「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

忘れ去れてたしし踊り

2006-10-30 23:47:38 | 郷土芸能
昨日、八戸のしし踊りについて記したが、その八戸藩勘定所日記の文には寛永二年(1749)七月十四日「一 来ル十九日 法霊御神事ニ付長者山ニ松太夫志しをどり仕度願之通就被仰付候場所之儀御代官所迄願出寺脇窮之通被仰付甚旨大見藤左衛門江長助源太夫申達ス」とあり、長者山でしし踊りをしたいと、藩の芸能の頭である松太夫から願いがあり、場所も山寺脇でやりたいということの意。「八戸の郷土芸能」なる本によると、明治30年頃にはすでに廃れており、その百年ぐらい前までは踊っていたと古老は話していたとか。100年前とは寛政年間頃で、菅江真澄が岩手や青森を回っていた頃でもあり、田植え踊りや「えぶりすり」を見たと書いた時期にも重なる。天明の飢饉の後でやっと世の中が落ち着いてきた時期でもある。八戸にあったというしし踊りは三沢市内にもあるというが、どのタイプのものか知りたいものだ。幕踊系だろうか? その日記で、もうひとつ気になるのが「松太夫」である。八戸典屋頭松太夫その人である。つづく。

しし踊り

2006-10-29 16:56:20 | 郷土芸能
今日は、隣の住田町産業祭りへ行ってきた。嫁さんの仕事を家族で応援しがてら、会館で行われた芸能まつりを鑑賞させて頂いた。以前から、江刺や花巻と同様の太鼓系鹿踊りがあるのは承知していたが、その中の、高瀬鹿踊り(手持ちの資料では月山鹿踊りとある)と外館鹿踊りが演じられた。住田町には、他に寒倉鹿踊りと柿内沢鹿踊り、坂本鹿踊り(中断中)があるようだが、場内の観客の話を盗み聞きしたところでは、後継者不足に陥っているらしい。遠野でも、かつては、土淵に足洗川・和野しし踊りが、上郷には平倉・火尻しし踊りがあったようだが現在は廃絶もしくは中断中だ。芸能を有するお祭りは興すのは容易いが、継続するのは大変なことだとつくづく感じる。そういえば、先週図書館で、八戸の郷土芸能なる本を読んでいて興味深かったのは、八戸にもしし踊りがあったということで、勿論、市民はその事実をほとんど知らないらしい。八戸藩勘定所日記に記されているとのこと。どのようなしし踊りであったのか想いをめぐらしていた休日だった。

遠野七観音の〆

2006-10-27 01:14:35 | 観音
此処の所、七観音をおってきたが、私なりに年表等を見ていて気づいたこと。古くから慈覚大師に関わる伝説が遠野の寺社にもあり、それらが存亡を繰り返しながら細々と生きながらえていた。しかし、寛永4年(1627)八戸直栄が遠野へ入部以後、何らかの要因によって、焼失されることになり、享保年中(1715)以降に、七観音信仰が起こる。(これは八戸から同道した東善寺が関係していると考えられる)その後、延享元年(1744)頃に、寺社奉行によって、由緒の提出を求められ、同じような由緒書を提出。寛政13年(1801)松田理右衛門らによって由緒や御詠歌を記した額が奉納されたことで、一層、信仰が深まったものと推察される。特にも、元禄から享保年中は、小友や上郷で新たな金山が見つかった時期で、寺社が再建されたり、仏像が安置されたり、しし踊りが盛んになったりと隆盛期だったと思われる。以上が七観音時代の経過となる。(画像は山谷観音にあったノボリだ。夢・宝さがしとある。正に、私にとって歴史ロマンは夢・宝さがしだ。)

遠野七観音巡りの終わりに

2006-10-25 23:21:14 | 観音
観音堂には掲載のようなスタンプがそれぞれ準備されており、自由に使うことができる(但し、御堂が開いている場合)。その他には、御札もあり、志にて頂くことができる。今回の七観音巡りツアーに参加したことで、幸運にも上記の特典を得ることができた。観音遥拝日は、功徳日といって毎月一回ずつあり、その日のうちにお参りをすると50回から3000回もお参りしたことになり、功徳があるという。特に7月10日(陰暦)にお参りすれば、46000日お参りしたくらいのありがたさがあるという。・・とツアーの資料には記されていた。ちなみに現在の太陽暦でいうと8月10日が観音様のご縁日だが、宮守観音のみは8月24日とのこと。
今から15年も前の正月に職場のボス以下職員一同で七観音巡りをしたことがあるが、私以外の人達が風邪をひいてしまい、とんだ正月休みになったことがある。
(観音様だって正月休みの期間だったようだ)。今回は、無事巡ることができ、お願いもし、説明も聞くことができ、最高のツアーとなった。皆さんも、いつか行ってみてください。ご利益があったかどうかは、そのうちに・・・。

遠野七観音七番笹谷観音

2006-10-24 23:52:18 | 観音
とうとう最後の笹谷観音(附馬牛観音 附馬牛山長洞寺)本尊勢至観音立像
「長洞や ささべの里の松風に 萬の罪も 消え失せるかな」
他の観音堂と同様に寛政13年(1801)松田理右衛門らの由緒額には他と同様に大同2年の創建、慈覚大師作の観音の一尊であると記されている。また、近年悔やむべきは、素木の本尊に誤って漆箔を加え古作を損なったとある。(変な話)
伝説として、附馬牛の沢の口には「七井戸」があって七体の仏像をそこで清めた話や、ここで仏像を刻んだ一本の松の木を切り倒した梢が届いた所が松崎という話もある。また、この御堂は長洞という所にあったので長洞寺と称したという説もあるという。(長洞とは上郷の長洞ではないのか?)
ここの境内は他6箇所に比べ、あまりにも狭い。また、御堂も小さい。これも七観音合わせの為の作為を感じる。(あくまでも個人の見解)続きは後日。