「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

2023 遠野郷八幡宮例祭神事

2023-09-15 16:12:22 | 神社

9月15日、先ほど、遠野郷八幡宮で遠野まつりに先立ち、例祭神事が行われました。

 

Tシャツで行きましたが、直射日光は避けたほうがよさそうです。

 

神社の役員さんも揃って、拝殿外にて神事

 

やがて、拝殿内へ

 

拝殿内の神事が始まると、役神楽、役じしの奉納となりました。

さあ、遠野まつりの始りですよ~!

 

境内は準備完了といった雰囲気

 

町の中も幟の他、紅白幕も張られ、こちらも準備OKといったところです。

15日の本日、19時から一時間程でしょうか?八幡さんの神楽殿では

八幡神楽さんが舞いますよ~!

また、町中の多くの芸能団体では、今晩が笠ぞろえ

そして、明日からは遠野まつりです!

16日(土)は遠野駅前周辺をメイン会場に10時30分~夜9時頃まで

17日(日)は遠野郷八幡宮にて12時~午後4時頃までです。

あまり宣伝していないので、案外、穴場のお祭りです。笑

 

 

 


2022 程洞稲荷神社例祭

2022-07-10 15:35:11 | 神社

友人から情報を頂き、時々愛妻も黙認しているような気がしたので・・・。

 

五百羅漢と鍋倉山の中間辺りにある程洞稲荷神社に行ってみました。

 

最初に行ったのが15年前、今回は7年ぶり。

以前の記事は拙ブログで確認してください。笑

と云うことで詳細はカット。

 

相変わらず、神社のある場所まで登るのは大変でした。

 

登っている途中、法螺貝の音が聞こえ、急いで登ったので、虫の息。

いつからかわかりませんが、拝殿屋根にはシート、建物も相当お疲れなようです。

 

顔見知りの方々に挨拶していると、八幡神楽さんの法螺貝の音。

例祭神事の始まりの合図です。

 

神楽の打ち鳴らし

 

諸般の事情により、三人だけ

 

これで、権現舞無しが確定です。

 

神事終了後、出番の無かった権現さまの中を確認

 

六日町や下組町の方々と思われる名前が記されていました。

 

神事前、この幕の名前が気になり、出席者にお聞きしたのですが、

わからないとのこと。

幕には、北海道常呂郡留辺蘂町滝ノ湯 及川まき とあります。

で、帰宅後、ものは試しということで検索。笑

札幌大学の先生が記した文章に、興味深い記述がありました。

文章には、岩手の遠野六日町の人で及川マキとあります。

夫は大船渡市赤崎出身の人で、駅逓(えきてい)の仕事をしていたようです。

駅逓は幕末から昭和初期辺りまでの北海道で、旅人の宿泊や運送、郵便の役割を担う仕事

だったようです。

おそらく、幕の人物はこの人で間違いないでしょう。

故郷を思う気持ちが伝わってくるようです。

 

今年は東北新幹線が大宮~盛岡に開通して40年。

その頃の私は、夏休みのアルバイトで、レミコン車からのコンクリートを打設する為の

配管を設置、打設補助、配管撤去の手伝いをしており、

どこかは忘れましたが、新幹線に伴う駅舎の工事にも行った記憶があります。

特急はつかりから新幹線やまびことなり、大宮までだったのが、今は東京駅まで。

普通に日帰りできる時代です。

 

無理やり、SL銀河に結び付け、

 

今月初めに東京転勤となった娘と北海道の「まき」さんの時代を思い浮かべる笛吹です。笑

 


2022 日枝神社例祭

2022-06-27 10:03:25 | 神社

19日の日出神社例祭で、板澤しし踊りさんから次の出番はしばらく無いと聞いており、

また某所にて飯豊神楽さんは神事での打ち鳴らしだけとの情報を得ていた日枝神社例祭。

昨日がその例祭でした。

郷土芸能の奉納が無いなら・・・と考えていたところ、拙案内所付近で選挙関係の街頭PRが

あるらしいとのことから、急遽、その場を脱出。

 

遠野小学校東側の日枝神社です。

 

子どもの頃は、大日さんと呼んでいました。

慶安5年(1652)に山王の祠がこの地に建てられ、貞享2年(1685)に湯殿山の分霊を勧請し、

大日堂と称することから、親しみを込めて「大日さん」。

明治に大日堂が廃止され、山王に因み日枝神社と改称。

 

時間前に拝殿内を見学。前回の訪問時同様に、この写真に目がいき、

神事終了後、居合わせた方々に聴取。

どうやら故浦田穂一氏の写真で、氏の住まいがあった昭和通りで写したものとのこと。

 

現在奉納されている権現様とは違う物だと思われますが、昭和の時代までは、

権現様を抱えて町中を廻っていたようです。

当時の事を実際に知っている人には、まだ出会っていません。

但し、今回、八幡様から、この権現様を抱えている人が誰だか教えて頂くことができました。

昔話ですら、聞いたことのない大日さんの神楽です。

 

