里に雨が降った次の日のこと
いつもの道とは全く別な脇道から荒神と六角牛を望む
山では雪になっていたようだ。これって3回目かな?
そして目的地へ
上郷町佐比内まで
民家へと続く細い道路の正面にある神社
毘沙門
「御領分社堂」には、上佐比内村(紫波の佐比内は下佐比内村) 毘沙門 俗別当 源十郎とある
上郷村誌・上郷聞書をみても記述は無いが、江戸時代には存在していたことは確かであり、近年建立された福泉寺のものを除いては、遠野ではここだけなのかもしれない。
毘沙門は古くは胆沢城から徳丹城までの間、北上川東側の北上高地に坂上田村麻呂に関わる謂れと共に多く見られる。
金神と大峰を奥に控える鉱山の地を感じる金神と、何を指すのか明確には不明な大将軍の碑
正面は月山・・・かつては山の頂に三間四面茅葺寄棟のお堂があったようだ。
興廃した月山神社を麓に下げ、近辺にあった沢口観音と宇迦神社を同一敷地に移したと聞いているが、いずれ訪問したい。
この月山はこの地に移住してきた太田一族が建立したものだと云われているが、どこからの移住だったのだろう?
そして、今朝
寒いと思ったら、中村の37号には雪が降っていた。
以前、この荒神さま、をとりあげた際、愛染院という山伏にふれたが、一如さんとのやり取りから気になることがあり、再び資料を確認する。
寛政七年(1795)三月の「宗門改覚帳」によると、
愛染院 70(歳)
女房 61
嫡子 龍樹院 33
女房 33
龍樹院子 左七 5
松之助 29
女房 28
朝日養女 榊 18
朝日 52
吉 23
〆10人内 修験2人 神子2人 俗男3人 俗女3人
同集落では、「しらあの祭文」で知られる蓮珠院の家12人に次いで大きな修験の一族であったようだ。後年に愛染院本家は遠野を離れたと聞いているが、おそらく、この系統の家が集落内には残っているだろうと想像できる。
先日、温暖化などと云った途端にこれ!北国の師走の天気は読めません。
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