「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

遠野に移った葛西系の人々

2018-03-31 15:36:55 | 歴史

全く予定どおりにいかなかった3月も今日で終わり、大量に花粉舞う春到来!

4月から初夏になるまでは、計画済みの出撃以外は我慢して、本業に専念する覚悟です。笑

さて、タイトルの「遠野に移った葛西系の人々」ですが、

文治元年(1189)、源頼朝の奥州征伐により、いわゆる鎌倉武士たちが東北に地頭としてやってきますが、

その総奉行を務めたのが葛西清重です。

その後の南北朝期・室町時代を経て、葛西氏所領の地域に定着した葛西氏家臣およびその系列の武士たちを

ここでは葛西系とします。

 

先の21日に長野獅子踊りが報恩踊りを披露した一関市大東町大原は、

葛西家臣大原氏の居た地域と云う事で、以前から大変興味のある地域でもありました。

長泉寺の大きな庫裏

天正10年(1582)、豊臣秀吉の天下統一に先駆けて、小田原攻めとなりますが、

その際、参陣しなかった武士達は所領没収の憂き目に遭います。

葛西氏や遠野の阿曽沼氏は参陣せず、阿曽沼氏は蒲生氏郷のとりなしにより

領地はそのままながら南部氏の附庸となり、葛西氏は没収。

 

大原の町並み

遠野では小田原攻めから、寛永4年(1627)に八戸(南部)直栄公が領地替えで移動して来るまでの45年間、

領民・武士共に落ち着かない殺伐とした時代になります。

 

大原山吹城二の丸

天正15年(1582)、葛西宗家に反抗した葛西家臣江刺重恒は、重臣菊池右近、太田代伊予に意見され、

伊予は討たれ、右近は遠野に逃れます。後に、平清水・新谷などと名乗る本姓菊池の祖です。

今でも遠野と江刺には、菊池さん、菊地さんが多くいますが、皆な皆この系統だとは云えないようで、

天正15年以前から遠野には本姓菊池を名のる武士が多くいたようです。

(私は、南北朝期以前から菊池さんが居たと思っていますが)

 

山吹城から見る大原の町並みと室根山

翌天正16年(1583)、先の江刺重恒の妹婿である米ケ崎城の浜田(本姓千葉)安房守広綱が、

主家葛西氏の指示により志津川の本吉氏に討たれます。そこで生き延びた浜田氏四男清春は落ち、遠野へ。

 

大原長泉寺本堂

天正18年(1590)、秀吉の奥州仕置後に宮城県北・岩手県南地域を任せられた木村氏に対し、葛西系、大崎系の

武士たちが反乱を起こします。(葛西・大崎一揆)

そして翌年の九戸政実が秀吉軍によって討たれることで東北の形勢が決まってしまいます。

この最後の勝負で敗退した葛西系の武士たちは、農民になるもの、商人になるもの、仕官を求めて移動するもの

と、大きな選択を迫られ、その中からも遠野に移動する人達が出てきます。

 

大原新右衛門もその一人です。

文明18年(1485)(開山には諸説あり)に大原長泉寺の末寺として開山したカッパ渕脇の常堅寺は、

その年に大原弾正勝行が開基したと云われています。

大原弾正勝行は大原新右衛門とも称したと書いている文章もありますが(私もそうでした)、

証明できる資料で確認できていません。また、新右衛門も勝行も大東町史の大原家系図では見当たりません。

また、文明18年に開基できるほどの領地を勝行が遠野に持っていたという資料も見たことがありませんが、

その大原氏が落ち延びて来た時に所持し、常堅寺に奉納したという道元禅師座像が今も残っています。

また、慶長11年(1606)横澤某が大旦那の徐災・延命と大原勝三郎の長命を祈願する旨を記し、

松崎養安寺に奉納したと思われる観音立像が、現在、松崎観音堂に安置されています。

 

常堅寺墓地の大原氏墓碑

慶長19年(1614)、大阪冬の陣となりますが、南部方として遠野から参戦したのは、

上野右近名代久右衛門、板澤平蔵、達曽部彌兵衛、大原新右衛門、小友喜左衛門、新里平蔵、宮守主水、

遠野小組(高屋四郎左衛門、及川覚兵衛、宇夫方太兵衛、末崎民部の四人を遠野小組四騎と云う)

