「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

明和

2007-10-30 18:03:54 | 歴史
 度々取り上げている「明和」年号。そして、またまた、青笹町中妻の観音堂



 遠野では、程洞稲荷、三社稲荷大明神、笹谷観音堂、達曽部駒形神社の石碑と「明和」年号が登場するのだが、遠野においては、飢饉前後のことであるとか芸能伝播などについてふれているのだが、国内ではどうだったのだろう。



 宝暦の後、安永の前(1764~1771)。後桜町天皇、後桃園天皇。徳川10代将軍家治。(私の知識にはない人ばかり)



 明和2年9月:五匁銀(ごもんめぎん)発行。田沼意次の命により河合久敬が考案。金貨と銀貨の為替レートの固定を狙った最初の銀貨。これはほとんど流通しないまま明和5年に停止。(ようするに失敗)意次は幕府の財政赤字を立て直すべく、資本主義化を図ったが町人・役人の生活は金銭中心となり、贈収賄が盛んになる。(なんだか、この間までよく聴いた改革と同じような・・・)



 明和3年10月:石垣島に大津波。(沖縄にだって津波は来るんだよ!)

 明和8年夏:山城国宇治を中心に「お陰参り」が大流行。(宝暦に書かれた遠野古事記には駒木の角助が何十年前かわからないが、熊野参詣のおり、山城国にてしし踊りを見て、それを習い覚えてきたとされる駒木しし踊りなのだが、お陰参りが流行る以前に行っていたことになる) お陰参りは式年遷宮が行えないほど興廃していた伊勢神宮で祭司の執行者たる御師達が、農民にも参詣してもらおうと各地で布教活動をしたことが発端だったようだ。当時の農民には移動の自由はなかったが、伊勢神宮参詣に関しては許される風潮があり、数百万人規模にもなる参詣が60年周期で3回あったと云われている。その大規模な参詣を「お陰参り」と云うのだとか。




 明和9年2月:明暦、文化の大火に並ぶ江戸三大大火のひとつである明和の大火が起こる。大岡忠相によって江戸町火消し「いろは四十八組」が組織された54年後。

 なんとなく、江戸時代の「明和」の世の中の雰囲気がわかったが、何ゆえに遠野で、この時代に社が造られ、芸能が広まっていったのだろう。やはり、神仏にすがる気持ちが高まった時代ゆえか?荒んだ時代ゆえに芸能伝播者が各地域を渡り歩いたのだろうか。



 最初に記したとおり、中妻観音堂を取り上げた際に及川豊後藤原春明なる名前にズームイン!したことがあるが、今回、その全文を見ていて、この方が、伊勢流の社人であることが改めてわかった。(以前にも原文にはそう書いてあったのだが気に留めていなかったため)社人即ち神職。明和7年に羽黒権現を「土伊村」から中妻に移した際に書かれた文章に載る。古肝煎甚十郎が兄弟の子孫繁盛を祈願して建てられたとある。



 明和年号といい、伊勢流神職の存在といい、御師に関わる人々がここ遠野にも影響を与えていたことがよくわかる一例である。

 明和を書いていながら、時代が違うのに「ええじゃないか」を連想する自分がここにいる。

茅葺

2007-10-27 10:26:58 | 地域
 土渕町高室にある水光園。ここで、今、曲り家の屋根換えを行なっている。昭和55年に移築されてから、差し萱などしながら維持してきたが、限界状態となり、今回の工事となったようだ。

 

 生憎の雨模様の中、進捗状況を見る見学会があった。



 右側が古いもの、左側が現在作業を行なっているもの。いかに、古くなっていたかよくわかる。



 軒先部分には、下地として三段の束が見える。

 市内には、遠野市が管轄している茅葺屋根の建物が30棟ほどあり、そのほとんどが、順次、屋根換え工事が必要となっているようだ。茅葺は、30年をひとつの目安として、差し萱や屋根換えをしなければならないとの説明があった。



 この工事には、遠野高等職業訓練校の茅葺科の生徒さん達も参加されており、技術の伝承を図っている。かなり急勾配の屋根での作業。雪が降る前には完成させないと逆に萱が傷んでしまう。

 