神事

 

情報どおりに飯豊神楽さんの打ち鳴らし

 

しばし、境内散策です。笑

 

明治初期に写された地図

現在の遠野小学校には左から東善寺、妙泉寺、善応寺が並び、右側の鳥居マークが

現在の日枝神社(通称:大日さん)

東善寺は、附馬牛にあり、後に盛岡に移った東禅寺でなく、

八戸から遠野南部氏が領地替えになった際、共に移された東善寺です。

妙泉寺は附馬牛、善応寺は青笹。

 

境内には天満宮、消防追悼碑、愛犬乃碑などがあり、今回引き寄せられたのは子護稲荷社

脇の説明文には、旧是川屋敷内にあった稲荷社で、市民センター建設前にあった

旧遠野小学校建設により、子供たちを守ることを念じて移設されたとのこと。

 

元の場所はと地図を見ると、真ん中の工藤紀内の北側に是川卯右エ門とある場所です。

八戸時代からの是川氏は、明治に武藤と改姓。

 

明治末期の「遠野案内」には、荒廃した日枝神社の様子が書かれており、

大正12年4月の漫画新聞白龍には、鍋倉神社例祭が5月の2,3日に変更となったお知らせ。

時のまつりごとによる人心の変化を感じることができます。

今だに新コロの影響を受けている市内の例祭にて・・・。

さあ、今月末は、下の娘の引っ越し仕舞、仙台から東京へ!


黒森神社訪問

2022-05-31 11:53:39 | 神社

数年前、毛ガニを買いに北隣りの宮古市に行った際、山口公民館で黒森神楽の展示を見ました。

そのついでに黒森神社へ向かったものの途中で断念。

 

今回、縁があってその黒森神社へ行くことになり、前日までネットで道順確認。

地図やらブログ・写真などを見てもこの案内板まではわかっても、その先が・・・。

前回は、このY字路まで来て、右の幅広の道を途中まで行ってあきらめました。

と云うことで、今回は車がやっと通れるほどの左です。

 

不安になりながら、5,6分ほど走ると神社下の駐車スペースに到着。

案内板から左へ上がった袋小路のような場所でした。

 

ちょっと急で長い階段を上るとネットでも見たことがる境内

やっと念願叶う!です。笑

 

境内には10名ほどの人がいて、安心して、まずは、黒森神社本殿参拝

 

この建物に興味があり、じっくりと

 

本殿の両脇には境内社が並びます。

 

掲額の黒森の文字も独特です。

 

回廊下にも組物

 

三手先の升組

この建物は宮古市指定有形文化財で、現在の建物は嘉永3年(1850)再興。

この3年後に浦賀にペリーが来航、またこの年の数年前後には三閉伊一揆や信濃、安政の地震。

 

現在の本殿前の階段下が元の本殿跡

 

有名な山口太鼓の里にある神社

 

社務所脇にはきらびやかな御神輿が保管されていました。

 

石燈籠で気になった名前・・・前川善兵衛・・・あの吉里吉里善兵衛だと思われます。

延享5年(1748)の建立。4代目善兵衛富昌かと。

前川善兵衛は東屋孫八という屋号で、名字帯刀が許されていた盛岡藩の御用商人。

遠野では踊岡開発で有名な百専右衛門の祖父高橋仁兵衛が、東屋仁兵衛として

吉里吉里善兵衛の株を引き受けて酒屋商売をしていたことが知られています。

 

お昼少し前、新コロ対策の係員もスタンバイとなり、

 

よもぎ餅を頂き、持っていったおにぎりも食べ、ちょっと一息となりました。笑


宮守町豊受神社

2021-10-09 11:28:54 | 神社

14年前に一度訪ねたことがあった下宮守北端辺りの豊受神社。

解体が決まり、その前にということで、権現さんの案内で、見学させて頂きました。

 

神社の後方にため池があり、その東側の山には宮守氏が居た神成舘(宮守舘とも云う)

永享9年(1437)、大槌孫三郎と気仙の岳波太郎連合軍に松崎町の横田城が攻められ、

窮地に陥った遠野領主阿曽沼秀氏は三戸南部守行に救援を求めます。

守行はこの神成舘に入り、出撃前に泊まっていたところ、連合軍の夜襲に遭い、

達曽部まで引き返したところで方向転換し、馬越峠を通って附馬牛に入り、

横田城の背後から連合軍を攻め、追い返しました。

その後、守行は孫三郎を追って大槌へ入り、その戦いで矢を受け、亡くなります。

その亡骸を葬ったところが現在の附馬牛町の東禅寺跡の傍ということになります。

長い前置きでしたね~笑

 

本題の豊受神社

14年前にも書いていますが、豊受は食物・穀物の神様

 

時代は定かではありませんが、舘稲荷と呼んでいた時期があるようです。

この舘は神社の持主多田氏の屋敷だけではなく、後ろの神成舘をも意味するのでは?

