「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

綾織八幡宮

2008-01-31 23:06:05 | 神社
 気にはなっていたけれど。


前回の聞称寺隣りにある神社。旧道沿いの参拝口はあるのだけれど、調べてみても、これといった古い伝承も見当たらず。



 遠野には、ありがちな石碑。ここは山の神。


 
 正月に参拝した方がいたのだろう足跡があった本来の登り口。



 そして、現在の入口。しかし、雪が積もっていて足跡も無し。



 きれいに整備された石段を登る。途中の踊り場周辺は、山の地形になりに平場となっている。



 登りきると平な広場が広がり、目に飛び込むのは、忠霊塔。



 先の大戦の犠牲者の方々を奉ったものなのだろう。



 そして、本来の八幡様。本殿は流れ造りの質素なもの。拝殿はモルタル塗りの簡易な建物。



 遠野にある神社をかなりの数、廻っているが、この名前を冠した神社で、これほど、寂しさを感じるところはない。戦時中は、市内のどこでも行なわれたように、ここでも、戦地に赴く人やその家族の多くがここに参拝に来たのだろうと思うと、気持ちは、なぜか、右肩下がりとなる。



 ここから、猿ヶ石川向いの二郷山を望む。

 綾織町内にあるどの神社より、境内をこれほどまでに整備しておきながら、その信仰が薄れると、こうなってしまうのかと思うと言葉が出ない。



 帰りの道すがら見える風力発電の風車周辺には日が射し、何ともいえないいい天気。

 あの八幡様のある場所は、小峠から砂子沢を通って附馬牛に抜ける角地にあり、地形的にも、かつて何らかの建物があったとしても不思議ではないと以前から感じているのだが、戦争の傷跡が色濃く残るせいか、なかなか情報が得られない。当然の如く、いつもの江戸時代の社寺関係の資料には、この名は見出せない。探る手立ては、本殿の棟札か。

駆込寺

2008-01-27 22:55:44 | 物語
 綾織小・中学校の北側にあるお寺さん。浄土真宗大谷派巌瀧山聞称寺。時代は定かではないが同町新里の宮ノ目にあった阿弥陀堂が前進で、順了尼という女性による開山とされ、東本願寺から号を受け、現在地に移ったのは、明暦4年(1658)。 善明寺が養安寺から大工町に移り、万通寺も四日市から現在地に移った2年後、そして善明寺に五輪塔が中川原から移された時代、大慈寺が光興寺村から大工町に移った時代と同年代のことである。


(光興寺と宮ノ目との間、角鼻より落合を望む)

 この聞称寺に関わる話のひとつに、宮守村の肝煎金右衛門が寛政年間(1789~1800)に綴った「諸御用留書」にある出来事を、故鈴木久介氏が紹介したものがある。



●寛政11年(1799)5月16日
 上宮守揃木に住む長八の嫁が、綾織村大久保の聞称寺に駆け込んだことを綾織の吉左衛門が長八に知らせた。(嫁の名は、おまつ。綾織村大久保の生れである)

●5月17日
 夫長八は、弟の善吉を、大久保の吉左衛門と聞称寺に、それぞれ、お礼と挨拶に向わせる。翌日、善吉は大久保にいるおまつの父、六之助の親類である善之助と共に聞称寺を訪ね、おまつを返してくれるように何度もお願いする。和尚の秀導は、おまつが帰りたいというのであれば返すが、そういう気持ちにならない以上、返しようがないと答える。(秀導は、7代住職で、気仙郡吉浜村の真稍寺に生まれ、聞称寺の養子になった人物である)



●6月4日
 夫長八の親類である忠吉とおまつの父六之助の親類である高畑の徳松、そして与斗治は聞称寺を訪ね、また、おまつを返してくれるように頼む。和尚は先日も長八と六之助の親類が来たが、おまつが帰りたいといわない以上は返せない。おまつをどうするかは、あなた方の指図を受けて決めることではない。聞称寺の寺法によって決めることだと答える。



