「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

宮守野場豊受神社

2007-03-30 23:21:33 | その他
一如さんが下宮守鹿込周辺で見つけたという神社がどうにも気になる。私が3月10日にUPした「おでのさん」の3番目の画像と同じものなのか、それとも、これか?
                 
 宮守館周辺を散策した際に撮っておいた社なのだが、印象としてはすぐそばの朽ち果てつつある茅葺の建物の方が頭に残ったのだが・・・・。この神社の辺りが、かつての主要道といった名残をとどめる雰囲気を醸し出しているのは、やはり、茅葺の建物のせいか。

                 

 この「野場」という地名、英語教室の「NOVA」を連想してしまうのだが、「のば」が正しい読み方なのだろうか。

                 
 この神社の額には「豊受神社」とあることから、食物の神様であるようだが、少しだけ調べると衣食住の神でもあり、商売繁盛、厄除開運、無病息災、延命長寿となんでも御座れといった具合である。この神様の名を冠する神社も旧遠野では見かけない。額を見ているとこれを奉納したのが宇夫方何某氏であるようだ。現地で再度確認しないとわからないが、いつの時代のものなのだろう。宇夫方と言えば、遠野史ではお馴染みの苗字なのだが、この「NOVA」地域とどのような関わりがあったのだろう。江戸時代の宇夫方氏は各地で代官をしていたようなので、その時期に由来するものなのだろうか?それとも、宮守氏がまだ、健在だった時代なのか?またまた、興味深い。

上宮守下楡木八幡

2007-03-29 00:18:41 | 八幡
                 
 国道396号線上宮守産直サンQハウスのあるところから、北へ向かうと宮守で一番大きな建設会社の会長宅に着く。道なりに寺沢川があるが赤い欄干をもつ橋の手前右側に、平成15年に建替えられたばがりの新しい社が見えてくる。宮守郷八社の一ノ宮八幡社と願文には記されている。願主は19代目と20代目の菊池何某。大工は小友町のやはり同じ菊池姓の工務店。
 この道は今まで一度だけしか通ったことがなく、随分と前のことなので、社の存在そのものも記憶になかったのだが、川沿いの集落ということで、神社があるに違いないとの思いで寄ってみた。どんぴしゃ!
 この神社は八幡神社と八坂神社、そして早池峯神社が合祀されていた。謂れにつてはわからないが、近隣にあった3つの神社をまとめたものだろうことは想像できるのだが。

                 
 神社の上にある橋から上流を覗くと滝見橋の名前どおりの小さな滝?があった。人工的な匂いは感じるが、時間が経るとそれなりに味わいがでてくるだろう。いつの日にか風光明媚な場所として知られるようになるのかもしれない。

                 
 橋のすぐ上流を向くと小さい社が目に入り、近づくと不動尊とこれまた立派な石の鳥居にある額に記されている。会長の敷地内と思われる場所にあることから、氏神として大切にしているのだろう。この会長とは、上宮守川上流環境整備事業の一環として行なわれた遠野振興局時代のまちづくりの行事でお会いしただけだが、地域の活動にはかなり熱心に取り組んでいる印象があり、この滝見橋周辺の整備もうなずけるものがある。
 
 ここもかなりいいのだが、もっと気になるものがすぐそばに・・・・この橋を下に下がっていくと左側の小高い山の上に私を忘れていませんかと言いたげな神社がある。元村会議員をした方の裏手の山にあたるようだが、時間をみつけて正面から挑戦したいと思っている。
 
 川のあるところに集落あり。集落あるところに社あり。社あるところにまた社あり。社の始まりが何であったかは、不明となりつつあるが、鎮る姿勢だけは変わらずと願うばかり。

成島毘沙門天

2007-03-25 23:52:36 | 歴史
                 
 兜跋毘沙門天立像(とばつびしゃもんてんりゅうぞう)
花巻市東和町成島にある毘沙門堂に安置されている仏像。高さ4.7m 一木彫でこの種では日本一とか。
 毘沙門天は北方の守護を掌る神として崇拝され、岩手では平安時代から信仰が厚く、沢山の毘沙門天が建立されたという。この成島の毘沙門天は、猿ヶ石川のすぐそばの熊野神社境内にある。そもそも熊野神社なのだ。熊野神社は延暦21年(802)坂上田村麻呂が紀伊の熊野三山に戦勝祈願したことが始めとされる説もあり、陸奥征討と熊野とは深い関わりがある。また、猿ヶ石川のほとりにこの神社を建立したことから、奥地へ入るに際しては川沿いに上流を目指したことにもなる。かつて猿返君が中央へ移動させられたわけだが、田村麻呂を始め、時の征服者は仏教を通して統治していったものと考えられる。