小友氏は本姓菊池旧江刺家系、高屋氏は旧江刺家臣、及川・末崎氏は旧葛西系

時期は別にして大原氏同様に遠野に移り住んだ人達です。

 

大原長泉寺のお地蔵様

阿曽沼氏没落後に城代を務めていた平清水駿河、上野右近が亡くなり、三戸南部氏から派遣された

毛間内三左衛門、槻舘左兵衛の交代制二城代から、寛永4年(1627)八戸(南部)直栄が遠野へ領地替えになります。

遠野古事記には、その頃まで居た三戸南部家臣の居住地と名前が記されていますが、

阿曽沼旧臣以外で寛永11年の(三戸)南部氏寛永支配帳(HP近世こもんじょ館より)にある関係者をすり合わせると

葛西浪人大原新右衛門(300石)、葛西浪人浜田彦兵衛(300石)、葛西浪人高屋四郎左衛門(50石)、

江刺浪人大町宇衛門(100石)までは、寛永支配帳に名前・石高あり

古事記には葛西浪人欠下茂左衛門の他、近世こもんじょ館を参照すると栃内主計、本宿因幡が、

江刺、気仙からやって来たことがわかります。

この中で、大原氏は後年の三戸南部支配帳には見えず、一代限りだった可能性が高く、

浜田彦兵衛は、本文前半の天正16年に登場した浜田清春本人です。

このように阿曽沼氏没落後、八戸(南部)直栄移封までの間、横田城(鍋倉)及びその周辺で主力となっていたのは、

移動して来た人達だったことがわかりますが、その多くが八戸直栄移封前には、三戸南部氏のもとに再移動します。

 

大原長泉寺の涅槃図

最後に、今回近世こもんじょ館の「盛岡藩士の家系」で見つけた興味深いもの

「葛西正兵衛家」

葛西晴信は牡鹿、登米、本吉、気仙、磐井、江刺の七郡と桃生郡東部、栗原郡東北部を領有し、

登米郡寺池城にあったが、天正18年豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せず改易となり滅亡。

この時、妻子四五人は家臣宮沢藤兵衛を俱して登米に落ち、閉伊郡遠野に潜居。

宮沢藤兵衛の扶助を得て同地に死去した。その子勝兵衛晴勝は父晴信同様に浪人となり遠野に隠れ、

藤兵衛の介抱により年除を送ったが、慶長3年主従三戸に到り、南部家の客分となった・・・。

と、ありました。

 

土淵町飯豊には、旧蹟舘神神社の石碑があります。

此の舘神神社は此れより北方十六間ばかり隔ちたる杉の中に葛西氏の一族を祀れる御舘神神社と

伝説ある一堂宇ありしが、開田工事に際しお堂の床下より二柱の御骨発掘されたるを何所に奉斎せるや

不明にして殆ど殲滅状態にあるを痛惜する一有志菊池寅蔵が理想郷発展を祈願し斯の碑を建立し

永世に旧蹟を保存せんとす。 昭和34年旧4月8日

この石碑のある土淵町飯豊には宮沢という地名・苗字があり、高貴な人(地元では天皇と伝承)が

来住した処だと云われています。この言伝えの高貴な人が葛西氏主従一族だとすれば、

素性を明らかにせず暮らして当然であり、後に三戸に移ったことで、地元ではいつのまにか居なくなった

と云う話になっても不思議ではありません。また、その葛西氏が住んでいた場所付近に亡くなった妻子を葬り、

その後地元の人達によって舘神として祀られるようになったと考えるのはどうでしょうか?