●7月6日
 おまつの父六之助と親類の万太、組頭の伝兵衛が寺を訪ねる。和尚は、おまつの気持ちが全く変わっていないと云うばかり。

●7月8日
 六之助と夫長八、組頭長二郎と金兵衛の4人が代官を訪ね、再度、寺にお願いに行ったほうが良いか相談する。代官は、聞称寺ではおまつを返さないだろうから、口上書を差出す準備をしたほうが良いと勧める。4人は、この帰りに寺を訪ね、また、お願いしたが、答えは同じだった。(口上書とは、みくだりはん。離縁状のことで、その書式として3行半で書くことから由来する)
 翌日、長八と六之助、そして、長名、長名長の与右衛門の4人が、また寺を訪ねるが、同じ答えであった。
(江戸時代の遠野の村や町では隣近所の5~8戸単位で組が組織され、年貢や租税の上納する際に共同責任を担わされており、その組の代表が組頭。長名は村役のひとつで肝煎を支える長老・相談役のような役柄)



●7月17日
 夫長八とおまつの父六之助は、長名の佐助と長二郎を頼んで寺を訪ねる。和尚は、長名衆が相談の上で、おまつの身柄を引取りたいというのであれば返したいが、おまつの決心がどうなのか、わからないので、直々に会って帰るように勧めてはどうかと提案される。しかし、会ったおまつには帰る意思はなかった。また、寺には、郡山(現、紫波)から来ていた他の寺の和尚もいて、六之助におまつの祖母を連れてきて説得してみてはどうかと勧められ、試みるがおまつの気持ちは変わらなかった。そして、和尚から、これ以上の説得は控えるように申し渡される。



●9月5日
 城(横田館)では、御目付の是川彦作、下郷代官の及川五右衛門におまつを尼にすることを寺へ申し付けさせる。そして、寺にて御目付、代官、宮守村の肝煎、長名の立会いのもと、おまつを剃髪して、尼にした。



 この小さな山里のお寺に、駆け込み寺・縁切寺のような出来事が実際にあったのである。



 腕力や権力でさえ、介入できない世界がそこにはあったという事実。それは、どこのお寺にでもできたことではないのだろう。出てけ!出ていってやる!だけでは、済まされない運命共同体ともいえる村組織を、これだけ動かしても、家を出たおまつの心境はどのようなものだったのだろう?その後のおまつの消息は不明である。



 春になるとさらなる北の地へ帰る白鳥。「いつ実家へ帰ってもいいよ!」と云いながら、時間があれば、毎日、実家へ顔を出す我家の妻君。



 この事件の顛末を思い浮かべながら、妻の遺伝子を色濃く受け持つ娘達のピアノの発表会を観る長八ならぬ私。ご静聴ありがとうございました! 


 

彫刻を訪ねて 其の参

2008-01-22 18:25:27 | その他
 福泉寺から始まった東和町の人、小原樗山(おばらちょざん)縁の彫り物。「宥尊と福泉寺」という書を読むと、本堂の建設には、近在の大工達が奉仕のような形で参加したことがわかり、福泉寺初代宥尊その人と東和町との関わりが記されている。おそらく、その縁で、当時の南部の名工と云われた高橋勘次郎の弟子である小原喜代治(号樗山)に彫り物を依頼したのではないかと考えている。

 さて、その樗山作で、花巻市の文化財にもなっている胡四王神社。



 花巻市の宮沢賢治記念館へ行く坂道を登ると、賢治記念館はこの時期にも関わらず、沢山の観光客が訪れていた。子供から大人まで賢治ファンは多いが、つくづくメジャーだなあと関心しながら、さらに登っていくと鳥居があり、そこから数百mで、この神社に辿り着く。当然の如く、誰もいない。



