「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

2012 鮎貝八坂神社例祭

2012-06-11 00:35:56 | 八坂

日曜にも関わらず、仕事に勤しむ笛吹

依頼した返事が夕方でないともらえないということで、

皆さんがSL撮りに向っている頃、私は、小友町へ

 

鮎貝八坂神社

遠野遺産47馬子(まっこ)繋ぎの里

 

八坂神社例祭の朝、木版刷りの馬の口に米粉を練ったものをつけ

水田などの水口につなぐ行事だが、この日も早朝に行ったとのこと

 

旧鮎貝小学校にて先に行われていた直会(なおらい)会場にて

出発前に長野しし踊りの奉納

 

午後二時出発

 

神社へ着くと廻りを三周・・・するはずが、今年は一周

 

神事のあと、先の長野しし踊りの奉納

ここ鮎貝には、しし踊りがない

 

続いて、同集落のさらに南にある外山(そでやま)神楽奉納

 

郷土芸能奉納と同じ時間に子供たちのよさこいさんさが演じられた広場?駐車場?を

臨時舞台として、外山百姓踊り

 

戸数の少ない集落ながら、芸達者な方々

 

地域のまとまりが感じられる

 

境内&広場でのアトラクションが済むと、しし踊りも神楽も門かけへ

 

初夏の二時間あまり、これぞ遠野!を堪能

 

 


鮎貝八坂神社 其の弐

2008-06-21 14:40:48 | 八坂
 どうしても、気になることがあり、図書館へ。

 

 明治初年の地図に、確かに本宿万左エ門があった。

 

 安永6年(1859)の御支配帳には、本宿覚内がいる。

 その後、南部藩参考緒家系図を確認すると、

 本宿氏(本姓鈴木)~本宿老之丞が天正年中に本宿館に住して本宿姓となり、その息子因幡家重(母は遠野孫三郎広郷の娘)は、家督を相続して叔父大槌孫八郎を後見として閉伊郡一円の目代となる。三代家冶の時、八戸弥六郎が遠野移封となり、盛岡南部に仕官する。

 これによって、本宿総領家は、遠野を離れる。

 二代因幡家重の二男、本宿助兵衛家秋は遠野にて浪人となるが、息子万左衛門家高は、八戸弥六郎の家臣となる。

 遠野旧事記によるところの、阿曽沼氏の家臣だったものの長男は遠野を離れるように云われ、老人や二男三男はそのまま残った。ということに合致する。

 そして、因幡の家系は、万左衛門→万兵衛→条右衛門と続き、子孫はそのまま八戸弥六郎家臣として続く。

 

 この鮎貝の地頭である本宿氏は、このような経緯で、遠野に名を残すに至る。

 

 最後に、これは社内に祀られる牛頭天王である。

 時代は不明であるが、古くから、鮎貝八坂神社にあるのだと云われる。

 応神天皇として建物を再興していながら、社内には、この木像があったことになり、この木像に因んで、明治に八坂神社として改名したというのが、結論なのかもしれない。
 但し、この木像の製作年代やいつからここにあったのかは解明されていない。 

上宮守八坂神社

2007-02-11 00:05:01 | 八坂
上宮守の三叉路角にサンQハウスがあり、その東側寺沢川ほとりの小高い丘にこの社がある。下宿(げしゅくではない)と呼ばれる地域に入るものと思われる。以前、近所を歩く人にあの神社は何かと尋ねると、○○○さんと呼んでいると答えられ、もう一度聞こうと話すと、「私は詳しいことはわからないから、そばの造園屋さんに聞いてくれ」とのことだった。○○○とは何を指すのか、私の知っている神社名にはないものだった。後日、気になってもう一度立ち寄るが、歩く人もなく、かの造園屋さん宅周辺をうろつくも、人の気配なし。前回は、社北側から近づくが、もしやと思い、今回は、南側へ。やはり。正面には道路があり車で鳥居正面まで行けた。(その確認ができたのは歩いて行った後のことだが)社が二つあるが、何を祀るものかは確認できなかった。(扉を開けて良い雰囲気の神社とそうでないものと・・・、今回は前者に該当した)ただ、神社手前に大木があり、これがご神木なのだろうという検討はつく。

 帰宅後、「遠野市の指定文化財」の本を開くと、あった。あった。「エドヒガンザクラ」。どん、ぴたり!宮守には大上と高館にもエドヒガンがあり、宮守の三ヒガンであるようだ。樹高25m。この説明書に、八坂神社とあることから、神社名は確認できたが、由緒については未だわからず。愛読書のひとつである例の本を見るが、名前は載っていない。ということは、江戸時代の社寺由緒書提出の際、存在しなかったか、訳があって載せなかったか。(当時別当がいないものも掲載されている書にも関わらず)
 遠野にも八坂神社があるので、そちらについても例の本で確認するが青笹・土淵についても名前がない。土淵については、別に愛宕神社と呼んでいることから、愛宕神社として掲載されていることがわかった。青笹の八坂については、結構ないわれがあり、青笹しし踊りが奉納されることからも大切にされてきた神社でもあるのに、掲載されていない。この宮守と青笹の八坂はもしかして、明治以前は別名で呼ばれていたのかもしれない。それが○○○さんという聞き取り不明の神社なのではないかと考えられる。
 附:境内は、あまり手入れがされておらず、廃棄物もあり、宿という集落にありながら、現在は信仰の対象とされていないのではと思われる。

仲町 八坂神社

2006-12-19 22:44:31 | 八坂
    ●遠野物語拾遺63●
 これは維新の少し前の話だという。町の華厳院に火事が起こり半焼したことがあった。始めのうちはいかに消防に力を尽くしてもなかなか消えず、今に御堂が焼け落ちるかと思う時、城から見ていると二人の童子が樹の枝を伝って寺の屋根に登り、しきりに火を消しているうちにおいおい鎮火した。後にその話を聞いて住職が本堂に行って見ると、二つの仏像が黒く焦げていたという。その像は一体は不動で一体は大日如来、いずれも名ある仏師の作で、御長二寸ばかりの小さな像であるという。

 この華厳院が仲町にある八坂神社である。区画整理にて現在地に移る前は、下一日市の現、東北銀行と神田屋との間にあった。この社は寛永3年(1626)松崎より移築、昭和3年、61年に建替えとのこと。

 寛永3年とは、八戸から南部氏が入部する前年。その年に松崎から移築したのには訳があるのでは?その松崎の地をあけ渡さなければならなかったとか。元々、阿曾沼縁の人が崇拝していた社であったとか。その方が遠野を去るに際し、蓄え代わりに社を譲ったとか。

 神社を有するこの家は、元々小友から来たという。小友から松崎に移り、後に一日市に住んだものなのか?数年前に当主が亡くなり、詳しく聞かずじまいである。

 また、この神社の前に蔵があるが、中には江戸時代後期からのお宝が眠っているとか。その一部は蔵の道ギャラリーに常設展示されている。