と想像しているのですが・・・。

 

中には三神を祀る立派な社が設けてあり、提灯には別当市左衛門の名前。

 

その社に祀ってあったのが、この三体。

 

そして、真ん中の社の両脇にキツネ、他には絵が数枚あるだけ。

これだけでは、この神社がいつ建立されたのかがわかりません。

手掛かりは、

 

この豊受神社の掲額、筆者は宇夫方文吾

豊受は食物を司ることから、稲荷の別名として文吾によって名付けられたものと想像。

次にその宇夫方文吾、明治33年(1900)に亡くなり、大慈寺に眠っています。

江戸時代の末期には六日町にある現在の県合同庁舎北側道路角の公舎敷地、

旧村兵屋敷の道路向かい角に屋敷があり、60石取りの遠野南部家臣。

明治3~11年までは土淵町の倭文神社の神職でもありました。

額には名前の前に権中講義とあり、これは階級を表し、

神道の教導職にあったことがわかります。

これらのことから、この掲額は明治時代に豊受神社と改名されたものかと。

 

その後、入口の扉以外から光の入らない内部を見ても何もありそうにないことから、

しばらく像や絵を眺めていましたが、宇夫方文吾の額や手の込んだ建物を観ていると、

どうしても、ここが明治からの神社には思えず・・・。

もうそろそろ帰ろうかと考え始めたところで、暗がりに目が慣れ、

もしやと思い、内部の三神中央の社裏側を調べたところ、出てきました!

棟札です。笑

出てきた棟札以外も含め、年代のわかるものを古い順に、

1,寛政9年(1799)9月15日 梵字の棟札(私には理解不能 汗)

2,同年11月15日 奉造立地神一宇祈所

3,同年11月15日 奉造立山神一宇家内安全

以上3枚は、導師法性院 別当市左衛門 大工源次郎

別当市左衛門は中の提灯にも記されており、世襲した名前だと思われます。

次に、

写真にも載せたキツネの置物は嘉永2年(1849)12月吉日 栃内何某作

そして、

4,嘉永5年(1852)菊月初8日 奉再建稲荷大明神寶殿壱宇上和下睦如意祈所

遷宮導師権大僧都一僧祇法性院深観九拝  願主別当田多惣重郎

大工興吉 鍛冶祐助 小工長福 屋根方平右衛門

5,嘉永5年9月初8日 奉再建牛頭天皇玉殿壱宇諸願圓満○ 當邑繁盛 如意吉祥

持主 田多宗重郎

6,嘉永5年9月初8日 奉再興山神社志願成就皆令満足祈處

地主 田多市左衛門

嘉永の札はいずれも、苗字が多田ではなく田多、名前も同一人物だと思われますが、

同一時期の札でありながら、なぜ故意に変えているのかわかりません。

7,年月日不明 稲荷社安置慎之證書 本宮祠官 松本筑後守 と書かれた證書入れの表ふた

おそらく江戸末期か明治初期に正一位の證書を頂いたのでしょう。

8,大正10歳1月9日 奉造立豊受大神廣前石鳥居壱門成就之所

祭主 宮守清志 社守多田市三郎 石工上宮守 菊池何某 

毒沢村 平何某 及川何某 日下何某

以上

建物内部の三つの社上にある額は、真ん中が稲荷、向かって右が天皇、左が山神

と云うことから、寛政9年の梵字の棟札はやはり稲荷なのでしょう。

さて、

7月3日の記事にも記した法性院、ここにも出ています。

 

鹿込神楽

前回は探せなかった法性院由緒、延享2年(1745)両派由緒書上帳には、

羽黒派下宮守村 正善坊

正善院実子無之付、下宮守村市左衛門二男俗名市之助と申候、

元禄12年(1699)12月養子に本尊へ申立仕候、同16年同村常楽院弟子罷成、

正善坊と名改申候、正徳元年正月坊跡相続仕候

とあり、下宮守ぶんの当時の修験で、後に法性院を名乗りそうな家はここしかありません。

市左衛門家と当時の正善院家は近所で、その縁から市之助が坊跡を継いだのでしょう。

上の写真の鹿込神楽さん、

昭和初期まで現在の上宮守神楽さんと一緒に活動し、小澤八幡のお祭りで袂が分かれたと

云われています。後に鹿込神楽は江刺梁川野手崎の早池峰神楽を習得。

 

上宮守神楽

二つに分かれる前の神楽は明治中期に、下宮守鹿込の宮守清(正確には清→清志)という山伏

から伝えられたと云われており、大正10年の石鳥居建立の祭主が宮守清志であることも含め

鹿込の山伏となると法性院

また、現在の上宮守神楽は八幡神楽と兄弟神楽だといわれることから、羽黒派法性院も

遠野郷八幡宮の例祭で神楽を演じていた一人だったと思われます。

豊受から法性院、そして、神楽と長丁場でした!笑

小さな地域で起こすもめごとは、世代を超えて遺恨が残るというひとつの例、

大人の対応ができなければお祭りにも参加する資格無しですね!

今年も中止となった遠野まつりの無念さを込めて・・・。