「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

傳勝寺のこと 其の一

2007-12-22 22:52:20 | 修験
 むがす、むがす、あったずもな~。遠野に傳勝寺(でんしょうじ)というお寺さんがあったんだど。

 八戸から南部氏が村替えとなりやって来た以降のことを調べていると目にするお寺さん。今は無いのでピンとこないのであるが、頭の片隅に残っている名前である。


(鍋倉山からの町の風景)

 遠野旧事記の訳本「やさしい遠野旧事記」には、次のように載っている。
 
  岩玉山 伝勝寺 盛岡大勝寺末寺  
 寛永の頃、占いが良く当たる僧がいて、ある時、鷹狩りに行ってその鷹の行方がわからなくなった時、その居場所を当てる事が出来、御褒美として遠野領主南部直栄様は20石寄付しようとしたところ、強く断ったと云われる。僧は、本来、仏のご加護によって民からのお恵みで暮らすのが筋で、これが出来るのも殿様からのご恩によるもので、これ以上のことは寺として犯してならないからだと理由を述べている。(いかにも、僧の鏡とも思える発言である。)


(明治初年の坂ノ下附近)

 この寺は、鍋倉城の坂ノ下にあったと云われ、宝暦13年(1763)著の「遠野古事記」には、元傳勝寺のあったところが、小向六郎左衛門の屋敷だと記されている。その時点で、この寺は無くなったか、移転したのだと思われるのだが、その後の傳勝寺に関する記述は見たことが無い。

 明治初年の地図には確かに坂ノ下の屋敷に小向姓が見えることから、ここが傳勝寺の屋敷跡なのかもしれない。


(昭和10年頃の坂ノ下=現在の市民センター周辺)

 鍋倉山側が小学校で、小向氏の屋敷があった場所は、畑になっており、現在の市民センターと来内川との間にある道路はまだ無い。勿論、お多賀橋も無い。


(本日の来内川周辺の様子)

 この地域だけでも、明治から現在までの間に、かなりの変遷があったことが、地図からもよくわかる。

 傳勝寺については、後日また。




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