「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

2008 宮守 砥森神社 例大祭

2008-09-30 00:02:46 | 郷土芸能
 昨年に続き、今年も砥森さんへ。

 

 とはいえ、二日目からの見学。昨年の御旅処は新町(あらまち)の西側だったが、今年は東側。一年おきに、場所が交代する。どのような経緯でそうなったのか知りたいところ。

 昨年の画像はこちら

 そして今年の一日目の画像はこちら

 

 おそらく、前夜遅くまで盛り上がったであろう通りは、静かに神輿が通るのを待つ。

 

 この通りを歩いていた時、あるお宅に飾られていたもの。米内光政の筆によるものだが、どこかで見たと思ったら、砥森神社の石鳥居に掲げられていた額と同じもの。この書が鳥居額の元とのこと。ゴンゲンさま談。

 

 運行が始まる前に笛の観察。こちらは、新町南部ばやしの物。紫山の焼印のある明笛。遠野仲町から伝承されたものゆえに笛も同じ。

 

 こちらは、下郷さんさの物。篠笛6穴四号。

 

 南部ばやしと下郷さんさはそれぞれが、行列に参加する組と角付けをする組に分かれて歩く。行列は、MM1や郵便局に途中寄りながら神社を目指す。

 

 先回りした境内に実る秋。

 

 なぜかしら、この坂を上ってくるこの風景が好き。

 

 そして、神社ではなく、その前の広場を回る。

 

 その訳をそばにいた人にお聞きすると、鉄道が通るまでは、ここに神社があったからだとのこと。何かの本にそのようなことが書いてあったことを思い出す。

 

 境内での芸能奉納。今年は、参加者が少ないと思ったら、中体連と消防関係の行事が重なったためだとか。

 

 今年の見学成果のひとつ。いつもであれば、棟札拝見といったところだが、こちらの神社には目的のものはなかったが、小原姓の彫刻師の名前を見つける。故あって、社寺関連に記される小原姓を最近追っており、うれしさが増す。

 

 神事終了後、この場所を後にし、東和町へと行った帰り、新町南部ばやしの一行に出会う。てっきり、ご苦労会でもしているものと思っていたが、角付けの最中だとか。

 

 町内にある老人ホームで踊りを披露する。その合間に、南部ばやしの方々と南部ばやし談義をし、祭りがとりもつ縁を感じる。夕方遅くまで角付けをして歩くようだ。今年は演目の「うさぎ」を見ていないと話すと、演じてくれた。

 

 遠くに見える道を鹿込神楽の一行が歩く。

 遠野市街地でも、かつては、夜遅くまで、芸能団体が歩いていた風景を思い出す。

 今月9月24日でブログ開設2年目であったことを忘れていた。

 祭り・郷土芸能・神社の歴史・修験者など、飽きもせず何とか続けてきた。本来の郷土史とはかけ離れたものになっているが、遠野郷の祭りや郷土芸能を紹介するブログとの位置づけも悪くないのではと最近になって感じ始めている。
 ただ、祭りシーズンが終わるこれからは、やはり「なんだり・かんだり」書き込むしかないのだろう。 

 

金ヶ沢稲荷例祭

2008-09-28 22:45:42 | 稲荷
  六角石神社例大祭のその日、気まぐれ童子は、松崎へと足を運ぶ。

 

 お祭りの日程はよく重なるもので、時間配分を上手にすれば、両方に行くことは可能なようだ。って、祭りのはしごをするのは、私ぐらいか・・・あっ!もうひとり。某市長。笑

 

 故あって、神事前に到着。地域の方々がその準備の真っ最中。

 

 提灯にその名があるように、もともとは「村兵稲荷」。

 町の中で商売をしている多くの「村上姓」の方々の元を辿ると、ここに行き着くのではなかろうか。

 

 このお稲荷さんの謂れについては、この案内板を見ていただくとして。

 昭和7年に記された「遠野住村上氏由緒記」を見ると

 元亀・天正の時代に遡る。室町幕府が滅びた時代。祖は葛西氏の臣で東磐井郡千厩に所領を有していたが、乱世により平民となり、代を重ね、寛文5年(1665)に遠野へ移る。当初は一日市町御制札の角に小屋を求めて千厩六右衛門と称し、茶売を商売としていた。
 後に広く商いをするようになり、盛岡村井家との交流から近江屋と号す。そして、ご存知「村兵」となる。

 

 先の案内板を見ると文政年間の建立とあるが、由緒記には、文政2年の4月に二人の幼子を亡くしていることから、それとの関わりが何かしらあったのではと想像する。

 
 
 しかし、先に来られていた八幡様の好意によって、中に納められている棟札を見ると

 


 文化8年(1811)遷宮導師大徳院による札があることから、それ以前には建立されていたのではないかとも考えられる。

 

 もう一枚は、天保2年(1831)に修復工事した際のもの。これも大徳院。しかもこの時期は、天保大飢饉の最中。暮坪の田植踊りや附馬牛は張山のしし踊りが伝わったと云われる時代でもあるが、庶民は苦しい生活を強いられていたはずで、千葉家の曲り家同様に農民救済の意味合いも含めた修復工事ではなかったのか?

