「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

盛岡城址と桜山神社

2008-05-26 18:19:24 | 神社
  日曜日は小学生の地区行事が雨天のため中止。その連絡のために朝5時過ぎから、起きる。雨は止まず、その後、盛岡へ。

 

 雨が降っても中止にならないイベントへ参加。いざ!盛岡城へ。
ということで、西側の吹上門跡へ続く上り口から。

 

 最初の平坦地で、こんなカップル?親子?に出会う。

 

 本丸隅の石垣。

 

 本丸と二の丸に架かる橋。

 

 東側の内堀。雨上がりの景色を撮るカメラマンが結構いた。

 

 本丸の石垣下に集まっているのは、岩手県内で零細建築関連の仕事する人達。
この弱小業種の方々が加入している国保の集まり→一揆!?各政党の先生方に挨拶を賜るが、与党も野党も、少しピントがずれている感じ。
 会社であれば社会保険なのだが、裸一貫の職人さんは当然、国保。その下で働く人も。中には日給月給といわれる一日いくらで給料を受け取る人もいるわけで、年金を受け取る時には、国民年金以外に収入源もない方が多い。(自分自身を含めて老後の心配がつきまとう)→政府曰く、その為に国民年金基金があるのです!→預けるお金はどこから出すのだろう?→収入は減り、税金は上がり、景気は下降、物価は上昇。中央省庁のものの例えに「平均年収を基準に算定した」というフレーズがよく出るが、山奥に住む人達の年収はいくらだと思っているのだろう?こんな思いを抱きながら、盛岡本藩のメインストリートを行進した次第。

 この先、ムシロに「小○」の文字を書いた旗を持って、歩くことがないことだけを祈る。

 

 天気同様に湿っぽい話はここまでとして。藩祖南部信直を祀る桜山神社。

 

 この日は、お祭り。仙台の大崎八幡宮でも見た六角形のお神輿が、出番を待っていた。

 

 神輿飾りには、南部の家紋が勢揃い。向い鶴、武田菱、花菱、九曜。(注視したいのは、九曜は○に九曜ではなく、九曜だということ・・・郷土芸能の意匠に○に九曜を付けているものがあるが、伊達藩・南部藩共に純粋な九曜が紋のひとつとなっている)

 

 行列に参加する武者を乗せる馬。

 

 毎度お馴染み?の神社前にある「遠野屋」。遠野に住む人がジンギスカンを食べに盛岡まで行くことはないだろうが、何かの機会にご利用下さい。(私は遠野出身のオーナーの回し者です!笑)

 

 この日最高にうれしかったのは、この人達を見かけたこと。

 お祭りに参加する火消しの皆さん。

 今回も残念ながら、お祭りそのものは見られなかったが、来年は・・・・と思いながら歳を重ねるのカナ、カナ?

運動会第二弾

2008-05-24 23:38:56 | その他
 先週に続き、本日も運動会。今回は小学校の部。

 

 朝6時半から、親父達は各地区ごとにテント設営。おそらく、女性の多くは、もっと早起きしてお弁当を作っている最中なのだろう。

 

 見覚えのあるお父さんから、にわかカメラマンまで、開会式を見守る。私自身、PTAとして8回目の小学校運動会。(あの人にまだ小学生の子供がいたんだと、思われている古株になりつつあるような・・・・)

 

 各学年2クラス+α の児童の他、参加児童の家からは、親はもとより、両親それぞれの祖父母まで声援に駆けつける学校最大の行事のひとつ。

 

 基本となる徒競争。私が小学校の頃は短距離が苦手だったが、決して鳶は鷹を生まない・・・ようだ。

 

 定番のムカデ競争などの団体競技。このへんになると親も安心して見ていられる。

 

 騎馬戦も。

 

 いつも面白いと思う綱引き。ここのは、後ろに曳くのではなく、左右の陣地方向へ曳く。騎馬戦もこの綱引きも子供達なりに駆け引きがある。そして、その作戦どおりに動かないのも小学校の運動会の面白味。

 

 純粋な気持ちで精一杯行なう応援合戦。

 

 自分のチームの応援だけではなく、対戦相手を讃えることを学ぶ。

 

 今年で20年目になる薬研太鼓。この小学校の学区には、駒木しし踊りや横田田植踊りという伝統芸能はあるものの、遠野祭りには各地区から様々な出し物で参加しているという事情から、学校でまとまってできるものをという配慮から生れた。
(20年も続ければ立派な伝承活動となり、この20年間に巣立っていった卒業生にとっては、思い出深いもの)

 