ちなみに飯豊から道一本先の地域に大原氏ゆかりの常堅寺があり、大原新右衛門が先に三戸南部氏に仕官

していたということも関係あるのではないでしょうか。

葛西家臣宮沢藤兵衛と同じ姓の宮沢氏は後に八戸(南部)弥六郎家臣になり、同じ姓の方々が、

ここ飯豊と上郷町平野原に今も居ますが、幕末の安政年間(1854~1830)に平野原の宮沢長兵衛宅で、

士族水越丹左衛門が私塾を開いたと「上郷聞書」にあります。

水越氏もまた、同じ時代に葛西系武士として遠野に来た一族です。

ここ数日、なんども、エラーを繰り返し、やっと、入力完了という事で、心置きなく本業に専心します。笑 


郷土芸能がつなぐ縁

2018-03-25 14:45:00 | 郷土芸能

昨日は、本業でお世話になっている方の息子さんの結婚披露宴でした。

 

行った場所は大槌町浪板

 

黒いガードレールのある国道45号線の上には高台移転した住宅が建ち並び、

さらにその上には、間もなく開通すると思われる三陸自動車が整備されています。

 

会場は3.11にて被災した浪板観光ホテル健康亭

写真はその年の7月下旬のものですが、40歳まで所属できる某団体で面識のあった

当時のここの経営者のお一人も犠牲になりました。天皇皇后両陛下がご宿泊された処でもあります。

 

2013年に、「三陸花ホテルはまぎく」と名称も新たに再建。

震災後、美智子妃殿下が「はまぎく」をお持ちになり、「がんばりましょう!」のポーズをおとりなっている姿に

感動した人が多いのではないでしょうか。

あの「はまぎく」は、このホテル由来で、花言葉は「逆境に立ち向かう」

 

開演の時間です。

 

人前結婚式の後、祝辞となりますが、新郎側から遠野市上郷町の板沢しし踊り保存会長

新郎は6歳から釜石市の小川鹿踊りに参加し、中学生になる頃には、小川鹿踊りの本家である

板沢しし踊りにも参加と紹介がありました。

この中で新郎のお母さんも笛で参加していたという話をはじめてお聞きし、後で、そのお母さんから

笛吹さんは、私がしし踊りに出ている時は、いつも私の前を素通りしていたと云われ、大汗でした。

美人さんを直視できない性格です。笑

 

さて、お待ちかねの祝宴となり、新婦側から釜石市箱崎町の白浜虎舞さん

 

震災の翌年から青笹町の六神石神社例祭に出演していることで、私自身馴染みの虎舞いでもあります。

 

新婦のお父さんも踊りの甚句に参加

 

実は六神石神社例祭に最初に参加した年にもお出でになっていたようです。

 

新郎側からは釜石市の小川鹿踊りさん

 

代表の挨拶では、遠野から習ったが、仙人峠を越えてくる時に忘れたものがあり、

形が違っていますが・・・と云う話をいつも、されます。

おそらく、その忘れものとは、遠野のしし踊りにある刀掛けを意味していると思います。

 

新郎は虎舞いが披露された時には太鼓で、鹿踊りでは踊りでと芸達者

 

またまた六神石神社例祭の時の写真を確認すると、新婦が笛で、新郎が太鼓で虎舞いに出ていました。

新郎新婦共、郷土芸能を愛して止まないお二人という事で、

この結婚披露宴に向う車中、今日は芸能人の披露宴だ!と同乗していた方々が話していたことに納得。

 

新郎新婦そして両家のご両親共、美男美女と何ともうらやましい取り合わせでしたが、

出席者名簿を眺めながら、私と歳があまり変わらない新郎のお父さんは、随分頑張ってきた人生だと感心し、

両家のご両親が子供たちに注いできた愛情の深さに、これまた感動でした。

独身の娘二人の父親として、両家を観るとはずかしい限りです。汗

最後に、親の愛情と郷土芸能に育まれてきた新婚さんの前途に乾杯!おめでとうございました!