 この工事には、ご覧のように青森からプロの茅葺職人さんが参加している。弘前の北、十三湖のそばにある町。ここでは、湖のそばで、葦(よし)を育てており、その材料を使って東北にある茅葺屋根の工事を行なっている。東北では、遠野に近いところでは、宮城県でも同様の工事を行なっている方がいるが、良質な葦の量を確保できるのは、青森とのこと。
 遠野では、NPOなどの方々が茅葺を行なったりしているのだが、市内にある萱(かや)の量が足りないことと、萱より葦のほうが、丈夫であることから、協力を頂いているとともに、かれらの技術力の学習も目的のひとつであるようだ。
 かつては、萱場(かやば)と云われる屋根材確保のための場所が地域にはあり、その材料を地域の人々の「結い」によって、屋根葺きが行なわれていた。合掌造りの里でも同様。その場所を苗字としたのが「かやば」さんとなる。



 周辺はすっかり秋になっており、里との標高の違いがよくわかる。



 歩いていると、ザク、ザクと音が。辺りを見るとどんぐりが。去年より今年は、熊の食べ物が山にはあるのだろうかなどと思いながら一枚。



 屋根換えに参加している地元の大工さんにしてみれば、木を相手にしていたいところではあるのだろうが、プロの技術の習得が今後の遠野の風景維持には欠かさない。イベントとしての屋根換えではなく、しっかりとしたものを残すためにも。


秋めいて

2007-10-24 20:52:05 | 景色
 農作業が一段落すると、冬に備えて家を建てる仕事は慌しくなる。



 十人十色とはよく言ったもので、住宅に対する思いはそれぞれ違う。そんな中、ひとつの建物が建ち始めている。



 丸い棒はダボといい、柱と梁をつなぐのに用いる伝統工法のひとつ。



 手前から奥に延びる丈長の敷き桁の上に木口が見える角材は渡りあご。いずれも、遠野でも古くから行なわれていた伝統工法のひとつである。

 超売れっ子のアナウンサーが宣伝している猫の名前のようなハウスメーカーを筆頭に、金物で補強すればよしとする住宅が一般的だと認知されて30年近くになる。地震が起こる度に古くからの家が倒壊する画像がテレビに取り上げられると、伝統工法は地震に持たないなどと云われ、隅に追いやられようとしているが、果たしてそうなのか?

 法律にも、使用方法が規定されている伝統工法がまだまだ残っていることを少しは知っておいてほしいなどと思うのも姉歯さんやら遠藤さんやらの話題のせいかな。



 針葉樹と広葉樹の色のコントラストがきれいになってきた遠野の秋。

 家を造るには、大工さんを筆頭に20種類にも及ぶ沢山の職人さんの協力が必要で、一人前の職人になるには何年もの経験がいる。その職人を育てるのは誰なのだろう?人を育てることもせずに、一人前の人だけを、その場その場で集めては物を造る=人材派遣? いつの日にか、こんな田舎にさえも、職人がいなくなってしまうのではないだろうか?育てながら、物を造る。そんな寛容さが頼む側にも薄れているように感じる。



 きれいに色づく広葉樹に比べ、色の変化があまり感じれない針葉樹。曲がって、ねじれて、ひねくれている松の木を使い、造る建物。地元にあるものをそれなりに活かしてこその風景としての家造り。

 世の中、何かが違ってきているような気がしてならない。  

 

かくら様

2007-10-22 21:31:26 | 神社
 収穫の秋が過ぎると、来春までのんびりと過ごせるなら、それに越したことはないのだが、なぜかしら、私の仕事は、この時期が忙しい。



 先週、所用にて、土渕町米通(コメドオリ)まで行く。まだ、秋深しとまではいっていない。



 ハウスの向こうには、何回も撮っている社。土渕町には何箇所かある「おかくら様」。琴畑、西内、大洞、そして小友町にも。元々は、神の依り代となる場所を呼んでいたようであるが、いつのまにか、お太子様ともお地蔵様とも見分けのつかない仏像をそう呼ぶようになったのだとか。いつもの資料にも、おかくら様なる言葉はない。米通の場合、大槌町へ米を運ぶための街道として利用されたと云われるこの地域の集落の神様としての役割を担ってきたのだろう。



 そして、今日。新張の白幡神社の木々もだいぶ色付いてきた。



 我家の梅もどき。この赤い実が無くなる頃が、遠野の冬の本番。



 根雪になる前の完成を目指す、伝統工法の家。

石上神社 考 其の弐

2007-10-14 20:37:48 | 神社
  ●安永2年(1773)奉納絵●

 安永元年、南部藩勘定所は遠野町内六度市の荷役銭を一駄30文から80文に引き上げたことから市への荷駄の数が減り、駄賃づけ業者は失業同然となり、さらには安永6年からは荷役銭問屋の免許を盛岡の商人に与えるに至った。これらの積もり積もった鬱憤が同年3月10日の朝、早瀬河原に遠野三町の民のみならず、裏町や上郷などの駄賃づけ業者も加わり300人が盛岡への直訴を行なった。そのような時代に奉納された絵。




