこの家の先祖であり、元からこの地域にいたのではないという話が残っている。これは何を意味するのであろうか?この家は幕末、遠野の鍋倉城のいずれかの門を守る役を担っていたとも云われ、純粋な農民だったとも思われない。

 
 (別当家の戸袋:青笹の名工米沢忠治の作)

 常堅寺と西来院との関わりを少し記すと、常堅寺は、安倍一族の菩提寺として初めは天台宗の寺院として開かれ、後の文明18年(1486)今の大東町大原の長泉寺の末寺として太聞秀宗和尚によって開かれた曹洞宗のお寺である。ここは葛西遺臣大原新右衛門の菩提寺でもある。一説には、延徳2年(1490)に小友町長野の西来院住職機外慶俊によって開かれたとの伝承もある。別当家の伝承でいう11人の一人という話は、この延徳2年のことを指すものと思われる。但し、常堅寺の本寺である長泉寺の門葉表には文明18年に末寺となり、常堅寺の末寺として天文18年(1549)に西来院が開かれたと記されていることから文明2年説が正しいのであろう。
 西来院は葛西系江刺氏家臣であった平清水氏が開基したとも云われ、慶長17年(1612)に平清水氏は土渕を含む1千石を領しており、その時期のことが、西来院から常堅寺へ来たという同伴11人の話として残っているのではなかろうか。

 
 (阿修羅堂の後ろにある羅び美津篝神社:菊池恭二作)

 もうひとつ

木喰上人・・・・享保3年(1718)山梨県身延町に生まれ、22歳で出家。56歳から廻国を始め文化7年(1810)93歳で生涯を終える。

この木喰上人については、北海道から四国まで伝承が残されているが、遠野にもそれがある。木下達文著「木食白道」にその詳細が記されている。

 

 木喰上人が記した「御宿帳」には弟子白道と共に、安永7年(1778)4月に平泉から三戸へ向う途中に遠野を訪れたのが最初で、北海道へ渡り、その帰りの安永9年に再び立ち寄っている。
 安永9年7月5,6日 アヤオリ セイハチ
     7月7,8日 カシワザキムラ モンナイ

木下氏は、遠野物語拾遺に着目し、

拾遺127
 綾織村では昔一人の旅僧がやって来て、物も食わず便所にも行かず、ただ一心に仏の御姿を彫刻していた。それがいかにも優れた木像だったので、村の人が頼みにゆくといつの間にか去って行く方が知れなかったという話が伝わっている。あるいは木食上人などではなかったかと思う。

拾遺52
 また、同村柏崎の阿修羅社の三面の仏像は、御丈五尺もある大きな像であるが、この像をやっぱり近くの子供らが持ち出して、阪下の沼に浮かべて船にして遊んでいたのを、近くの先九郎どんの祖父が見て叱ると、かえって阿修羅様に祟られて、巫女を頼んで侘びをしてもらった。

 安永9年7月の上人の足取りとこの二つの話が気になり、両地域を歩くが、綾織については、話の元となった場所は特定できず、柏崎の阿修羅堂については、この木像を確認している。彼は、この像が弟子白道との共同制作であった可能性が高いとしている。

 
 (別当家で守るもうひとつの神社:愛宕大権現)

 安永のこの時代は、御領分社堂ができた時代と同年代であることから、綾織村と土淵村について、調べたがセイハチとモンナイについて俗別当名としての記述はなかった。両者ともお堂を持っていた人たちだったのかどうかは、不明のままである。木食僧には、円空が有名であるが、この木喰上人と白道も覚えておかなければならない人たちである。そして、遠野のどこかに彼らが造った仏像が静かに安置されているのかもしれない。

 
 (愛宕さんの隣にあるお稲荷さん)

 愛宕さんには、明和9年と享保の棟札があったが、この愛宕神社について御領分社堂を確認したが、不明である。
 いずれにしても、ひとつの家でお稲荷さんの他に二社を守ることに感心した次第。 
 

盛岡藩へ

2009-02-23 18:04:35 | 地域
 先週は、思いもよらない大雪が降り、遠野のあちらこちらでは、雪を運ぶ車が早瀬川にやって来る。湿った雪は見た目には、ブルーがかってきれいなのだが、その処理はやっかいなものだ。



 そんな重い気分、そして天気の中、盛岡藩本丸まで、いや、県庁まで。

 

 雪道を想定して、早く出発したが、スムーズに到着し、周辺を散策。

 

 旧第九十銀行。明治43年の建物。

 