じじい呼ばわりされても、子供の笑顔が最高のしあわせだと思いながら・・・笑


長野獅子踊り 報恩踊

2018-03-22 22:22:10 | 地域

今朝の岩手日報に載りましたが、昨日は、お知らせしたとおりに大東町大原まで出撃。

 

目的地は、曹洞宗 亀峰山 長泉寺

ちょうど10年前に遠野に縁ある大原氏の足跡を訪ねて以来ということですが、

その時の様子はこちらから。

あらためて当時の様子を振り返ると、今も同じようなことを考えている自分にがっかりです。

少しは進歩したんだろうか?と自問自答(汗)

御覧のポスターは、おそらくお寺さんが段取りしたものだと思いますが、町内にも貼ってあるのを

長野獅子踊り関係者が目にしたそうで、なんだかうれしくなりました。笑

 

11時、お寺の入り口と思われる処から、踊り始め

前回も記しましたが、長野獅子踊りは、遠野市小友町の曹洞宗 清水山 西来院開創の折り、

大原長泉寺から来ていた興庵篤隆和尚の友、東山五書から慶長2年(1597)に教えられたものだと

長野獅子踊之由来にあることから、今回、その恩に報いるための踊りになります。

 

山門前へ

 

かっぱ渕で有名な遠野市土淵町にある常堅寺は、文明18年(1486)に、この長泉寺(その時代はの名前は永保寺)

五世太聞秀宗和尚によって開山(大東町教育員会編「大東町の寺院」 一休さんの室町時代です。

ちなみに延徳2年(1490)機外慶俊和尚開山という説もありますが、

慶俊は1468年に亡くなっているので文明18年だと思われます。

 

誉め唄

この常堅寺の末寺として小友町の長野の西来院は出来たのですが、開山した年が、いつだったのか

正確にわかる資料はないようです。

長泉寺→常堅寺→西来院ということだけは間違いないようですが・・・。

資料で古い物は遠野古事記のようで、阿曽沼氏の時代には平清水平右衛門が寺領を寄付していたが、

寛文年中(1661~1673)の住持は花輪彦左衛門重政(後、重信と称す)と云い、(実は南部利直の子)

理由不肖ながら、西来院の住職となり、一生を終える。とあります。

花輪彦左衛門は南部利直の次の次を継いだ重信公から、50石寄付の打診を受けますが、断り、

八戸から遠野へ移封となった八戸南部氏の時代も、平清水平右衛門と同じ5斗1升1合を頂き、幕末となります。

 

本堂前に進み、ひと踊り後、

 

保存会長が代表して、手を合わせる。

上閉伊郡小友村郷土教育資料によると、豊臣秀吉の北条攻め(1590)以降、旧葛西領(江刺も含む)から

小友に移り住んだと言い伝えのある家が相当数いる地域のようです。

今回、道々思いましたが、江刺・水沢・一関から人目を忍んで遠野へ行く場合、小友へ山越えし、

尚且つ、金山に紛れ込むという方法が無難だったのかもしれません。

 

保存会長の挨拶に続き、お寺さんを誉めます。

 

岩手日報の記事によると、今回のしし踊り参加者は、5~86歳までの23人。

ししの数が少なかったのは残念でしたが、檀家の皆さんにも気持ちは伝わったのではないでしょうか。

 

普段着の姿は、ごくごく普通の人達でも、衣装を身に付けると、しし踊り伝承者に変身!

そんな姿に惚れてしまう笛吹です。笑

 

長老を中心に太夫の方々

 

檀家さん以外にも、昨年12月、遠野市伝承園で行われた追悼の踊りに来たツイッター関係者も大勢いました。

 

最後は柱がかり

 

今年最初の出番だったと思いますが、なんとか踊りきったようです。

 

奉納が終わると、御花を差し上げた皆さんを前にして、投げ草

 

そして、記念撮影

今回、なぜ、私に声をかけてくれたのか、理解できた瞬間です。笑

 

帰り際、種ふくべさんとお話をしていた御嬢さん

いつの日にか、太鼓系鹿踊と同じように遠野幕踊り系しし踊りにも、女性のししが登場するのだろう

と、益々、確信した奉納踊りでした。

 

 

 

 

 

 


お知らせです!

2018-03-20 20:35:21 | 郷土芸能

明日3月21日(水)、午前11時から遠野市小友町の長野しし踊りさんが

大東町大原の長泉寺で踊りを奉納するそうです。

 

長野獅子踊(以前の表示)は、東山大原長仙寺(長泉寺)より興庵篤隆と云う和尚が長野に西来院を

開創せしが、此の時、東山五書と云う友を一人連れ来り

慶長弐年の歳、東山五書長野に教え、子孫繁栄と踊り伝えたるものなり

獅子踊由来の巻物に記されています。

この縁をもって、明日踊るという事で、いわば里帰りということになります。

お時間のある方は、ぜひ、その様子を見に大原まで足を運んでみて下さい!