                 
 平安時代前期の貞観4年(862) 胆沢城造営の60年後に造られた仏像であるが、造営年代を記した最古のものである。この仏像には、物部姓や保積姓の方々の名前が記されている。胆沢城は田村麻呂が陸奥経営の拠点として造営したもので、鎮守府を多賀城から移し、城の周辺に7000人、胆沢開拓に7000人を配したという。相模や甲府、武蔵国の浪人を入植させたと伝えられる。

 遠野は胆沢城を拠点とした人々によって、猿ヶ石川沿いに徐々にその統治下に納められ、大和の国の一部となっていったのだろう。
その後の安倍氏・藤原氏の時代においても基本的には、遠野の姿は大きく変わらず、開拓された地域ごとに管理者が置かれ、熊野をはじめ、その時代に流行った宗教とともにお堂が造られ、田をおこし、金や鉄鉱石を掘りながら入植したものと在地民とが共存状態を保ちながら生活していたものと想像される。

さて、明日は小学校を転任される先生方の送別会。仕事は相変わらずだが、肝臓は休養十分なので、遠野の最後の思い出に一曲?ご披露しがてら、歴史好きの先生と懇親を深めてきたいと思う。

上郷荒神

2007-03-24 22:18:06 | 荒神
                 
 上郷町の駒形神社から曹源寺に向かう途中の道路から左手に見える。この道を通る度に気になっていた神社だった。例によって田んぼにぽつんと建っており、どなたかの氏神的な神社であることが想像される。上郷聞書にもその名前は確認できない。道路から100m以上は離れているが、黒瓦の立派な建物だということだけはわかる。

                 
 あぜ道を歩いて近づくと石の鳥居もあり、荒神宮の額が掲げられている。きちんとした形で荒神を祀る神社は遠野ではめずらしい。そもそも、荒神はかまどの神様と記憶している。かまど神は火の神でもあり、県南地方(伊達領)では、住宅の台所のかまど付近に鬼の顔を現したような木彫り面を祀るところが多い。一般的には荒神は氏神としての意味合いもあり、主家の東北に祀るようだが、関東から九州地方で盛んに信仰されてきたものでもある。一山越えれば伊達藩ということもあり、境を越えた交流が行なわれてきた上郷ならではの神社という気がする。

                 
 神社の西側、早瀬川向かいには、むじな堂で有名な曹源寺が見える。そこから見てもこの荒神は南東にあたるので、関係はなさそうだ。いずれ、田んぼの持ち主の方のものなのだろうが、神社脇に並ぶ木々のひとつに雷が落ちた跡とも思える痕跡があったが、火の神ならぬ雷神のほうが似合うとひとり思う。
 荒神=火の神は不浄を清める意味もあるようなので位置関係からすると繋稲荷のある繋地域を守るのに最適な社だと感じた次第である。

糠前稲荷神社

2007-03-21 22:29:17 | 稲荷
                 
 久しぶりのUP。忙しさは相変わらず続くが、風邪も治り、体調も良好なので、仕事の疲れはあまり感じない。
 本日の神社は、青笹町善応寺から飯豊方面を眺めると田んぼの中にある社。地名地番でいうと青笹町糠前33地割字中野。現在、砂利屋さんが田んぼの土の下から砂利を取っている場所のすぐ隣。善応寺があったという場所のちょうど北側に位置する。

                 
 この中野地域は、JR青笹駅南側の中妻同様に佐々木さんの密集地でもある。田んぼの中にこんもりと茂る木立に隠れ赤い鳥居が目に入る。近づくと稲荷さん特有の鳥居の行列が社まで続く。この社の持ち主と思われるお宅がすぐ隣にあり、屋号を「喜兵殿」という。この名前は何代も襲名しているので初代がいつ頃の人かはわからないという。ただ、近所に点在する同姓の方々のうち、2代目が宝暦年間に亡くなっている家があり、江戸時代前期には一族がこの地に居たことは間違いなさそうだ。ちなみに稲荷さん隣のこのお宅に関わりのあることが、遠野物語拾遺266,267,268に登場している。

                 
 現在砂利採取をしている場所を覘くと川砂利が沢山埋もれている。河内川が現在の位置に落ち着くまでは、この田んぼ周辺もかつては河川敷内の場所だったことがよくわかる。

 ●素朴な疑問●
 河内川と稲荷神社との間に、かつて、六角牛山善応寺があったのだが、なぜ、ここだったのかということ。六角牛を名のる寺でるからには、その登り口に位置するのが適当なのだと思うのだが。上郷町暮坪と青笹町瀬内にはそれぞれ神社が残っているが、それと善応寺との関わりはどうだったのだろうか。
南部氏が統治するようになってから、市内新町へ移り、後、現遠野小学校敷地内へと移動させられたのには、それなりに訳があったのだろう。六角牛山を神とする寺院としての性格のみならず、笛吹峠、上郷、土淵、松崎、鍋倉との交通の要衝に在ったことだけは間違いなさそうである。