「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

附馬牛

2007-11-25 23:59:21 | 景色
 「早池峰山妙泉寺文書」所謂「宮本文書」を此の所、ず~と読んでいる。先週は、雪が降ったり、晴れたりと、どうもパッとしない天気だった。(下の写真は、11月22日のもの)



 妙泉寺の由緒に興味があったのではなく、妙泉寺から、善応寺や東禅寺のこと、そして、見えにくい遠野の歴史・郷土芸能のことなど、思いっきり欲張って、パンパンに膨らんだ空想を描き続けているのだが・・・。

 11月25日、気晴らしに、附馬牛まで。



 連休に入ってから、良い天気が続き、里の雪も消えた。



 蓮池は日中にも関わらず、氷。



 かつての早池峰神社の写真。



 そして、同じ石碑。道路が、高くなって台座が埋もれているのがわかる。



 山門。コケと古くなった萱、そして、白いもの。



 右手:神社境内、中:大橋商店周辺。茅葺屋根の里。配置は今もそれほど変わってはいないようだ。



 神社左側の道路沿いにある萱場から薬師を望む。



 道路脇には、なぜか、タンポポ。葉は枯れているのに、花だけが。(どうなっているのか、この気候)



 帰りしな、東禅寺川からの夕暮れ?まだ、3時過ぎなのにこの暗さ。

 
 阿曽沼氏は、馬越峠を越えて、駒木の堀合に草鞋を脱いだと一説には云われている。綾織の砂子沢ではなく。下野国に居たとされる阿曽沼氏がなぜ、遠回りとなる達曽部経由の馬越峠を来なければならなかったのか、ずっと不思議に感じている。それと高屋四郎なる人物が同道したとされるが、南部家臣にも同姓同名の人がいることも。

 また、阿曽沼氏に関係する伝承は、どちらかというと、綾織から鱒沢に多く、これは代官だったとされる宇夫方氏に起因するものと思うのだが、館のあった松崎には、宇夫方氏の影すら見当たらない。

 妙泉寺文書では、開山当時の領主は不明となっており、阿曽沼氏が初めて登場するのは、文安元年(1444)遠野領主阿曾沼参河守入道禅頭という人からであり、この人が、横田城下に一精舎を建てたのが、横田妙泉寺の始まりとなる。この時の横田城(館)とは、どこだったのだろう?永享の変(1437)の際に護摩堂城を攻められているので、現在の鍋倉に移った直後のことだったのだろうか?それにしても、気仙勢から攻められているのに、気仙に近い場所に移動するのはどういう訳があったのだろう?疑問は尽きない。

 ところで、大出妙泉寺は何度も修理・再興されているのだが、最も古い記述として、その再建に尽力している固有名詞が登場するのは、宝治2年(1248)で、前年に焼失していた堂宇を遠野住「紺野新左衛門尉」が寄進している。この人は誰なのだ?ず~とひっかかっている人物。横田住ではなく、遠野住であることも気になる。

 宝治元年とは、鎌倉時代で、執権北条氏がかつての源頼朝恩顧の武将を次々と倒していった仕上げの時期でもある。この最後に、千葉氏や三浦氏はクーデターに失敗し、関係した人々は、糠部得宗領に逃げ込んだとされている。この時に糠部周辺にやってきたのは、遠野に縁のある苗字の方が多い。

  抜粋

 佐野、小笠原、武田、加藤、葛西、田中、横山、佐々木、工藤、名久井、阿部、和田、角田、小山田、伊豆、藤沢、平、橋本、青木、山口、石田、米田、高橋、稲葉、中村、久保田、中里、福田、浦田、藤田、中山、小泉、太田、中村、金沢、古川、荒川、田代、川井、木村、大久保、赤坂、木戸、関口、久保、岩崎、山田、佐藤、西村、林、大森、成田、浪岡、曽我、小向、上野、高木、平山、橘、平沢、山谷、平野、中田、長沼、村上、高谷。etc