 


7年目の3.11

2018-03-11 20:22:29 | 地域

東日本大震災から今日で7年、犠牲になられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

私自身が現在おこれている生活状況もまた、震災と同じ歩みとなりますが、

もうそんなに経ったのかと思うばかりです。

 

今年1月末のこと

下積み時代の先輩が南三陸町志津川におり、仮設住宅で暮らしていましたが、

昨年自宅を再建したとのことで、大出早池峯・六神石・遠野郷八幡宮の各神社のお札を持って行ってきました。

南三陸町は震災後、500名以上の方々が亡くなった地域で、中でも防災対策庁舎での被害は、

多くのマスコミに取り上げられ、深く記憶に残ります。

 

現在の防災対策庁舎の廻りはご覧のように嵩上げ工事が行なわれていましたが、

建物自体は宮城県が震災遺構として残す方針のようです。

犠牲者の数や防災関連建物での悲劇という点では、岩手県釜石市鵜住居町と似ている地域でもあります。

 

そして、 先日、3.11を前に数回に分けて陸前高田市から大槌町まで廻ってみました。

陸前高田市は、松原があった海岸線で防波堤工事が現在も進められおり、

山を削った場所には、多くの復興住宅団地や戸建て住宅が建ち並び、

 

世紀の嵩上げが終わった場所には、市立図書館とショッピングセンターを中心に、商店等が建設されています。

市の仮設庁舎も今後、移転新設するようですが、建設場所で市民の意見がわかれているとのこと。

 

大船渡市

2階までは確実に浸水したであろう商工会議所の建物の側まで、防波堤が建設されています。

ちなみに商工会議所の建物は別な場所に新設されていました。

 

また、ホテルや商店が建ち並ぶエリアも出来て、訪問した日のお昼には観光バスも停まっていました。

 

釜石市唐丹町小白浜

学校や復興住宅が完成し、津波で倒された防波堤の復旧工事が進められています。

 

同じく唐丹町本郷

津波が越えた防波堤の嵩上げ補強工事も終わり、港への接続道路が一段高い場所へ工事進捗中。

 

釜石市鵜住居町

本文最初の南三陸町でも取り上げた鵜住居町ですが、写真左側上の山を削り嵩上げした場所に

学校ができ、平地でも嵩上げ造成が終了した場所から順に復興住宅や戸建て住宅が

建設され始めているという現状です。

また、来年開催のラグビーワールドカップのスタジアム建設も写真右奥で急ピッチで行われていました。

 

最後は大槌町

お地蔵さんの目線の辺りに残る旧大槌町役場庁舎周辺には、大規模な復興住宅や業務系建物が

建ち始めています。

旧庁舎は今も直なお、解体か保存かで意見が分かれている町です。

 

また、大槌湾では防波堤工事が今も進められ、小鎚川河口の水門工事も同様。

 

JR山田線大槌駅

JR山田線は宮古駅から釜石駅までの区間が復旧すると三陸鉄道に移管予定。

来年には、このように鉄道全線、そして、三陸自動車道の宮古・陸前高田間、

さらには釜石自動車道花巻・釜石間の全線が開通となり、震災復興のハード面は終盤を迎えることになりますが、

 

一方では、多くの仮設住宅が点在しています。

その供給会社のうち遠野に出張所を構えていた会社の撤退も決まり、順次、解体撤去も進められるとのこと。

 しかし、その後も大変・・・

それでも、しっかり前に進むしかないんだと自分にも言い聞かせる笛吹です。笑

最後に

今回、三鉄平田駅そばで床屋さんをやっている友人のところへも廻りましたが、

幸いにも客用駐車場に車があり、会わずに通過しました。

幸いにもと云うのは、彼も被災し、店を再建して商売していますが、

来客があると云うのは、頑張って商売しているという証しだと思っているからです。

また、そのうちに、覘いてみたいと思います。