「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

出羽三山神社 前編

2013-07-03 09:30:17 | 修験

予定は決定ではない旅の続きで、引っ張る

さて、白糸の滝を後にし、一路目的地へ

 

到着するなり、こんな装いの方に出会う

 

本来であれば、表参道より2446段の石段を昇って神社へ行くということだが、

今回は、下りのコース

 

バスを降りると、間もなく目に入ったのが天宥社

ここ、羽黒、中興の祖ともいえる修験天宥を祀る

 

出羽三山とは云うまでもなく、羽黒山、月山、湯殿山を指すが、江戸時代の遠野では

羽黒派に属する修験者が多く、遠野小学校東側の日枝神社は、

かつて善応寺であり、大日如来を祀る出羽三山信仰の寺でもあった

 

いざ、出発

 

まず目に入るのが参集殿と茅葺の鐘楼

最上家信の寄進による鐘楼は元和4年再建、参集殿は2100㎡もの広さだとか

 

隣接する三神合祭殿は屋根の葺き替え工事中

高さ28m、文政元年のもので国の重文

 

恐れ多く、内部は撮れず

財布を忘れ、人のお金で参拝した者がいたが、この後、天罰がくだることになる

 

蜂子社、開祖を祀る、右には厳島神社がある

 

それでは、石段を下がります

約二十名が一緒に下がり始めるが、見る目的のない人たちは、

元気よく下がり、私は、その集団から遅れ始まる

 

参道には、季節の花

 

斎館

かつての羽黒山修験華蔵院の屋敷で、この境内には30余りの宿坊があったようだが、

明治の神仏分離令により、ここのみを残し取り壊されている

現在は、精進料理などを提供する施設としても利用

 

石段の参道の途中にはこのような社が点在

これは尾崎神社

 

時折、上を眺めるが、このような風景が繰り返される

 

松尾芭蕉は、ここにも滞在している

「有難や 雪をかほらす南谷」

 

やっと、二の坂付近にある「力もち屋」さん

ここで一息と思ったが、連れの御一行様の姿が見えず、

かなり離れたことを痛感し、そのまま下へ

 

カメラ小僧は、取り残されたようです

 


上郷毘沙門そして愛染院

2009-12-05 10:25:19 | 修験

里に雨が降った次の日のこと

 

いつもの道とは全く別な脇道から荒神と六角牛を望む

 

山では雪になっていたようだ。これって3回目かな?

 

そして目的地へ

上郷町佐比内まで

 

民家へと続く細い道路の正面にある神社

 

毘沙門

 

「御領分社堂」には、上佐比内村(紫波の佐比内は下佐比内村) 毘沙門 俗別当 源十郎とある

 

 上郷村誌・上郷聞書をみても記述は無いが、江戸時代には存在していたことは確かであり、近年建立された福泉寺のものを除いては、遠野ではここだけなのかもしれない。

 毘沙門は古くは胆沢城から徳丹城までの間、北上川東側の北上高地に坂上田村麻呂に関わる謂れと共に多く見られる。

 

金神と大峰を奥に控える鉱山の地を感じる金神と、何を指すのか明確には不明な大将軍の碑

 

正面は月山・・・かつては山の頂に三間四面茅葺寄棟のお堂があったようだ。

 

興廃した月山神社を麓に下げ、近辺にあった沢口観音と宇迦神社を同一敷地に移したと聞いているが、いずれ訪問したい。

 

この月山はこの地に移住してきた太田一族が建立したものだと云われているが、どこからの移住だったのだろう?