 こんなに載せても、私の苗字はない。


教えてください

2007-11-21 00:24:11 | 歴史
 只今、調べ物中です。早池峰山妙泉寺の宮本氏は、明治3年?に神仏分離となるまで、大出に住んで居られたのか、それとも、現遠野小学校にあった妙泉寺に居られたのか。また、同じ三ヶ寺の東善寺と善応寺縁の方々がその後どうなったのか、その三ヶ寺の建物は、どう処分されたのか。
 いずれかについて、おわかりの方、コメントお願いします。

気まぐれな天気

2007-11-20 14:01:37 | 景色
 先週末、市内をひと回りするついでに、高清水まで。



 天気予報では、日曜は雪。



 今年最後の雪のない風景かと思いながら。



 そして、土曜の夜。古くからの友人の新宅祝いに御呼ばれして。続石は、遠野で店舗数売り上げ共№1のスーパーに勤める社長の片腕。



 招かれた顔ぶれのほとんどが中年ということもあり、、海のものが盛り沢山。この後のご馳走は、酔っ払いの手ぶれで、紹介かなわず。(奥さんごめんなさい)



 かねてより、お祝いの時に飲もうと云っていた右端の日本酒。風邪気味で若干、体調万全とはいかないものの、飲める口が参加者のうち二人だけとあっては、これだけで十分かとも思ったのだが、飲み始めると、風邪もなんのその。ビール、日本酒、焼酎と大変おいしく頂いた次第。



 そして、月曜。仕事で、巡回中の綾織町の清養園。天気予報はよく当たる?予想以上の積雪にて山のみならず、平地も冠雪。



 年から年中、スタッドレスタイヤで走る私には、少しの雪には驚かないが、一気に降られると、微妙な気分。



 日中には、融け出し、遠く六角牛山が雲から見えるとご覧のとおり。



 雪が消えた木の葉も、また、顔を出し、これから先は、このような天気の繰り返しとなろう。

 最後に一言。

 夢のマイホームが実現し、家の中が片付くと、次に気になるのが、家の周りの庭。「家」と「庭」の両方が整ってはじめて「家庭」が築かれると云うのだとか。

早池峰

2007-11-17 10:56:37 | 景色
 とうとう冬がすぐそこまでやってきた。天気予報では、日曜日に雪のマークが。仕事で、外にでると霊峰早池峰山には、白いものが見える。



 先日、通行止めになる前に行ってみようと思い立ち、そばまで行ったのだが。



 気持ち程度の雪があった。



 荒川高原から、風力発電の風車が望める。「私は、山猫か?」と自問。この道を通ったのはいつのことだったろうと思い返す。



 登山口のひとつ小田越にある山荘。建物も少しだけくたびれているようだ。実はこの建物、私の父が建てたもの。もう20年近くになるような気がする。「誰も、そこまで行って工事をしたくないような物件ばかりを請け負って。」と母が云っていたのを思い出す。そういえば、土淵の水芭蕉の遊歩道もそうだった。



 荒川から行くとこんなに遠かったかと思えるくらい距離があるのに、大迫口は、現在の道路がよいので、すんなりと麓へ。そして、大迫と云えば、神楽。画像は大償神楽の里。



 そして、遠野早池峰妙泉寺との本坊争いの相手となった山陰氏縁の田中神社。大迫では、遠野の始閣藤蔵と大迫の田中兵部が早池峰山頂で出合ったことが、早池峰神社の起源となっている。



 江戸の寺社奉行にまで行って不服申し立てを行なった遠野妙泉寺であったが、南部藩のことは南部藩で良しなに解決するようにという調停を受けた形で、盛岡では両本坊という結果となる。かつての大迫町長が、遠野と川井と大迫の境界を定める時に、遠野側では、始閣藤蔵の話を持ち出したと云って憤慨していたが、そもそも、両本坊となった時点で、境界は定まったと遠野側は理解しているようだ。いずれの時代にも、境争いは尽きない。5㎝でも裁判をする民族なのだから。でも、よく思うのは、地球の陸地は常に動いていて、GPSによる測量ですら、誤差はあるのにと。