 現在は、啄木・賢治青春館。

 

 盛岡出身の建築家「横濱勉」の作品。

 その道路向かいには、

 

 旧小野組の蔵を活用した飲食店。

 小野組は、かつては井筒屋と称した近江商人で、二代目以降は村井姓を名乗る。この小野組は、大島高任によって造られた高炉のひとつである、遠野の佐比内高炉を最後に操業していた会社でもある。
 この小野組からは古河鉱業の創始者である古河市兵衛が出ている。彼は、富士通の遠祖にもあたる。

 

 そして、最も有名な旧盛岡銀行。明治44年の作。辰野金吾・葛西萬司の設計。辰野は赤レンガの東京駅でも有名。葛西は、盛岡藩家老「鴨沢家」の二男として生まれ、小野組に席をおいていた葛西重雄の養子となった人物。

 

 このような人間関係を想いながらこの通りを歩くのは私だけ?笑

 

 道を北に進むと紺屋町の「ござ九」そして、消防の番屋。個人的に好きな通りでもある。

 

 最後に岩手県公会堂。取り壊しで話題となっている建物。昭和2年の作。早稲田大学大隈講堂・日比谷公会堂の設計者である佐藤幸一の作品。

 時代が変わっても、用途を変えながらも活用され続ける建物がある一方、内部のリフォームだけでは成り立たなくなるものもある。
 近年の建物は、省エネ・バリアフリー・高耐久性・内部の可変性が求められていると聞くが、少なくともその外観はそれぞれの地域にあう風景のひとつとなってほしいものだ。

 本来の目的である普請奉行所での用向きは・・・・・参加することに意義が・・・・。
 

バラエティー

2009-02-11 22:02:28 | その他
 1月後半からず~と、何かと忙しい日々が続いている。という言い訳から始まる・・・・

 

 我が家のお姫様二人のピアノの発表会。1月後半。

 上の子の最後の発表会となる?とのことで、気合を入れてデジるが、相変わらずのぶれぶれ。部活が忙しく、練習不足から、発表の出来も・・・・いや!本人は、それでも頑張っていた。ご苦労様。(下の子のレッスンは続く)
 二十歳になったら、娘のピアノの伴奏で、酒を飲みながら、一曲歌うのが、おやじの夢でもある。

 

 1月最後の土曜。地区の小中PTAの親父たちと焼酎。近所にあるドラゴンにて。ここに入るのは2回目?なような気がする。料理は良かったが、生憎の天気で参加者が少ない。・・・・でも、しっかり、親睦を深める。笑

 

 そして、先週後半。この電話BOXのある旅館で、加入する健康保険組合の総会。

 

 日程のせいか景気のせいか、参加者が少なく、一番若いものが議長とのことで・・・・。県議や副市長が来賓で出席されていたが、申し訳ないような総会となる。当然、準備していた料理は手付かずで残り、某工務店の若手従業員たちが急遽、呼び出され、始末をする。国保の一種なのだが、この保険料を払えない家庭が増えているようで、就学児童をもつ世帯でも未保険の方が出ているようだ。加入している保険組合の保険料を納めないと、一般の国保にも移れないとか。保険証のない児童・生徒を何とかしてほしいと感じる。

 

 そして、今週はじめ。娘の通う小学校で、伝統として定着してきた薬研太鼓の引き継ぎ会。6年生が打ち納め。

 

 6年生から5年生に幟を渡し、これからの頑張に期待の言葉。5年生からは抱負を。

 

 5年生はじめてのお披露目の太鼓。

 

 市内で最大のエリアを学区とし、新興住宅地が多いことから、参加するお祭りの団体も多彩で、伝統芸能を全校でといっても難しい学校だったことで、何かみんなで出来るものをとの考えから「薬研太鼓」が始まったと記憶している。
 継続してきたことで今では伝統となっている。この日、長年、活動に尽力している夫婦がこの引継ぎの様子を見に来ていた。このような方々があればこそ、入れ替わる先生方の負担を、多少なりとも軽減でき、変わらない伝統を築けるものと感謝した次第。

 

 そして、昨日、夜。福祉の里で、「福祉と住宅」に関する講習会。

 どういうわけか、どれもこれも、仕事やら何やらが重なり、二進も三進もいかない状況ではあるが・・・・。

 