 

そして、今朝

 

寒いと思ったら、中村の37号には雪が降っていた。

 

 以前、この荒神さま、をとりあげた際、愛染院という山伏にふれたが、一如さんとのやり取りから気になることがあり、再び資料を確認する。

 寛政七年(1795)三月の「宗門改覚帳」によると、

 愛染院      70(歳)

 女房        61

 嫡子 龍樹院  33

 女房        33

 龍樹院子 左七  5

 松之助      29

 女房        28

 朝日養女 榊     18

 朝日        52

 吉         23

 〆10人内 修験2人 神子2人 俗男3人 俗女3人

 

 同集落では、「しらあの祭文」で知られる蓮珠院の家12人に次いで大きな修験の一族であったようだ。後年に愛染院本家は遠野を離れたと聞いているが、おそらく、この系統の家が集落内には残っているだろうと想像できる。

 

先日、温暖化などと云った途端にこれ!北国の師走の天気は読めません。


一山伏の話

2008-05-21 12:58:19 | 修験
この話は、史実と想像が混在した寝物語ゆえ、おおらかな気持ちで流して頂きたい。
  

-1-
 
 秀吉による奥州仕置の時代、北川三右衛門なるひとりの人物があった。時は、文禄4年(1595年)、秀吉から会津を賜った蒲生氏郷が死去し、慶長3年(1598)嫡男秀行は秀吉の命で宇都宮に移され減封されるが、慶長5年(1600)関が原の戦いの功によって家康から60万石を与えられ、会津に戻る。寛永4年(1627)三代蒲生忠郷が死去し、三代忠知は伊予松山藩に移封となる。
 
 三右衛門は、この氏郷に仕官していたのだが松山へ同行すること叶わず、寛永4年に浪人となる。江戸に出た三右衛門は同じ蒲生氏縁の儀俄六郎左衛門が盛岡南部氏に仕官することを知り、同様に身を立てる。会津から江戸へ、そして、はるか盛岡へ。


-別系1-

 秀吉の奥州仕置の時代、北川三右衛門なるひとりの人物があった。会津の蒲生氏郷に仕えていたが、訳あって浪人となり、遠野へ下る。時の遠野は、南部氏と伊達氏の覇権のはざ間にあり、無法地帯と化していた。阿曽沼の臣で家督を継ぐ立場にあった者達は処払いを命じられた後のことで、五日市を治めていた立花縫の直系の人々は既にこの地にはなく、わずかに、似田貝の集落があるだけであった。
 この五日市に、北川家の守り本尊である不動尊を持参した三右衛門は、三閉伊一揆の三浦命助と同様に山伏として、、五日市の一角に住むことになる。人々は、宗教行事を司る三右衛門を次第に認め、土淵周辺の村々にあるお堂を霞とする本格的な修験者への道を進む。しかし、仕官の夢は捨てないまま。
 そして寛永4年、八戸から南部直栄が領地換えになるや、盛岡から派遣されていた城代やその家臣から得ていた情報を基に、盛岡南部氏に仕官する。





   -2-

 盛岡での三右衛門は、忠勤に励み、町奉行等を歴任していた儀俄六郎左衛門の娘と結婚し、300石を有するまでになる。妻との間には、文助という子供を授かる。
 しかし、文助に家督を譲るにはあまりにも幼く、寺西市右衛門の息子、新左衛門勝秀を養子として迎え、家名を存続させる。それは南部重直公の治世(1632~1664)のこと。



-3- 

 2代目新左衛門は、御者頭(足軽頭)を勤め、寛文元年(1661)には、50石加増され350石となり、元禄には財政トップの御勘定頭に昇る。この頃までの南部藩の年貢高は、検見役が領内の作況を見分して歩附(税率)を決める検身制をとっていた。この制度では雪が被っても検見が終了するまで刈り取りが許されず、巡回する役人の経費はそれぞれの村の負担となっていたのである。それを、行信公の時代に、概歩制(ならしぶ)に切り替えた。これは、代官立会のもとに村の肝煎りなど村方役人が自己査定の上に年貢率を決め、各種弊害も取り除こうとしたもので、北川新左衛門らによる政策でもあった。
 新制度へ切り替えた年は、どうにか豊作となったものの、その翌年から凶作が続き、藩をあげての倹約政策を実施している中、書類も無しに御蔵米の出し入れや木材の伐採などを行なっていたことが発覚し、年貢制度の切り替えに加担した人々と共に罪にとわれ、八戸彦市(八戸九太夫とも)に御預けとなる。時に元禄16年(1703)。この後、禄を召し上げられ、遠野へ配流となる。