 秋と冬が混在しながら、真冬へと季節は移る。里に雪が積もるのは、そう遠くはないのかもしれない。

津軽路

2007-11-15 19:51:55 | その他
 30年ほど前の遠野には、茅葺屋根の建物が点在しており、遠野物語を彷彿させる風景が残っていたが、現在は、数えられるほどである。その茅葺の屋根が改修時期に入っていることを以前に紹介したわけだが、今回、このような屋根工事の先進地とも言える青森まで行ってきた。



 昨日の遠野は、とても寒く、フロントガラスが凍って見えない中、出発時間の朝7時に集合場所へ。そして、バスにて、東北自動車道を北進。雲からわずかに見える岩手山頂上付近は雪化粧。



 これからしばらくは、山とトンネルが続くので、1時間30分は、寝不足を補う。そして、弘前の町外れに入る。(何回か弘前方面には行っているのだが、弘前城を見たことがない。お恥ずかし)屋根の茅葺途中の民家の見学。青森は雨。そして津軽の霊峰岩木山は見えず。



 黒石に行く途中立ち寄った建物。「楠美家」梁間12.4m、桁行29.9m、床面積507㎡の明治期の元住宅。使用している木材は秋田から運んできたもの。現在は、五所川原市が展示施設として移築利用。



 内部の一部は、木組が表しとなっており、煙抜きや茅を長持ちさせる工夫がされている。



 黒石市内に入り、茅葺屋根のお寺を見学。



 市街地にありながら、茅葺屋根を守っていることに驚く。遠野でも何度も市街地は大火に見舞われているのに。



 二層屋根の鐘楼堂の上の屋根も茅葺き。そして、個人的に興味を覚えたのは、これ。



 明和年号の石碑。津軽でも、お目にかかり、あらためて、この「明和」の時代の背景が気になる。

 黒石には、数年前、こみせ通りと呼ばれる旧黒石商店街を訪れた。「こみせ」とは、今風に言えば、木製アーケードになるのだろうが、冬に店先を歩けるように設けた屋根付歩道で、日本海側の商店街に見かけることができる。これを活かした中心市街地活性化の事例研修で行ったのだが、今、その話題がマスコミに流れることはないようだ。



 吉幾三のグッズを扱う幾三ハウスや太宰治の生家「斜陽館」を車中見学(以前見学済み)して、今回の目的地「中泊町」へ。弘前や五所川原の北、竜飛崎の南、十三湖のほとり、岩木川の河口の町。橋の下周辺の河原に生い茂るのは、「枯れすすき」。
 ではなくて、「葦」(よし)。遠野の屋根は「茅」(かや)。その違いは、「葦」は、小沼や河川敷の低湿地帯に生え、長さ1.8mから3.6m。茎の中が空洞で、雨にぬれても乾燥しやすい。一方、「茅」は主に野や山に生え、見た目は硬そうなのだが、芯が綿状で、水分を吸収しやすい。おわかりのとおり、屋根材としては「葦」のほうが上等であり、その栽培?状況を視察。河川敷の距離にして25kmもの広大な土地に自然の株を残しながら、刈り取り、使用している。遠野の茅場とは、天と地の差。それだけ、津軽には、屋根材として需要があるのだろう。
 遠野では、「葦」が育成できる自然条件が整わないため、自然の「茅」を使用してきた歴史的事情があり、ここと同じことはできないが、今後の需要を見込んで、相当規模の茅場の確保が必要となり、その意味では、参考となる。また、多数の茅の中から、良質なものを選択していければ、葺き替え期間の延長が可能となるだろう。

  ●ふと思ったこと●
 
 幾三ハウスは沼のほとりに建っており、生家は津軽平野の中。この沼にも、「葦」が生い茂っていた。「吉幾三」の「吉」は「葦」からきたのだろうか・・・・。などと要らぬ空想。
 また、雨にぬれたまま車内に戻ると、頭が涼しい人達が、「雨が流れるのが早くて困る」と云って笑わせると、それに対して、「差し茅」(さしがや)をすればいいべ~」と返答して、また笑わせた。「差し茅」とは、茅葺屋根の茅が傷んだり、薄くなった部分を茅を差し込んで補修することを云う。このバスに同乗した人達の間では、しばらくこれが流行語となりそうな気配である。