度々取り上げている「明和」年号。そして、またまた、青笹町中妻の観音堂。
遠野では、程洞稲荷、三社稲荷大明神、笹谷観音堂、達曽部駒形神社の石碑と「明和」年号が登場するのだが、遠野においては、飢饉前後のことであるとか芸能伝播などについてふれているのだが、国内ではどうだったのだろう。
宝暦の後、安永の前(1764~1771)。後桜町天皇、後桃園天皇。徳川10代将軍家治。(私の知識にはない人ばかり)
明和2年9月:五匁銀(ごもんめぎん)発行。田沼意次の命により河合久敬が考案。金貨と銀貨の為替レートの固定を狙った最初の銀貨。これはほとんど流通しないまま明和5年に停止。(ようするに失敗)意次は幕府の財政赤字を立て直すべく、資本主義化を図ったが町人・役人の生活は金銭中心となり、贈収賄が盛んになる。(なんだか、この間までよく聴いた改革と同じような・・・)
明和3年10月:石垣島に大津波。(沖縄にだって津波は来るんだよ!)
明和8年夏:山城国宇治を中心に「お陰参り」が大流行。(宝暦に書かれた遠野古事記には駒木の角助が何十年前かわからないが、熊野参詣のおり、山城国にてしし踊りを見て、それを習い覚えてきたとされる駒木しし踊りなのだが、お陰参りが流行る以前に行っていたことになる) お陰参りは式年遷宮が行えないほど興廃していた伊勢神宮で祭司の執行者たる御師達が、農民にも参詣してもらおうと各地で布教活動をしたことが発端だったようだ。当時の農民には移動の自由はなかったが、伊勢神宮参詣に関しては許される風潮があり、数百万人規模にもなる参詣が60年周期で3回あったと云われている。その大規模な参詣を「お陰参り」と云うのだとか。
明和9年2月:明暦、文化の大火に並ぶ江戸三大大火のひとつである明和の大火が起こる。大岡忠相によって江戸町火消し「いろは四十八組」が組織された54年後。
なんとなく、江戸時代の「明和」の世の中の雰囲気がわかったが、何ゆえに遠野で、この時代に社が造られ、芸能が広まっていったのだろう。やはり、神仏にすがる気持ちが高まった時代ゆえか?荒んだ時代ゆえに芸能伝播者が各地域を渡り歩いたのだろうか。
最初に記したとおり、中妻観音堂を取り上げた際に及川豊後藤原春明なる名前にズームイン!したことがあるが、今回、その全文を見ていて、この方が、伊勢流の社人であることが改めてわかった。(以前にも原文にはそう書いてあったのだが気に留めていなかったため)社人即ち神職。明和7年に羽黒権現を「土伊村」から中妻に移した際に書かれた文章に載る。古肝煎甚十郎が兄弟の子孫繁盛を祈願して建てられたとある。
明和年号といい、伊勢流神職の存在といい、御師に関わる人々がここ遠野にも影響を与えていたことがよくわかる一例である。
明和を書いていながら、時代が違うのに「ええじゃないか」を連想する自分がここにいる。
遠野では、程洞稲荷、三社稲荷大明神、笹谷観音堂、達曽部駒形神社の石碑と「明和」年号が登場するのだが、遠野においては、飢饉前後のことであるとか芸能伝播などについてふれているのだが、国内ではどうだったのだろう。
宝暦の後、安永の前(1764~1771)。後桜町天皇、後桃園天皇。徳川10代将軍家治。(私の知識にはない人ばかり)
明和2年9月:五匁銀(ごもんめぎん)発行。田沼意次の命により河合久敬が考案。金貨と銀貨の為替レートの固定を狙った最初の銀貨。これはほとんど流通しないまま明和5年に停止。(ようするに失敗)意次は幕府の財政赤字を立て直すべく、資本主義化を図ったが町人・役人の生活は金銭中心となり、贈収賄が盛んになる。(なんだか、この間までよく聴いた改革と同じような・・・)
明和3年10月:石垣島に大津波。(沖縄にだって津波は来るんだよ!)
明和8年夏:山城国宇治を中心に「お陰参り」が大流行。(宝暦に書かれた遠野古事記には駒木の角助が何十年前かわからないが、熊野参詣のおり、山城国にてしし踊りを見て、それを習い覚えてきたとされる駒木しし踊りなのだが、お陰参りが流行る以前に行っていたことになる) お陰参りは式年遷宮が行えないほど興廃していた伊勢神宮で祭司の執行者たる御師達が、農民にも参詣してもらおうと各地で布教活動をしたことが発端だったようだ。当時の農民には移動の自由はなかったが、伊勢神宮参詣に関しては許される風潮があり、数百万人規模にもなる参詣が60年周期で3回あったと云われている。その大規模な参詣を「お陰参り」と云うのだとか。
明和9年2月:明暦、文化の大火に並ぶ江戸三大大火のひとつである明和の大火が起こる。大岡忠相によって江戸町火消し「いろは四十八組」が組織された54年後。
なんとなく、江戸時代の「明和」の世の中の雰囲気がわかったが、何ゆえに遠野で、この時代に社が造られ、芸能が広まっていったのだろう。やはり、神仏にすがる気持ちが高まった時代ゆえか?荒んだ時代ゆえに芸能伝播者が各地域を渡り歩いたのだろうか。
最初に記したとおり、中妻観音堂を取り上げた際に及川豊後藤原春明なる名前にズームイン!したことがあるが、今回、その全文を見ていて、この方が、伊勢流の社人であることが改めてわかった。(以前にも原文にはそう書いてあったのだが気に留めていなかったため)社人即ち神職。明和7年に羽黒権現を「土伊村」から中妻に移した際に書かれた文章に載る。古肝煎甚十郎が兄弟の子孫繁盛を祈願して建てられたとある。
明和年号といい、伊勢流神職の存在といい、御師に関わる人々がここ遠野にも影響を与えていたことがよくわかる一例である。
明和を書いていながら、時代が違うのに「ええじゃないか」を連想する自分がここにいる。