   -4-
 
 息子を伴って遠野へ来た新左衛門は、はじめ城下の遠野南部重臣の家での生活であったが、沢里氏や飛内氏が代官を務める土淵に移り、家族は農業を営みながらの生活となる。これは藩の御勘定頭を勤めたほどの人物で、政権争いとしての一面による失脚でもあった故の処置である。
 とは言え、家臣としての資格停止中で公に行動できない北川家は、守り本尊であるお不動様を持っていたこともあり、土淵の開発を進めるにあたっては、修験者としての役割を併せ持ちながら、村の人々と交わっていった。




  -別系4-

 寛永4年に父三右衛門がこの地を離れて76年もの月日が流れ、新左衛門も50代半ばとなっていた。父親がその時残した家族は、今や、五日市喜楽院と栃内長圓坊の二系になり、土淵にしっかり根をはり、地域開発の指導者として自立していたのである。遠野南部重臣の元に身を寄せながら、盛岡の情勢を把握し、親族とも交わりながら地域開発の相談にも応じるといった生活が続いていく。




-5-

 南部利幹の時代となり、宝永6年(1709)、徳川綱吉の逝去による大赦によって、罪を解かれた新左衛門は、61歳になっていたが、5人扶持にて盛岡へ召し出され、翌年には現米60石を加増され、合わせて90石となる。そしてその禄を隠居料として賜りながら、またもや、お叱りを蒙り、内堀帯刀への御預かりとなり、配所にて亡くなる。71歳。亡くなった翌年、罪を免れる。
 若い頃から、藩の中枢にいた人物でありながら、奔放な性格が災いして、折角の藩の好意を無にした感は拭えないが、これが新左衛門なのである。




-6-

 新左衛門亡き後、養父の実子であり、新左衛門の義弟である文助が家督を継ぐのだが、享保の早くに亡くなる。文助には嫡子なく、断絶。また、異母兄弟の良助は、父新左衛門が罪に問われた時に、母方の相坂氏へ預けられていたのだが、享保9年(1724)に亡くなり、この系統も断絶する。




   -7-

 新左衛門は、当初、野田氏の娘を妻としていたが、幼子を残して先立たれ、この子は、遠野配流の際に、遠野に残し、後妻である相坂氏の娘との間に出来た良助は嫁方の相坂氏御預りと、家族が分かれていたのであるが、新左衛門亡き後、異母兄弟も亡くなった遠野の遺児は、半農の修験者として、土淵に行き続けることになる。




  -別系7-

 盛岡に移った北川一族は断絶し、遠野には喜楽院、正福院の家が続くことになったのである。




 参考資料:土淵教育百年の流れ、参考諸家系図、盛岡タイムスWeb News

畑中氏と大徳院

2008-03-20 23:36:34 | 修験
  ●盛岡藩雑書●

明暦2年(1656)1月14日小雪暮より雨
 八戸御蔵、承応3年分御勘定目録、明暦元年7月4日付、右御勘定衆上ル、
 有米119石6斗5舛、籾489石4斗4舛4夕、大豆296石7斗8舛2号8夕、
 粟5斗8舛、御蔵奉行高橋孫兵衛、畑中久右衛門

寛文3年(1663)1月29日 曇
 江戸両御屋敷御役人之内、三月朔日替候衆今日申渡候事。
上御台所新渡戸左五衛門代ニ達曾部茂右衛門、
下御台所米内孫右衛門代ニ岩根又兵衛、同川井運助代ニ畑中久右衛門、
御中屋敷御台所田頭多左衛門代ニ渋民大兵衛、
御菜園奉行沼里十兵衛代ニ下斗米平右衛門、
御肴奉行石亀権左衛門代ニ本宿弥平衛、
右六人当月半時分 爰元発足罷上候様ニ今申渡之。