 遠野を出るときには吹雪だったが、こちらに着くと青空が見えるが、杉木立のせいか薄暗い。そして、神楽殿と社務所、そして、拝殿、本殿。



 拝殿は樗山の師匠、二代目高橋勘次郎の作。慶応2年(1866)。



 神社の額は、花巻の画家小野寺周徳の筆によるもの。



 勘次郎は昇降龍が得意だったされる。



 黙って観るのみ。



 両脇の回廊には、額に入った龍。

 樗山作の本殿へ廻ってみる。大正元年の作。(福泉寺本堂と同じ年。やはり、福泉寺の彫り物は、その部分を東和町で大部分を作製し、現地ですり合せをしたものと思われる)



 石垣の上に築かれた上に、拝殿の屋根が近いため、観たかった獅子に近づくことができない。曲がった梁(海老虹梁)の右側の木鼻に、間違いなく、それが付いている。



 性能のいい私のカメラでは、これ以上のズームは叶わず。



 ここにも亀が。



 準備なしに来たので、これ以上の成果は得られないと名残を惜しむ。



 この山から、北上川を望む。そういえば、新幹線の新花巻駅周辺は胡四王という地名だったような。この神社に由来する地名だったのだと一人納得。

  後日調べてみると、

 大同2年(807)坂上田村麻呂が薬師如来を安置したのが起源とされ、天文年間(1532~1555)の火災で一時衰微したが、稗貫氏や南部氏から篤く信仰され、江戸時代には胡四王堂と称し、胡四王別当は3石2斗を賜る。羽黒派明照坊支配。
 文化15年(1818)別当が神道祠官になってから、本尊を薬師如来から大己受命、少名少命に改めた。



 これは、向拝(下屋)の柱の模様。



 こちらが、福泉寺本堂の柱の模様。

だからと云って、どうと云う事ではないが、同じようなデザインを見ただけでも、縁を感じてしまう物好きな童子である。


彫刻を訪ねて 其の弐

2008-01-21 17:56:54 | その他
  先を越されてしまった!涙 遠野ブログ歴史班班長のとらねこさんには、わかりやすいヒントとなったようだ。(これでも、どうしようか悩んだんだよ~)

 推察のとおり、常賢寺の仁王門。



 昨年より、何度となくお邪魔しているお寺さん。本堂から蔵まで、ご住職の案内で、様々な物を拝見させて頂いているのだが、ここの仁王門は、本堂から考えると全く別な方が造られたもので、時代も異なる。と云う事ぐらいは、私にでも理解できる。

 本題:この仁王門が小原樗山(おばらちょざん)作であった。



 飲み会での偶然が、もたらした成果。



 本堂と仁王門という構造上の違い故に、全く同じに造るということはできないのだろうが、目の廻りの雰囲気は、やはりといった感じがする。



 左右とも、立派。



 この亀もリアルである。(個人的にはガメラと呼ばせて頂いている)



 とらねこさんのホームページにある福泉寺関連の説明によると大正元年に完成して許認可が大正6年とあり、、常賢寺の門は大正8年。ご住職のお話では、妙泉寺から明治の神仏分離令によって、この仁王様が常賢寺に譲られた当初は本堂の庇の下に、置かれていたようで、この門ができるまでは、雨風にさらされていたという。

 ひょんなことから、つながった小原棟梁。地元の大工さん達の間では、小原流と呼ばれ、一目も二目もおかれている存在。

 こうなると、この棟梁の代表作と云われる社を見に行かなければ!

 

彫刻を訪ねて 其の壱

2008-01-20 16:28:24 | その他
 宮洞家の裏庭を通り、目的の建物へ。



 目指すは、福泉寺の本堂。



 何年振りに訪れただろうなどと思いながら、まがって見る。



 うん!確かにすばらしい!



 建物の高さが無いだけに、彫刻がはっきり見える。



 小原樗山(おばらちょざん):

 1862(文久2)年生~1927(昭和2)歿年
花巻市東和町小山田出身・初代高橋勘次郎(1793-1865)の大和流彫刻の流れを伝承する家細工(その流派を継承する彫り手法)の第一人者

 と、以前、とらねこさんのところで紹介された名工。

 この方の作品について、今年の某団体での新年会で、現代の名工菊池恭二氏から、大変貴重なことを教えて頂いた。

 そこで、こちらへ。