 要介護者がいるお宅の住宅改修に助成金が出るとのこと。市では、耐震改修費用の助成もしているが、申し込みが少ないようだ。各家庭の手持ち資金に問題があるように感じる。国では様々な施策を打ち出してはいるが、山間地には、活用できる余裕すらないのが現状で、県から説明にきた方が、老人向け賃貸住宅の説明もしたが、持ち家率が高いこの地域には、「意味不」・「KY」な内容とも感じた。

 今、とある原稿の校正をしていたのだが、「町づくり」・「景観づくり」に誰もが一生懸命だった10~20年前を振り返る内容。今抱える問題は、今後、次世代育成をどうするかといったことが書かれている。その現世代と次世代にまたがる自分にとって、信念を貫いて仕事をするのみと自答する。自分の生活が成り立たずして、町づくりなし。。(酒の入らない頭は、何となく、切れがいい!笑)

樗山の系譜 つづき

2009-02-07 00:20:33 | 神社
 先日の新山神社からの帰り道。同行していた若き大工さん達と話をしていた時ののこと。
 小原樗山(ちょざん)については、常々、話していたのだが、その息子「喜三」が残した遠野の建物については、あまり話しておらず、駒木にも稲荷さんを造っているようだと話すと、「もしかして、うちの本家にあるのがそうかもしれない。」ということで、立ち寄る。

 

 当主の方に話を聞くと、東和町の人が造ったと聞いているとのこと。

 

 これは、ビンゴかもしれないと思いながら内部も見せて頂く。

 

 大正14年の建物。時代的には、小原樗山が活躍していた時代と一致するが、棟梁の名前が確認できない。

 しかし、願主の名前に見覚えがある。

 

 昨年、樗山の生家を訪ねた時に、見た記念碑に刻まれていた名前と同じ。

 この記念碑を建立するときに、遠野からも福泉寺の建築に際して縁があったとらねこさんのご先祖を初め多くの方々が助成しており、このお宅であることは間違いないようだ。建立されたのは、大正14年とあり、喜三38歳、山口善太郎19歳。この時、樗山は64歳で、大迫町の到岸寺を手掛けていた時期で、前年には同町の中興寺も建てていて、多忙な時期だったようだ。

 
(小原樗山作 到岸寺)

 この大正14年には、附馬牛町荒川駒形神社も喜三は建てている。
 
 
 父である樗山が大迫町に次々と寺院建築を手掛けていた時期に、福泉寺からの縁によって、遠野での仕事も頼まれたことから、代わりに息子喜三がその役割を担ったものなのかもしれない。

 話は戻って、この稲荷さんを拝見しているうちに、樗山の絵を頂いている方々が遠野にいることを思い出し、何気なく、その話をすると「誰のものだかわからないが、ある。」と云う。

 

 牡丹の絵。

 

 やはり、樗山の絵であった。

 樗山の生家に残されていた息子喜三の遠野の作品一覧には、駒木 菊池 稲荷神社とあり、彫刻が施されたとは書かれていなかった。家人が云う東和町の人が造ったという話と樗山の絵、そして、建立された年代から、間違いなく、小原喜三のものだと思われる。

 さて、この喜三の遠野の足跡で、残り2軒が不明のまま。1軒は駒木の不動堂一間四面彫刻無し。建て主の名前もわかっているが、そのお宅の敷地にはとても小さなお堂があるが、これがその時のものなのかは、疑問に感じている。おそらく、別な場所にあるものと思われる。そして、もう1軒、附馬牛町で彫刻のある2尺四面の彫刻付きの稲荷さん。これらについては、今年の楽しみにするつもりである。
 

樗山の系譜

2009-02-05 21:29:39 | 神社
 「冬のお堂を訪ねて」の続きをUPしようといろいろ考えていたが、まとめきれず、どうしても、晴れた日にカメラに収めようとこちらへ。

 

 こちらは、どちら?

 

 附馬牛 新山神社


 どうしても、晴れた日の本殿の写真が必要となり、再訪。

 

 昨年の10月に、樗山の生家を訪ねたことで、樗山の息子「喜三」と遠野の名工山口善太郎の作品であることがわかったのだが、そこから、樗山の系譜に連なる人たちに興味をもつきっかけのひとつとなった建物。

 

 やはり、すばらしい。

 

 脇障子の龍。

 

 晴れていたとはいえ、太陽の位置が悪く、正面右側の画像はだめだった。(リベンジ必至)・・・それでも、薬師とわずかに顔をだした早池峰山が眺められたので、気分は上々。

 

 帰りには、附馬牛町の片岸橋からは白鳥が見え、

 

 こんな物にまでお目にかかれるとは・・・・まだ、まだ、遠野は冬だと実感。