 という一節がある。

 この中で、遠野・宮守に関わりありそうな人物は、達曾部氏、畑中氏、本宿氏。 中でも、畑中氏と本宿氏については、天正18年(1590)秀吉の奥州仕置によって旧葛西領から遠野に仕官してきた者達と思われる。また、大阪夏の陣(1615)にて北十左衛門が豊臣方に組して罰せられた時、同じように罰せられた遠野の平清水氏は上記3人と同様に、江戸藩邸勤務であった。
 何故に、この時代、三戸本藩縁故の者ではなく、遠野縁の人達が江戸勤務となりえたのか興味深い。

 


  ●参考諸家系図●

 畑中氏 本名菊池 (断絶) 姓「平」或「藤原」 紋鷹羽本揃

 菊池采女 先祖菊池何某ヨリ代々陸奥気仙郡菊田村ニ住ス。采女菊田ニ死ス。
この采女の娘は、大槌孫八郎家政の三男を養子として嫁ぐ。菊池治郎介と称し、天正18年流浪シテ閉伊郡ニ来テ遠野ニ住ス。遠野孫三郎廣郷ノ家臣トナル(一説ではこの時初めて遠野へ来る)畑中館ニ住シテ氏トス。慶長5年(1600)利直公ニ召抱ヘラレ畑中ニ百石一円を賜フ。
 其の後、内膳、久左衛門、傳十郎と続き、傳十郎の時、八戸弥六郎遠野移封により盛岡へ移る。志和郡飯岡村ニ新田16石を賜フ。以前のものと合わせて60石。その次が畑中久右衛門。その後の3代にて断絶。

 この人が、上記の雑記に登場する人物ということになる。




  ●両派由緒書上帳●

 大徳院

 初代祝部~慶安年中(1648~1651)まで祝部といい、伊勢・熊野・加茂三社の別当。熊野・加茂両社へ95石、伊勢へ30石、遠野領主阿波守寄進。これまで俗形で畑中にて年行事を勤める。南部氏が盛岡築城に当って祝部は、畑中久右衛門と称して南部氏に仕官盛岡に移住。
 二代大徳院清慶~祝部従弟。俗名与右衛門と称し祝部の坊跡をたて本寺に登る。寛文13年(1673)3月没。
 三代大徳院慶言~清慶の実子。慶言若年につき同行和光院名代で上京年行事相続。慶言貞享4年(1687)8月上京し大徳院慶言と官名。病身で隠居の所、享保3年(1718)正月10日没。
 四代大徳院慶辨~慶言実子。正徳3年(1713)7月上京し年行事継目。享保16年(1731)正月26日加茂社へ6斗5升八戸弥六郎信有寄附。同年5月26日没。男子なく女子に聟養子とる。
 五代大徳院慶明~六日町金剛院孫の玉之助、慶辨の聟養子となる。延享元年(1744)5月27日上京年行事継目相続。




  ●大徳院について森毅氏の考察●

 大徳院の先代は領主阿波守の代から伊勢・熊野・加茂三社の別当を司り、遠野畑中に居住して慶安期が過ぎて大徳院を名乗ったものである。系譜初代の祝部以前については「書上帳」には「年代遠く由緒相知不申」とか「其以前は一切不存候」とあって不明であるものの、二代清慶の代に年行事職を宛行われたことが知られ、それは承応(1652)から寛文(1673)年間のことと推察される。また、寛永17年(1640)8月11日の施主源直栄による加茂大明神の棟札と寛文13年(1637)9月29日の熊野大権現棟札に大徳院名が記されている。

(ちなみに、大徳院と遠野羽黒派修験者との霞場・檀那場争いは、四代大徳院慶辨の時代のことであり、八幡別当良厳院とも熾烈な論争を繰り広げている。)

 


  ●御領分社堂●宝暦10年(1760)編

 一、遠野権現 二間四面萱葺き 別当 大徳院
 一、賀茂明神 五尺四方板葺き
        縁起御座候、社領6斗5升八戸弥六郎寄附
 一、稲荷大明神 一間四面板葺き
 一、松尾明神 一間半四面萱葺き
 一、三日月堂 二尺四方板葺き

