本業が忙しく、久しぶりのUP。我家の菩提寺は大工町の大慈寺だが、松崎町海上から同町光興寺に移り、現在地に落ち着く。八戸南部氏の菩提寺として一緒に移ってきており、清心尼公の墓も当初は海上にあったと言われている。大慈寺同様に善明寺も同町養安寺跡に一時居たようである。
さて、その大慈寺が当初居た場所には、後に一明院なる修験者が住んだとされ、その一明院居住の地は、その後、屋号「坊様」という方が住むことになる。(その屋号は、一明院が住んでいた家に由来する)
一明院を例の書にて確認すると延享3年(1746)羽黒派修験連名帳ぶんにその名が見える。ただし、どこの社を霞場としていたのかは、わからない。また、この一明院が何代続いていたのかも不明であるが、この一明院の墓が、現在福泉寺の大観音西南にあると知り、訪ねたところ、画像のように、白山社、山の神と共に並んでその社は確認できた。(但し、墓は未確認)霞場(羽黒派修験者の管轄地)としていたはずの修験者がなくなった、三つの社を福泉寺にて手厚く、保護しているものと推察する。
また、例の書によると、駒木村ぶんとして、十一面観音~弥平治。愛宕~清十郎。伊豆権現~三太郎。八幡~孫右衛門。葉山権現~長左衛門。ニ亘観音~別当なし。以上が掲載されており、十一面観音は七観音の松崎寺、八幡は館の八幡、愛宕~福泉寺境内愛宕神社=とらねこ氏縁を指すものと思われる。この中で、最も興味深いのは、伊豆権現であり、どこにあるのだろうか。(あったものなのか)青笹にも同じ伊豆権現があったことが記載されている。
さて、その大慈寺が当初居た場所には、後に一明院なる修験者が住んだとされ、その一明院居住の地は、その後、屋号「坊様」という方が住むことになる。(その屋号は、一明院が住んでいた家に由来する)
一明院を例の書にて確認すると延享3年(1746)羽黒派修験連名帳ぶんにその名が見える。ただし、どこの社を霞場としていたのかは、わからない。また、この一明院が何代続いていたのかも不明であるが、この一明院の墓が、現在福泉寺の大観音西南にあると知り、訪ねたところ、画像のように、白山社、山の神と共に並んでその社は確認できた。(但し、墓は未確認)霞場(羽黒派修験者の管轄地)としていたはずの修験者がなくなった、三つの社を福泉寺にて手厚く、保護しているものと推察する。
また、例の書によると、駒木村ぶんとして、十一面観音~弥平治。愛宕~清十郎。伊豆権現~三太郎。八幡~孫右衛門。葉山権現~長左衛門。ニ亘観音~別当なし。以上が掲載されており、十一面観音は七観音の松崎寺、八幡は館の八幡、愛宕~福泉寺境内愛宕神社=とらねこ氏縁を指すものと思われる。この中で、最も興味深いのは、伊豆権現であり、どこにあるのだろうか。(あったものなのか)青笹にも同じ伊豆権現があったことが記載されている。
福泉寺に来たならお声掛けくだされば、普段見れないところもご案内できたと思います。
さて、まずは一明院の墓・・・三つの社が祀られているさらに北西10m下のところでやんす。
どんな感じかといいますと、当ブログ1月25日付けをご覧いただければと思います。
さらに福泉寺境内の愛宕さん、清十郎とはご先祖さまでがんす、六代か七代前のご先祖さんなはずです。
二亘観音は松崎と矢崎の境、真立の荷渡観音、伊豆権現は旧駒木小学校北側に鎮座しております。
棟札には「明和7年 奉造伊豆大権現一宇諸願成就祈所 導師喜楽院 別当三太郎」
遠野南部家家臣、大橋家の祈願所だったようです。
以上。
やはり、愛宕さんの俗別当清十郎さんは、とらねこさんのご先祖様でしたか。
また、伊豆権現の場所を教えていただき、ありがとうございます。導師の喜楽院は、五日市の北川喜楽院ですね。土淵村に市明院なる名前が確認できるので先の一明院と喜楽院の霞場が重なっていた地域なのかもしれません。どちらも、本山派大徳院に対する羽黒派の修験者となります。