 

 りんご畑から、遠くに見える六角牛山でも祭りの最中ながら、何とか今年も豊作であることを祝う。

 

 村兵稲荷として個人のものだったこの場所も、今では地域の方々が奉仕する地域の神社として祭りを運営しており、子供達のための金魚すくいを担当していたのは、先般の懇親会で私を撃沈したつわものお母さん方であった。地域でも活躍している姿に頭を垂れ、この場を離れる。

 

 こちらこそ、ありがとうございます。
 

達曽部八幡例大祭 其の四

2008-09-27 12:10:33 | 郷土芸能
 御旅処を後にした一行は、また、私の好きな宿の通りへと戻る。

 

 通りに連なる家の中には

 

 かつて、大神楽をやっていた方のお宅では故人の遺影と共に、権現様を飾っていた。

 

 プロのテキ屋さんの他、地域の方々による出店もわずかながらあり、祭りを楽しむ。

 

 ずっと続けていただきたい風景のひとつ。

 

 年配の方々も、待っていられず、笛・太鼓の音が聞こえると表まで出てくる。

 

 町を巡行した後は、通りの中ほどにある石の鳥居を通って、神社へと帰る。この場所には、八戸ナンバーの方をはじめとした十名あまりのカメラマンが待ち受けていたのには驚いた。

 

 かつては、一晩御旅処で休んだ神輿が翌日、神社へと戻っていたのであろうが、少子高齢化、経済活動減退の世にあっては、一日で全てを済ませるため、この石段を上がるころには、皆、声も出ない。

 

 そして、神社の周りを三周。

 

 本当におとなしいこの馬っこの仕事もこれで無事終了。

 

 神輿が戻され、神事。

 

 外では、各団体が最後の奉納の舞。(画像は米田大神楽による祝いの舞い)
そばでは、地元の館大神楽の師匠が子供達に、米田の踊りの足さばきを良く観るように話していた。口で指導するより、実際に見たほうが勉強になるとの思いか?情熱を感じる。

 

  神事や地元の郷土芸能の奉納が終わり、人の数もまばらになる中、黙々と踊り続ける湧水鹿踊。他の人たちのように、早く帰ってご苦労会をしたいところなのだろうが、きっちりと奉納する子供達をはじめとする関係者一同に頭が下がる思いだった。

 子供達を持った親の間では、集まるたびに中学校再編の話がまだ続く最中ではあるが、ここ達曽部は小学校一校で、中学にあがると宮守中へと行く。現在でも五つの郷土芸能が存在する地域でもあり、なんとかその存続に力を注いでいる。学校単位でひとつの郷土芸能を伝承するのも確かに大事だが、受け継がれてきた他のものも大切にしていただきたいと思う。集落単位で頑張っている良い例がここにはある。
 

達曽部八幡例大祭 其の参

2008-09-25 23:06:50 | 郷土芸能
  御旅処での神事に続き、参加各団体が奉納。

 

  ●館大神楽●

 達曽部八幡の地元の大神楽。八幡神社の神霊を豊前国宇佐八幡宮から勧請した慶長13年(1608)から今日まで供奉しているといわれている神楽。

 

 同じく、女の子たちによる祝いの舞い。

 

 午前中の熊野神社にいた米田大神楽。

 市内に現存する大神楽は、この二つの他、ご存知大工町の太神楽と綾織町の山口太神楽で、市内四「大神楽」となる。これで全ての大神楽を実見したことになる。
 
 演目にある祝いの舞は、大神楽の他に田植踊り各団体の演目ともなっており、どちらが先だったのか気になる。

 

 そして、神楽。権現様は八幡神社のものだったが、舞い手がどこの地域の子供達だったか聞き忘れた。地元神楽としての記述が手元資料にはないことから、隣の湯屋神楽ではなかったか?

  ●湯屋(ゆや)神楽●

 大迫の大償系の山伏神楽で150年ほど前に大迫町稲荷町の法印市助を招き、習得したものと云われる。

 

 神社を出発する時にピースをしてくれたこの方。どうやら、この神楽の道化の舞いをする方らしく。盛んに見物人に拍手を求める。

 

 最後は、湧水鹿踊の案山子踊り。同じ演目が幕踊系しし踊りにもあるが、物語を感じる演技がすばらしい。

 

 一通りの奉納が終わると、また、町へ下る。

達曽部八幡例大祭 其の弐

2008-09-24 23:04:16 | 郷土芸能
 多くの皆さんが、青笹町にある六角石神社の例大祭で盛り上がっているところだが、あえて、こちらを続ける。

 

 山の上にある神社から降りてきた一行を待っていたのは、子供達も参加している地元及び近隣の郷土芸能を奉納する人たちだった。

 

 かつての宿場町も今では、少子高齢化が進み、観る人より参加している人が多いが、この地域で最大のイベントであることには間違いない・・・ようだ。

 

 三頭参加している馬のうち、一頭には、最も重鎮らしき人が乗っている。

 

 また、一頭には神官さん。そして残りの馬には背に飾り物を施してあるのだが、それがどのような意味合いのものだか判らずじまい。

 

 一本道を行列は続く。

 

 町外れまで行って戻ってくるのかと思いきや、幟のある小山へ向う。

 

 人も馬の鳴り物を乗せた軽トラのこの坂道を行く。

 

 たどり着いた先は、八幡神社の御旅処。

 もしかすると、かつてはここで一晩お神輿は泊まられたのではないだろうか?

 などと想像してみたり、

 また、軽トラに飾られた造花は、古くは、花担ぎと称する人たちによって運ばれた物が、今は単純に山車代わりの軽トラの飾りになったのでは・・・・などと遠野の神明神社神輿巡行の文章を思い出しながら、また、また想像たくましくしたところである。