 とあり、三代大徳院慶言に同行した和光院は、上記の書では神明宮の別当和光坊と載ってあり、その直系先祖と推察される。




  ●遠野物語拾遺第64話●

 愛宕様は火防の神様だそうで、その氏子であった下通町辺では、5,60年の間火事というものを知らなかった。ある時、某家で失火があった時、同所神明の大徳院の和尚が出て来て、手桶お水を小さな杓で汲んで掛け、町内の者が駆けつけた時にはすでに火が消えていた。翌朝火元の家の者大徳院に来たり。昨夜は和尚さんのお陰で大事に至らず、まことにありがたいと礼を述べると、寺では誰一人そんな事は知らなかった。それで、愛宕様が和尚の姿になって、助けに来て下さったということがわかったそうな。

 
 3代目大徳院以後に和光院・金剛院が大徳院と関係をもつようになり、大徳院の名前を利用して遠野の修験者に大きな影響を与えたものと推測できるが、遠野郷八幡宮創建八百年誌によると、明治の早い時期に大徳院は遠野を去り、系譜その他は伝わっていないとある。また、江戸末期の大徳院は六日町神明社の境内の別当寺に住んでいたというが、拾遺によって証明される。

 ちなみに加茂神社は、大徳院以前は若宮八幡・本宮八幡・諏訪明神の別当であった良厳院が司っていたものと伝えられる。


 

   ●まつざき歴史がたりに「大徳院土蔵床下の銭」●

 昭和9年に松崎3区の共同作業所を高場に建設するに際し、畑中の菊池何某氏の土蔵を移築。その解体作業中に床下から百文づつワラに通した一文銭がカマスで二つ発見され、その古銭を売って建設資金の足しにした。昔、この菊池何某氏の家は代々大徳院といって遠野地方きっての修験者であった。とある。

 まつざき歴史がたりに登場する畑中の菊池何某氏とは現在のどのお宅を指すのか、私の最大の関心事である。


 畑中氏は、後年、故あって家名断絶となっており、家臣から浪人となり、その後、帰農したのではないかと考えられる。

 以前、一如さんが盛岡の遠野大権現をエントリーしていたのだが、それが、明治期に遠野を離れた最後の大徳院か、畑中氏に関わるものではないかと密かに考えている。遠野権現を司っていたのは、畑中氏=大徳院以外に今のところ考えられないのだが。

傳勝寺 其の弐

2007-12-24 11:04:34 | 修験
  田中喜多美氏の「岩手山の信仰と修験」によると、
 
  
 慶長8年(1603)10月、盛岡城主南部利直より、繋温泉の湯別当安楽坊に手作地給与の黒印状が与えられ、2日後の10月20日に、滴石村西根、大宮社の岩鷲山禰宜に手作地44石5斗1升を祈念として与えられている。この文章が岩手山関係文書の最古のものだと云われる。

 岩手山は、南部領となってから岩鷲山と呼びぶようになり、山頂の祠の辺りを御殿として崇め、南方雫石口、東方厨川口、北方平舘口の三つの登山口から成っていた。この中のひとつである滴石口の禰宜だった家には、延享2年(1745)「神社仏閣由緒書上扣」があり、これには「神主を修験道に改めたのは6代宗覚院の時で、公儀より停止を仰せ付けられて改めた。」とある。寛永10年(1633)~20年頃、南部重直が藩内の改宗を強要した時期でもある。


(雪の岩手山)

 この神社の棟札には、享禄3年(1530)、「大宮社再興 大僧都 平政久 大工 出羽住人 聖 小工 丹後 越前」とあり、南部氏が滴石攻略以前のものである。同由緒書上には、田村将軍と野気王子の像が祀られていたとある。
 これらのことから、(源氏)南部氏以前は、平姓の人物がここを治めており、羽黒系の修験が関わりをもち、神職によって祭祀された神社であったことがわかる。では、この時の治世者は誰か?南部氏以前、この地には戸沢氏がおり、南部氏との抗争で破れた後、出羽へ行き、角館城主→新庄城主→子爵となったことが新井白石の書物で確認できるという。戸沢氏は平氏である。


