昨年8月22日に亡くなった義母の一周忌法要が土曜日でした。
時々愛妻が今回の段取りをすべてこなしたのですが、
きっと何か思うことがあったのでしょう。
嫁さん家の菩提寺 時宗 金円山 常福寺
正平22年(1367)南部信光が甲斐の国に創建したのが始りで、その後、南部氏と共に
八戸に移り、応永18年(1411)に海浮山仏浜寺と名を改め、寛永4年(1627)に根城
南部氏の領地替えにより遠野に移り、現在に至る となります。
江戸時代の豪商両川覚兵衛が下組町西はずれ愛宕神社に寄進した御地蔵様
明治の神仏分離令により常福寺へ
なかなか立派なお地蔵様です。
今回、改めて、上記の御地蔵様隣にある石の御地蔵様建屋の鰐口を見ると、
祀官澤井但馬藤原秀麿代 安政5年3月吉日
裏には、寄進した人たちの名前があり、大勢の商人の屋号が載っていました。
どちらを見ても、心当たりのない名前ばかりで、これは、どこにあったものだろうか?
と、法要前にいらない詮索。笑
本堂内部の釘隠し
よくよく見ると、南部変り花菱(日輪花菱)で、遠野南部氏の替紋のひとつです。
江戸時代、参勤交代では家臣も同行し、自分の紋付を着用します。
その参勤交代には遠野の領主、遠野南部(八戸)氏の家臣(家臣の家臣を陪臣と云います)
も同行することがあり、その際、盛岡藩家臣と陪臣がいらぬもめごとを起こさぬように、
遠野の侍は、この紋の入った揃いの羽織を着用したと云います。
さて、皆さん揃ったところで法要です。
義父も、義父の弟も、義母の兄も亡くなり、関係者もだいぶ少なくなりました。
時々愛妻家の苗字を名乗る人も遠野に三人だけに。
この苗字の方が昭和21年にお寺さんに寄進した品物と名前が本堂の柱に架けられて
いるのを見ると、本家筋は苗字の一文字に木辺がついていることに気づきました。
時々愛妻家では木辺無しの漢字であることから、おそらく大正時代に分家になった際の
届け出で略漢字を使用したものが、そのまま、現在の苗字になっているのでしょう。
法要後はお墓にて線香を。
今回は新コロへの市内の雰囲気から会食無しで終わりにさせて頂きました。
片付けやら、着替えやらを済ませた夕方近く、二人揃った子供たちも一緒にこちらへ。
ゆっくりしたかった時々愛妻の好意に甘えさせて頂きました!笑
新コロワクチンも無事終わりそうな11月末、ここで高校時代の同級会が
予定されており、8月下旬には案内が発送されます。