 閉会式が終わり、後片付けが行なわれる頃、子供達は、今年で最後の運動会となった6年生に感謝のエールを行なっていた。


 まだ、この学校がない頃、八幡周辺から、早瀬川までの子供達は、砂利道を、現在の遠野小学校(旧 東小学校)へ通っていた。行く時は、場所によってはバスで、そして帰りは、歩いて。市内周辺部には、まだ、至る所に分校がある中で、最大の学区面積をもつ学校だった。
 
 それが、学校の火災という思わぬ出来事(ちょうど運動会の前日)によって、西小学校と東小学校の統合となった。
 現在、統廃合問題が議論されている最中ではあるが、この話題を聞くたびに、当時の合併のことを思い出す。

 そして、今後、このような伝承活動はどうなっていくのだろうと。各地域に伝わる伝統芸能はどうなっていくのだろうと。 

 

 
 

一山伏の話

2008-05-21 12:58:19 | 修験
この話は、史実と想像が混在した寝物語ゆえ、おおらかな気持ちで流して頂きたい。
  

-1-
 
 秀吉による奥州仕置の時代、北川三右衛門なるひとりの人物があった。時は、文禄4年(1595年)、秀吉から会津を賜った蒲生氏郷が死去し、慶長3年(1598)嫡男秀行は秀吉の命で宇都宮に移され減封されるが、慶長5年(1600)関が原の戦いの功によって家康から60万石を与えられ、会津に戻る。寛永4年(1627)三代蒲生忠郷が死去し、三代忠知は伊予松山藩に移封となる。
 
 三右衛門は、この氏郷に仕官していたのだが松山へ同行すること叶わず、寛永4年に浪人となる。江戸に出た三右衛門は同じ蒲生氏縁の儀俄六郎左衛門が盛岡南部氏に仕官することを知り、同様に身を立てる。会津から江戸へ、そして、はるか盛岡へ。


-別系1-

 秀吉の奥州仕置の時代、北川三右衛門なるひとりの人物があった。会津の蒲生氏郷に仕えていたが、訳あって浪人となり、遠野へ下る。時の遠野は、南部氏と伊達氏の覇権のはざ間にあり、無法地帯と化していた。阿曽沼の臣で家督を継ぐ立場にあった者達は処払いを命じられた後のことで、五日市を治めていた立花縫の直系の人々は既にこの地にはなく、わずかに、似田貝の集落があるだけであった。
 この五日市に、北川家の守り本尊である不動尊を持参した三右衛門は、三閉伊一揆の三浦命助と同様に山伏として、、五日市の一角に住むことになる。人々は、宗教行事を司る三右衛門を次第に認め、土淵周辺の村々にあるお堂を霞とする本格的な修験者への道を進む。しかし、仕官の夢は捨てないまま。
 そして寛永4年、八戸から南部直栄が領地換えになるや、盛岡から派遣されていた城代やその家臣から得ていた情報を基に、盛岡南部氏に仕官する。





   -2-

 盛岡での三右衛門は、忠勤に励み、町奉行等を歴任していた儀俄六郎左衛門の娘と結婚し、300石を有するまでになる。妻との間には、文助という子供を授かる。
 しかし、文助に家督を譲るにはあまりにも幼く、寺西市右衛門の息子、新左衛門勝秀を養子として迎え、家名を存続させる。それは南部重直公の治世(1632~1664)のこと。



-3- 

 2代目新左衛門は、御者頭(足軽頭)を勤め、寛文元年(1661)には、50石加増され350石となり、元禄には財政トップの御勘定頭に昇る。この頃までの南部藩の年貢高は、検見役が領内の作況を見分して歩附(税率)を決める検身制をとっていた。この制度では雪が被っても検見が終了するまで刈り取りが許されず、巡回する役人の経費はそれぞれの村の負担となっていたのである。それを、行信公の時代に、概歩制(ならしぶ)に切り替えた。これは、代官立会のもとに村の肝煎りなど村方役人が自己査定の上に年貢率を決め、各種弊害も取り除こうとしたもので、北川新左衛門らによる政策でもあった。
 新制度へ切り替えた年は、どうにか豊作となったものの、その翌年から凶作が続き、藩をあげての倹約政策を実施している中、書類も無しに御蔵米の出し入れや木材の伐採などを行なっていたことが発覚し、年貢制度の切り替えに加担した人々と共に罪にとわれ、八戸彦市(八戸九太夫とも)に御預けとなる。時に元禄16年(1703)。この後、禄を召し上げられ、遠野へ配流となる。




   -4-
 
 息子を伴って遠野へ来た新左衛門は、はじめ城下の遠野南部重臣の家での生活であったが、沢里氏や飛内氏が代官を務める土淵に移り、家族は農業を営みながらの生活となる。これは藩の御勘定頭を勤めたほどの人物で、政権争いとしての一面による失脚でもあった故の処置である。
 とは言え、家臣としての資格停止中で公に行動できない北川家は、守り本尊であるお不動様を持っていたこともあり、土淵の開発を進めるにあたっては、修験者としての役割を併せ持ちながら、村の人々と交わっていった。