(遠野鍋倉本丸を望む)

 南部利直の跡を継いだ南部山城守重直は、寛永10年(1633)に国元入りをする。その際に同行したのは、愛妾御勝殿と羽黒修験高海上人であった。御勝殿は京都の生まれで仏教に帰依された人物で、高海上人は羽黒派江戸十人衆のひとりと称された人物であり、岩鷲山の別当職と300石を口約されて付いて来たとされている。
 この高海上人は、繋温泉湯守別当を羽黒派の大勝寺開山に仕立て、その寺は以降羽黒派修験が世襲することになる。大勝寺100石、湯守別当13石を給与される。この寺は、慶応4年(1868)まで継承され、末寺のひとつに遠野横田村の傳勝寺がある。
 南部利直代には、本山派であったものが、重直代に羽黒派になり、領内では争論となったことが伝えられている。


(遠野三ヶ寺跡を望む)

 世に云う盛岡五山は、永福寺800石、聖寿寺500石、高源寺450石、報恩寺180石、東禅寺200石であり、流石に藩主お声掛かりの大勝寺といえども、300石の口約どおりにはならなかった。ちなみに、遠野妙泉寺は200石であり、いかに、早池峰山妙泉寺を重要視していたかがわかる。また、寛永20年頃の大勝寺4世養海上人は永福寺や出羽湯殿山大日坊で修行した人物でもあり、先の大宮社の宗覚院を盛んに羽黒派に引き入れようとした急先鋒でもある。


(鍋倉さんへの登城口)

 岩手県は、源氏一族以前より、天台信仰が布教されてきたのが、平泉藤原氏の代には白山や出羽三山信仰も広まり、戦国時代までに仏教各宗派が成立する。また、南部氏は日蓮宗創立に深い関わりをもつ一族であったが、陸奥に定着するに至り、その時代〃の宗教を取り入れながら命脈を保ち、本山派修験の元に治世を行なってきた。今回のように一時的には、派黒派の勢力が盛り返した時期もあったということになる。
 県内でも、羽黒派と本山派が勢力争いをした時期があり、遠野においても、本山派大徳院と羽黒派慈聖院・善行院が対立した歴史がある。また、早池峰山妙泉寺の本末争いにおける神職と修験僧との関係も、岩手山の宗覚院と大勝寺との関係も類似している。


(雪の薬師)


  最後に、遠野の大日さんについて

 遠野南部直栄が善応寺の快盛和尚に、出羽湯殿山へのご祈祷を仰せ付けたところ、願いが叶ったので、寛永21年(1644)10月に湯殿山への社領として20石を善応寺に寄進し、毎年代参させる。貞享2年(1685)遠野南部義長が、大日如来の社を造営し、代参を止める。また、遠野南部義論の代に拝殿を造り、元禄初期より、3月6日からの3日間祭りを行なった。しかし、義論亡き後は中断し、利戯代の宝永3年(1706)から毎年3月15日を祭日と定める。そして、明治の神仏分離令により、大日堂は日枝神社として改め、旧6月1日を祭日とする。


(雪の大日さん)

 

 寛永年間の盛岡南部氏による改宗政策の時期に、ここ遠野では、それに呼応するように、善応寺を介して湯殿山の参詣が行なわれ、その結果として、現在の大日さんが残る。
 この政策の当初は、傳勝寺が遠野の羽黒政策を担っていたのであろうが、阿曽沼関係一族によって長く治められてきた土地柄から、南部氏の一声で全てが収まる地域ではなく、阿曽沼氏縁の社寺を活かしながら、統治した様子を垣間見ることができる。

  ●おまけ●


(雪の中村のお堂)


(とらねこ氏と八戸藤九郎さんとの中沢館跡探訪)


(嫁さんの仕事の都合により一足早い我が家のクリスマス)