  ●棟札 其の弐(前回の写真左右)●

 左が弘化5年(1848)3月、石神大権現御舎檀の上棟棟札、右が嘉永元年(1848)正一位石神新山宮一宇建立の棟札。弘化から嘉永に同じ年に改元となった。どちらも一緒に計画されたものであろう。石神新山宮のものには、家臣:脇山六兵衛、木村安兵衛、脇山安宅とあり、社主別当:鈴木山城守信行とある。大檀那の武運長久と安全祈願がされている。
 宝暦以降、天明、天保と相次ぐ飢饉や、重税に苦しむ時代を経て、弘化4年冬、世にいう三閉伊農民一揆が起こる。参加人数12,000人とも。盛岡藩は鉄砲隊を率いた家老南部土佐を派遣したが、農民は土佐の云う事は聞かず、交渉は遠野が当たることとなり訴状は新田小十郎が受け取り、終結後、農民の帰村にあたり遠野側から米と銭を支給した。(交渉中の炊き出しも遠野側にて行なう)この事件を知った幕府は盛岡39代藩主南部利済を退位させ、弟の利剛を40代藩主に就かせた。



  ●日月堂棟札●

 文久元年(1861)9月、大檀那:南部弥六郎済賢、小檀那:新田小十郎、神主:鈴木山城守
 前回ふれた日月堂がここに登場。領内家臣、領民の安全と五穀豊穣が祈願されている。一揆などによって、またもや、心が離れていく領民との修復を考えての策であったのだろうか。桜田門外の変の翌年に当たり、この後時代は、元治、慶応、明治へと近代化へ加速度的に流れる。
 この神社で行なわれている石上神楽は、その明治の始め頃、鈴木林之丞が大出早池峰神楽を習得して始まったとされているのだが、この鈴木姓が石神に登場するのは、嘉永の棟札からで、山城守となっている。弘化以前については現在のところ、その存在を証明する資料がないが、南部家との関わりによって別当ではなく、神主として派遣された人物なのであろうか?ちなみに、早池峰山妙泉寺の社家である始閣家はもとは鈴木を名乗っていたという。穂積系鈴木氏は、熊野系神職として全国に広がったとされているが、妙泉寺鈴木氏と石神鈴木氏は、中世より繋がりがある一族だったとは考えられないだろうか?始閣家は吉田家から社人としての許可状を受け、備前・備後守を名乗っていたのであるが、その他の別当職の方が、江戸時代に許しを得たという資料は、まだ、拝見したことがない。ちなみに、石上神社周辺に住んでいる方の多くは鈴木姓であり、現在の別当も然り。



 ご存知のとおり、現在の綾織町鵢崎は、附馬牛を通って横田村へ行く際の主要道であったことから、早池峰山妙泉寺とは阿曽沼氏の時代から最も身近な隣村としての関係が成り立っていた地域と思われる。また、遠野郷の米所として豊か地域でもあり、家老新田氏の知行地としての位置づけについても納得できるものである。このような関係からも、早池峰山妙泉寺や東禅寺との深い関係を南部氏が重要視し、修験者の管轄外の地域として、南部氏が掌握していたのではないだろうか。
 
 最後に、曹洞宗長松寺は、綾織の及川氏の先祖一翁浄心が寛永2年(1625)に開基した寺院とされ、南部氏が八戸から遠野へ移った24年後には無住となっており、大慈寺11世泰育の弟子尊達を住職として再建させたものである。この由緒については、寛永8年の幕府からの新造寺院禁止令によって、盛岡東禅寺と同じように由緒が書き改められたとも考えられる。いずれにせよ、阿曽沼氏の時代には栄えていた綾織を新しい主となった南部氏が、宗教上においても、領民を掌握しようとしていた様子が良くわかる。ところでこの地域で最も古くからここに住んで居るのはどなたなのだろう?鈴木姓、及川姓、馬場姓、宮守姓で90%以上にもなるのだが。鈴木を除くと及川・馬場は南部家臣にも同姓が見られる。宮守姓は阿曽沼時代からの宮守主水に代表されるが、この方は後年、移ってきたことがわかっている。南部氏以前の方は、もしかしてこの地を離れていたのではないだろうか・・・。