  -別系4-

 寛永4年に父三右衛門がこの地を離れて76年もの月日が流れ、新左衛門も50代半ばとなっていた。父親がその時残した家族は、今や、五日市喜楽院と栃内長圓坊の二系になり、土淵にしっかり根をはり、地域開発の指導者として自立していたのである。遠野南部重臣の元に身を寄せながら、盛岡の情勢を把握し、親族とも交わりながら地域開発の相談にも応じるといった生活が続いていく。




-5-

 南部利幹の時代となり、宝永6年(1709)、徳川綱吉の逝去による大赦によって、罪を解かれた新左衛門は、61歳になっていたが、5人扶持にて盛岡へ召し出され、翌年には現米60石を加増され、合わせて90石となる。そしてその禄を隠居料として賜りながら、またもや、お叱りを蒙り、内堀帯刀への御預かりとなり、配所にて亡くなる。71歳。亡くなった翌年、罪を免れる。
 若い頃から、藩の中枢にいた人物でありながら、奔放な性格が災いして、折角の藩の好意を無にした感は拭えないが、これが新左衛門なのである。




-6-

 新左衛門亡き後、養父の実子であり、新左衛門の義弟である文助が家督を継ぐのだが、享保の早くに亡くなる。文助には嫡子なく、断絶。また、異母兄弟の良助は、父新左衛門が罪に問われた時に、母方の相坂氏へ預けられていたのだが、享保9年(1724)に亡くなり、この系統も断絶する。




   -7-

 新左衛門は、当初、野田氏の娘を妻としていたが、幼子を残して先立たれ、この子は、遠野配流の際に、遠野に残し、後妻である相坂氏の娘との間に出来た良助は嫁方の相坂氏御預りと、家族が分かれていたのであるが、新左衛門亡き後、異母兄弟も亡くなった遠野の遺児は、半農の修験者として、土淵に行き続けることになる。




  -別系7-

 盛岡に移った北川一族は断絶し、遠野には喜楽院、正福院の家が続くことになったのである。




 参考資料:土淵教育百年の流れ、参考諸家系図、盛岡タイムスWeb News

ちょっと一言

2008-05-19 18:04:24 | その他
 聞き捨て成らないこと 

 高清水の展望台の屋根に上って写真を撮ろうとしていた人達がいたという。

 
 人としての道は守りたいものである。

 

 気分転換に


 

 カラスと蒲公英


 

 棚の白藤


 

 自然に帰ろう


 

 心を映す鏡

 

大運動会第一弾

2008-05-17 23:46:49 | その他
 昨夜はだいぶ雨が降ったそうだ・・・・歯ぎしり・いびきと少し隣に寝ている方に迷惑をかけながら熟睡していた私には、雨の音など聞こえる由もなく。朝、目覚めると少し隣に寝ていた方から、この雨で運動会大丈夫なのかしら?との問い。昨晩の天気予報では、午前中は曇りで午後晴れとあり、夢の世界に居ながら、一言、大丈夫!

 そんな密会から始まった一日。

 

 雨上がりの庭に咲く花、その一。

 

 そのニ。

 田舎のテレビでは、最高気温が20℃とか。

 

 駒木あたりの方と画像がダブりますが、なるべく、そうならないように・・・。

 

 ぐんぐん気温が上がり、半袖でなくてはならないほど・・・・。

 

 上半身裸の男子生徒は気持ちが良さそうなほど。

 

 娘がお世話になった、及び、なっている小学校から、校長先生・担任の先生・時々コメして頂く今春転任された先生がお出でに。

 中学校の父兄としての経験2年目となった今年は、去年と違う感想を持ちながら見学。昨年は、OBとしての目で、今年は、PTAとして。

 

 お昼を食べ終え、午後の部になると急に雷がなり、南西の空が暗くなる。やませか?台風の影響か?そして、雨。半袖どころかありったけの服を着こんで見守る。

 

 閉会式の頃には雨も止み

  遠中賛歌

 大日の森日に映えて 熊笹強く四方に伸び
 栄えゆく日の限りなく 進取の心男の子らの
 血潮はもゆる学舎に
 ああ ああ遠中 遠中 遠中の名は高くあり

 遠野中学校が現在の遠野小学校敷地にあった頃の歌詞である。

 今から30年以上も前、この運動会で、この閉会式で、賛歌の先だちとして手を振っていたことを思い出す。

 

 おまけ:ここで見つけたもの。